現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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◆フリードマンとピノチェトは二度死ぬ――新自由主義と決別するラテンアメリカ 』2007/1/7


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フリードマンとピノチェトは二度死ぬ
――新自由主義と決別するラテンアメリカ           
『労働情報』2007年1月新春号掲載
太田昌国


                     (一)

 去る11月16日、米国の経済学者、ミルトン・フリードマンが死んだ。一ヵ月後の12月10日には、チリ軍事政権時代の独裁者、アウグスト・ピノチェトが死んだ。

フリードマンは94歳、ピノチェトは91歳だった。天寿をまっとうした人生だった、とするのが、この世の常識的な捉え方ではあろう。

だが、ここでは、そうはしない。生物学的な死を迎えたこのふたりには、私の考えでは、いずれ、二度目の死を死んでもらわなければならない。しかし、なぜ? そして、墓掘り人は、どこにいる? この文章では、そのことを考えてみたい。


 ピノチェトが指揮したチリ軍事クーデタ(1973年9月11日――世界現代史には、こんな「9・11」もあるのだということを忘れないでいたい。「9・11」の悲劇を、米国の独占物にさせてはいけない、と私は考えている)から三年目を数える1976年、フリードマンはノーベル経済学賞を受賞した。

「金融理論分野での功績」と一般的には報道されたが、1912年生まれの彼が60年代以降強力に主張してきたのは、「小さな政府」論に基づいて市場原理を重視する政策であった。

政府が財政政策を通して市場に介入することを批判し、貨幣政策と市場での自由競争を通して経済成長をもたらすことを主張したのである。言葉を換えるなら、いまとなっては珍しくもない「市場万能主義」の主張である。


 その理論は、まず、軍事クーデタ後のチリで「実験」された。フリードマンが長いこと教鞭を取っていたシカゴ大学からは、彼の理論を信奉する「シカゴ学派」の経済学徒が数多く輩出した。その「シカゴ・ボーイズ」がピノチェト軍事政権に招かれてチリに赴き、経済政策の顧問団を形成したのである。


 打倒されたアジェンデ社会主義政権下でいったんは国営化されていた各種事業の私企業化、外資の積極的な導入、貿易と資本取引の自由化、財政赤字の削減、関税の引き下げ、労働市場の柔軟化――「シカゴ・ボーイズ」はピノチェトにそのような政策を採用するよう「指導」した。

それによって、ピノチェト時代のチリを礼讃する者の多くが鸚鵡返しに言うように、確かに「インフレ抑制と景気回復は果たされた」かもしれない。

だが、貧富の格差の激しいチリ社会にあって、何よりも社会的公正さと平等を追求していたアジェンデ時代の良き成果を顧みることなく、これを打ち捨てることによって実現される「インフレ抑制と景気回復」とは誰にとっての利益になるのかという問題意識を、件のボーイズもピノチェトも、持つことはなかった。

だから、軍政期における極端に高い失業率(18%)にも、実質賃金水準の低さにも、彼らは何らの関心も払わぬのである。

しかも、この「景気回復」なるものは、軍事政権の常として、労使関係を律する労働法規が事実上存在しなかったことをはじめとして、反体制的な民衆運動に対する徹底的な弾圧を裏面にもっていたことに触れておかなければならない。


 それから数年後、フリードマンの名はますます世界的にも聞こえるようになる。

1979年、英国にサッチャー政権成立。81年、米国にレーガン政権成立。82年、日本に中曽根政権成立――これらの国々にあっては、これ以降、規制緩和政策、国営企業の私企業化、市場経済化、金融自由化、行財政改革などの構造改革、教育バウチャー(利用券)制度の導入など、フリードマンに源を発する経済用語を急速に見聞きすることになる。

これら一連の政策が施行された場合に社会がどんな状態になるか――国鉄・NTTの私企業化に始まる四半世紀ほどの歩みを体験し、目撃してきた日本の私たちも、遅ればせながら身に沁みて知りつつあるというべきだろう。


 つまり、グローバリズム、あるいは新自由主義へ拝跪すること――フリードマンが提唱するそれを世界に先駆けていち早く実践した「優等生」が、チリのピノチェト政権であった、ということである。


                    (二)
 チリにアジェンデ社会主義政権が誕生したのは、1970年のことである。前年の一般選挙において、アジェンデは過半数を得票して大統領に当選した。世界史上はじめての、選挙を通じて成立した社会主義政権である。


  東西冷戦下の米国にとって、この事態は衝撃的だった。1959年キューバ革命の後、ラテンアメリカ大陸の都市部と農村部では「キューバの先例に続け」とばかりに、反帝国主義武装ゲリラ闘争が広がった。

その闘争の象徴的な人物であったチェ・ゲバラが、1967年10月、ボリビアでゲリラ闘争を展開中に政府軍に捕えられ銃殺された。これを契機に、各地でのゲリラ闘争も次第に弱体化していった。

ところが、ゲバラの盟友であったアジェンデは、ゲバラの死から三年後に、「銃なき革命=チリの道」を切り開いたのである。大陸南端部に新たな社会主義政権が平和裏に樹立されたことは、米国にとって地政学的な意味における重大事件であっただけではない。

チリに豊富な鉱物資源や電信電話事業は米国企業の手中にあったが、ここから得ていた膨大な利益を、社会主義政権が実施するであろう国営化政策によって失うかもしれないという意味においても、重大だったのである。


  米国政府機関はCIA(中央情報局)を通じて、私企業はITT(国際電話電信会社)を通じて、チリ革命を潰すための工作を始めた。【その後の過程は詳述しないが、関心のある方は私の「もうひとつの9・11とキューバの米軍基地」(木戸衛一編『対テロ戦争と現代世界』所収、御茶の水書房、2006年)をお読みいただきたい。】この工作の到達点が、アジェンデ政権成立後三年目に起こした軍事クーデタだったのである。

1964年、キューバに続くブラジルの「左傾化」を未然に防いだブラジル軍事クーデタ以来、チリをはじめとする各国の軍事クーデタの背後にいた米国は、ラテンアメリカの多くの貧しい民衆が「模範」と仰ぐキューバよりも、軍事体制のほうがあらゆる意味において優位に立つことを見せつけなければならなかった。

彼らがもつ価値観からすれば、もとより、第3世界が根本的な問題として抱える経済格差を解消するための、資産・所得の再分配や社会的公正さなどの施策に気を配るわけではない。

本国に資源と経済権益が還流することを保障する仕組みを築き上げたうえで、対象国においても見てくれの繁栄が演出され、そのおこぼれが現地支配層と取り巻きに流れる構造をつくることができるなら、それでいいのだ。経済的実益と政治的安定の両輪は、それによって保障される。


  フリードマンとシカゴ・ボーイズが差し出す処方箋は、見事に上の意図に見合うものであったと言える。

だから、軒並み軍事政権が成立して永らえた70年代初頭から80年代後半にかけてのラテンアメリカ各国では、上に述べた新自由主義経済政策が採用された。その枠内において、ピノチェト支配下のチリを「優等生」と呼ぶ人びとがいるのである。

私たちの身近に例をとるなら、朴軍事政権時代の韓国でも、経済的な底上げを謳歌する人びとがいたことはよく知られている。

その意味で、今でもあの時代を懐かしむ人がいるとは、しばしばなされる報道である。第3世界の任意の国における軍事独裁と、その上に君臨する帝国の利害がどのように結びついていたのか。遠いチリと近い韓国に、私たちは、その構造を解き明かしてくれる恰好な実例を見ているのだ。


                   (三)

 世界に先駆けて、グローバリズム、あるいは新自由主義の荒々しい洗礼を受けた地域だからこそ、ラテンアメリカにおいては、これに抵抗する動きもいち早く始まったと捉えるべきだろう。

私たちが協働してきたボリビア・ウカマウ集団が、1983年に完成させた『ただひとつの拳のごとく』という作品がある。

これは、80年前後の反軍事独裁の民衆闘争を記録した映画だ。ここに登場する市井の農民や労働者は、自分たちの国を債務漬けにしたのは、軍事政権と結託したIMF(国際通過基金)や世界銀行などの国際金融機関であり、その背後の先進国政府であることを、簡潔な言葉で語っている。

これは台本に用意された台詞ではなく、ドキュメンタリーとして撮られた言葉である。新自由主義の渦中に生きざるを得なかった民衆が、1980年段階で、事態を把握していた言葉として、きわめて示唆的であると思う。


 民主化の過程で人びとは力をつける。いままで禁圧されてきた言葉を自由に発することができる。軍事政権時代の人権抑圧の実態を調査し、責任者を裁かなければならない。

その時代に不当な特権を享受して、不正蓄財を行なった一族郎党を告発しなければならない。

独裁体制を経験した世界各地の国々で「真実和解」のための活動が多様に行なわれている。

将来的には「和解」も重要だが、まずもって「真実」の追究が必要だ。ラテンアメリカの民衆運動が活発に展開されていることの背景には、フリードマン理論も支えの役割を担った軍事政権時代の「真実・真相」を求める怒りがある。


 さらにいくつかの例を挙げよう。軍事政権の時代を例外的に経験してはいないが、メキシコもまたグローバリズムには席捲されている国である。1994年、メキシコ、米国、カナダの3カ国間の自由貿易協定が発効した。

これに反対・抗議して、サパティスタ民族解放軍は武装蜂起した。

辺境・南東部の先住民組織である。彼ら・彼女らは、蜂起後12年目の今も、貧弱なものとはいえ武装を解除していない。政府軍の妨害に耐えて、自治区を自主管理している。その反グローバリズムの主張は鮮明である。

州政府や中央政府に対するローカル(一地域的)な要求と、先進国や多国籍企業を相手にしたグローバル(全地球的)な主張とが、一帯化している。

先年サパティスタの自治区で開かれた国際会議では、数千人に上る世界中からの参加者が選択しうる朝食を「新自由主義朝食」、「サパティスタ朝食」と差別化するほど、ユーモアに包みながら問題意識は明快だ。


 ボリビアの民衆運動もめざましい。水道事業の私企業化を阻止した2000年の闘争、天然ガスの多国籍企業への安価な売り渡しを阻止した2003年の闘争、先住民の伝統文化の中で息づいているコカの葉が、コカインに精製されることを妨げるために根絶やしにしようとする先進国の身勝手な論理に抵抗闘争を展開しているコカレーロス(コカ栽培農民)の闘い――いずれもが、新自由主義への抵抗運動であることがわかる。


                   (四)

 上に見たような、民衆レベルにおける大衆運動の高揚を背景としてこそ、ラテンアメリカにおける国家政治レベルでの変革の動きも目立ってきている。

自分たちの運動においてだけではない、選挙に際しても自らの声を発し始めた。つまり、投票日にのみ主権者となっているのではない。この間続々と成立している「左派政権」の問題をこのように捉えることが必要だろう。


「左派政権」といっても、一様ではない。市場経済万能論を疑う点においては共通点を持っているが、現実的な政策の折り合い点や妥協点はそれぞれ異なる。

私が現段階でもっとも注目しているのは、2005年にキューバとベネズエラの間で、次いでボリビアにエボ・モラーレス政権が成立して後はボリビアを含めた三カ国で結ばれた「人民貿易協定」の行く末である。

キューバはボリビアに、キューバが費用負担を行なって、医療援助と識字教育援助を行なう。ベネズエラはボリビアに対して、エネルギーと鉱業分野での技術支援を行なう。

協定の表現によれば、これは「何世紀にも及ぶ(新旧の)植民地支配の期間内に、天然資源を搾取・略奪されたボリビアの窮状を認識した」うえでの協力関係である。

もちろん、一方的な関係としての「与える・与えられる」ではない。ボリビア側も、農業生産物、鉱業、畜産業などの分野で、相手側2国に対する輸出を促進することが規定されている。

この意義付けに関しては「米国政府もしくはヨーロッパの政府が開始した自由貿易協定採用の結果としてボリビアが失う市場の相当量である」という規定がくる。


  この協定に見られるのは、相互扶助・連帯・協働などの精神である。これは正式には「われらアメリカの諸人民のためのボリバル代替構想と人民貿易協定を実施する取り決め」と名づけられている。

「失敗した新自由主義に反対」し、「真に友好的なラテンアメリカとカリブの統合という枠組みでの社会的正義を伴なった発展をめざす」新たな方法だとの自負も見られる。


  前途が楽観できると思う者は誰もいないだろう。

だが、社会に格差と不信と差別を固定化しつつある新自由主義体制とも、旧社会主義圏を包括していたコメコン体制ともまったく異なる相互扶助原理で、キューバ、ベネズエラ、ボリビア三カ国の試行錯誤が始まっていることだけは、はっきりと確認できる。

私の考えでは、これは国家間の枠組みの中での協定としては、現段階では最良の、来るべき未来を暗示している。誇張ではない。

他に先駆けて、未踏の領域に歩み出た三カ国の試みは、成功の過程も、もしかしてあり得る失敗の過程も、後から歩む世界への教訓となって残るだろう。


  現代人の精神に及ぼす影響力からいって、メディアの問題も重要だ。ベネズエラ、キューバ、ウルグアイ、アルゼンチンの4カ国は、2005年にテレビ局「テレスール」を発足させた。

「南のテレビ局」の意味である。大国の主要メディアが選択的に流すニュース報道によって世界が制覇されている時代に、アルジャジーラにせよ、テレスールにせよ、地域に根ざしたメディアが存在することは、決定的に大事なことだと言える。

この多国間テレビ局が、大国のメディア戦略に対抗しながら、当事国のいずれの政府権力からも自立的な立場を貫いた報道ができるかどうか、注目したいと思う。


  フリードマンとピノチェトは、これほどまでに明確な社会的分岐・分裂が生じる問題に関して、明らかに一方の立場に荷担して理論を築き、あるいは実践した。

ふたりの死を哀しむ一群の人びとがいたことは事実であり、当然でもあっただろう。同時に、これとは反対の立場に立つ者には、生物的な死を遂げたふたりの理論と実践にも死を与える任務が待っている。

彼らが「二度死ぬ」とはそういう意味である。彼らの墓掘り人の役目を、ひとりラテンアメリカ地域の民衆運動にのみ委ねておくわけにはいかない。

 
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