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変動の底流にあるもの[ボリビア訪問記] |
『オルタ』2007年4月号(アジア太平洋資料センター)掲載 |
太田昌国 |
ボリビアが、私にとって関心浅からぬ土地になったのは、チェ・ゲバラがそこで死んで以来だから、四〇年来のことだ。およそ三〇年前には、半年間ほどそこに暮らした。この四半世紀ほどは、ボリビア映画集団ウカマウの作品の上映活動と共同製作に関わってきているから、ずいぶんと縁のある土地になったものだ。
とはいうものの、頻繁にそこを訪れる機会があったわけでは、もちろん、ない。関心は、もっぱら、自分なりの方法で関わってきた映像と活字によって満たされてきた。
そんな私が、昨年末から今年初めにかけての二週間ほどを、PARCが企画したエクスポージャー・ツアーに同行して、ボリビアで過ごした。旅行記ふうの、簡単なスケッチにしかならないが、四〇年来もち続けてきた関心の中に、ボリビアの「現在」を位置づけてみたい。
二〇〇六年初頭、周知のように、そこには、エボ・モラーレス大統領が誕生している。先住民族、アイマラの出身である。明確な「左派」である。「現在」を過去から際立たせる最大の要素がここにあることは、以下に綴ることの前提にはある。
一
何よりもまず強調すべきことは、「先住民族」的なるものが、社会生活のあらゆる局面で前面に出てきていることである。
それは、従来であったならば、公式の歴史物語からは選択的に排除される存在であった。人口構成的に言えばボリビア全人口の六〇%を超えているにもかかわらず、日ごろから「見えない」存在として「地下に」押し込められている存在であった。
だが、テレビを含めたメディアにあって、誰よりも露出頻度の高い大統領が、他ならぬ先住民族出身者であるという事実は、外部の観察者に過ぎない私の予想以上に、じわじわとその影響力を社会の隅々に及ぼしているように思われた。
もちろん、その前提として、エボ・モラーレスを大統領に押し上げるに至った、二〇世紀末以降の社会運動――エボ自身の出自としてのコカレーロス(コカ栽培農民)の栽培権維持のための活動、水資源の私企業化や天然ガスの開発権と利権を外国に売り渡すことへの反対運動とその成功――の重要な担い手として、すでに先住民族が登場していたことが想起されるべきであろう。
エボ・モラーレスは、一年前、インカ以前のティワナク文明の遺跡で先住民様式に基づく大統領就任式を行なった。演説の一定の部分を、先住民の母語=アイマラ語で話した。衣服も伝統的なものをまとった。
先住民族の復権を唱えた。だからといって、旧支配層に対する「復讐」の意図は否定した。ボリビアに形成されるべきは、多文化・多民族の価値を認め合う、複合的な価値が許容される社会であることを訴えたのである。就任後も機会あるたびに、彼はそのことを強調している。
この問題を、私が事務所を訪ねたCEFREC(映画教育・製作センター)の活動を通じて、メディアのあり方の変貌として捉えてみよう。
このセンターは、先住民族の世界にもっとも顕著に現われている不正義・排除・周縁化などの社会的構造を変革するための活動を、コミュニケーションの分野で担おうとする青年たちによって一九八九年に設立された。
先住諸民族の独自の文化と宇宙観に基づいた映像の製作活動を開始したのである。私たちが協働してきたウカマウ映画集団は、確かにアンデス先住民族の人びとを主人公とした歴史物語を創り上げてきたが、製作主体は一貫して白人、メスティーソ層出身のエリートであった。
彼らは、ボリビア社会(広くは、欧米文明の価値観に支配されている現状の世界全体に通じるのだが)の根底的な変革のためには、先住民族の視点が不可欠だと捉えた。いわば、先住民族の世界への「越境」を試みたのである。
時代は変わり、先住民自身が映像作品の製作主体になる条件が作られた。この活動をも基盤にして、一九九六年にはCAIB(ボリビア先住民族視聴覚調整センター)が作られている。
これらは、昨年で八回目を数えるに至った「先住民族映画・ビデオ国際フェスティバル」という、アメリカ大陸全体を包摂した活動とも密接な連携を持っている。
つまり、このような動きは、ひとりボリビアのみに見られるのではなく、大陸全体に及んでいるという観点が必要だ。
上に触れた、先住民族が関わるふたつの映画・視聴覚センターは、ラジオおよびテレビで一定の番組枠をもっている。
独自のビデオ作品も製作している。日常的に、彼ら・彼女らの映像と声が全国に届けられること――それが、時間の経過とともに及ぼしうる影響力を、私たちは自らの経験に照らして、信じることができる。
大統領や首相個人の、単なるすげ替えでは実現できないことも、メディアの日常的な報道は、人びとの価値観の深部において、準備していくことになるだろう。
つまり、表層的な「変化」に終わることの多い政治レベルの動きとは違うものを、文化活動は生み出していくだろう。
民衆運動の基底を担って活動している人びとの口から、自らの主要な課題として、ごく当たり前のように「脱植民地化」という言葉が語られていた。それは、ボリビアの社会運動が到達している現段階の拡がりと深度を示しているもののように、私には思えた。
二
ボリビアは、かつて、独立後の年数よりもクーデタの回数のほうが多いなどと揶揄的に報道されるほど、政治的に不安定さが際立つ国であった。
私が同時代史として見つめてきた現代史において、クーデタを引き起こすのは軍部であった。そしてラテンアメリカ全域に並々ならぬ関心と利害をもつ米国にとって、東西冷戦下の世界状況の中での対ソ連・キューバの戦略上からいって、軍事政権は十分に利用価値のある存在であった。
ラテンアメリカは不運にも、世界に先駆けて、米国主導の新自由主義経済政策の「実験場」とされたが、それは一九六〇年代から八〇年代にかけて各国に次々と軍事政権が成立しており、米国はその背後にあって、自在に彼らを操ることができたからである。
かつてのその時代との比較でいうと、経済分野での変化も大きい。国内的な経済政策のあり方を観察するには、二週間の滞在は不十分でしかないが、人びとの話を聞いても、滞在中の新聞記事を通しても、社会的な不平等さを克服して、公正・対等な社会的関係をつくための努力が始まっていることは理解できた。
私が注目するのは、国際的に結ばれている代替構想や貿易協定において、弱肉強食を原理とする新自由主義政策とは正反対の、相互扶助・協働・連帯の精神が貫かれていることである。
それは、差し当たっては、ボリビア、キューバ、ベネズエラの三カ国間で二〇〇六年四月に締結された「米州ボリーバル代替構想」および「諸国民貿易協定」に具体化している。
今回のボリビア滞在中にウカマウ映画集団の監督ホルヘ・サンヒネスと交わした対話の中で、彼はしきりに、キューバとベネズエラとの連帯の成果について語った。
貧しいボリビア民衆が苦しむ失明や視力低下の治療のために、キューバ側の費用負担によってキューバから多くの眼科医がボリビアに派遣され、治療に当たっている。
同時に、眼科および総合医学をボリビア人が修得するための奨学金や技術機材もキューバが提供し、将来的な自立に備えている。キューバは、スパイン語、ケチュア語、アイマラ語、グアラニ語での識字プログラムを遂行するためも援助を行なっている。
ベネズエラもまた、主要にはエネルギー・鉱業部門における協力体制をつくっている――新自由主義が猛威を振るっていた時代なら、外国から触手を伸ばしてくるものは、自らの利害を基軸にしてボリビアを利用しようとするものばかりであった。
支配・被支配の関係が、そこには抜きがたくあった。いま、自分たちが手にしているのは、連帯と相互扶助の協力関係であり、そこで民衆自身が自信と確信を得ていく過程が、ひるがえって、国内改革の可能性への確信に繋がっていく。
逆もまた真なり。国内改革と、国際関係の変化は、こうして相関関係の中で進行する。サンヒネスの語ったことを、私は、総じて、以上のように解釈し、共感をおぼえた(以上で触れた代替構想と貿易協定については、『社会評論』二〇〇六年夏号、スペース伽耶発行、で読むことができる)。
三
一旅行者としてみれば、ボリビアにおける絶対的貧困の現実は、三〇年前と変わることなく目につく。
時間はかかるにしても、底流において進行している「変革」のための努力を感じ取ることが肝要だと思える。
私の、わずか四〇年間の「ボリビア体験」に照らしてみても、民族と経済の問題をめぐって、上に見たような劇的な変革が進行しつつあるのだから。
エボ・モラーレス大統領は、日本国外務省の招きで去る三月に来日し、政府・経済・産業界の代表と会談を重ねた。
経済援助を「餌」にして、国連安保理理事国選挙での協力を求めるという、相も変わらぬ貧相な「バーター外交」を日本側は行なった。
モラーレスは、進行中の憲法改正において「戦争放棄」を規定する希望を語った。「唯一の良い戦争であった独立戦争でも、先住民とメスティーソの人命が失われたのだから」。
ボリビアの変革は、思いがけない形で展開するのかもしれない。ひるがえって日本は――という難題が、この文章を書き終えた(読み終えた)私たちを待ち受けている。
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