現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2007年の発言

◆「死刑を待望する」合唱隊の行方2007/12/29

◆チェ・ゲバラが遺したもの2007/11/29

◆チェ・ゲバラ没後40年2007/10/9

◆小倉英敬著『メキシコ時代のトロツキー 1937―1940』書評2007/10/6

◆「世の中、バカが多くて、疲れません?」――首相辞任とその後2007/10/5

◆暴力批判のための覚え書2007/9/1

◆猛暑の夏の読書3冊2007/8/15

◆知里幸惠との、遅すぎた出会いをめぐって2007/8/1

◆サムライ=「フジモリ」待望論の陥穽2007/7/15

◆若年層「フリーター」からの左翼批判に思う2007/7/15

◆政府・官僚の愚行を放置しない力の源泉――総聯弾圧をめぐって2007/6/27

◆犯罪と民族責任が浮き彫りにする「光と闇」2007/6/7

◆「低開発」 subdesarrollo という言葉がもつ意味2007/6/7

◆国家の「正当な暴力」の行使としての死刑と戦争2007/6/7

◆「拉致問題」専売政権の弱み2007/4/24

◆奴隷貿易禁止200周年と現代の奴隷制2007/4/24

◆変動の底流にあるもの[ボリビア訪問記]2007/4/24

◆キューバ、ボリビア、ベネズエラの「連帯」が意味すること2007/4/24

◆「希望は戦争」という言葉について2007/4/24

◆6カ国協議の場で孤立を深めた日本2007/2/28

◆サッダーム・フセインの処刑という迷宮2007/2/28

◆ボリビアの諸改革に脈打つ先住民性2007/2/28

◆世界は必ずしもいい所ではない2007/2/28

◆アチェの世界への長い道のり2007/2/28

◆フリードマンとピノチェトは二度死ぬ――新自由主義と決別するラテンアメリカ 』2007/1/7


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チェ・ゲバラが遺したもの
講演会「チェ・ゲバラの贈り物」
(セルバンテス文化センター東京、2007年11月29日開催)における講演原稿
太田昌国


 エルネスト・チェ・ゲバラがボリビアで亡くなって、ちょうど40年が経ちました。私自身がそうですが、世界的に考えても、チェ・ゲバラに対する関心は、40年ものあいだ持続しているといえます。

ほぼ同時代に、世界の人びとの注目を浴びた革命家といえば、中国の毛沢東もおり、ベトナムのホーチミンもおります。

没後40年も経って、何冊もの膨大な伝記が書かれ、その生涯が何本も映画化され、著作や演説集が繰り返し出版され、若者が着るTシャツにその顔が描かれているような革命家は、チェ・ゲバラだけです。

それは、なぜなのか。没後40年の時間のなかで、ゲバラに対する関心がとりわけ高まった3つの時期を取り出して、その意味を考えてみたいと思います。

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 最初にゲバラに大きな関心が集まったのは、もちろん、チェ・ゲバラがボリビアで解放ゲリラ闘争を行なっていて、政府軍との戦闘で負傷し、拘束され、銃殺された1967年からの数年間の時期でした。

 当時は、世界じゅうで、若者を中心とした多くの人びとが、不公正で不平等な世の中を変えたい、変えることができると確信して、それぞれが何事かに取り組んでいた時代でした。

抱えていた問題は国によって異なっていましたが、世界的に共通の問題としてはベトナム戦争がありました。アジアの小国・ベトナムに対して、遠くの大国・アメリカ合州国
の軍隊が押し入り、無数の爆弾を投下し、ナパーム弾で人びとを殺し山野を焼き払っていました。

この戦争を食い止めたい、それが、多くの人びとが抱いていた希望でした。ゲバラは、ボリビアの山岳部から、その思いを次のように表現しました。「ふたつ、みっつ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」。


 ベトナム民衆のように粘り強くたたかう人びとが世界各地にいくつも現われ、大国の軍事力を分散させることができるなら、小国の民衆が勝利する時期はそれだけ早まるのだ、というメッセージでした。

チェ・ゲバラが殺され、その部隊が敗北したのは、このメッセージが発せらてからちょうど6ヵ月目のことです。


 多くの人びとにとっては、同じ関心を抱き続けていた、ひとりの象徴的な同時代の人物が、悲劇的な死を迎えたのです。

その「生き死に」に熱い関心が沸き起こり、人びとがそこから何事かを学ぼうとしたのは、当然のことであったと思います。

アルゼンチン人として生まれながら、キューバの独裁政権打倒闘争に参加し、キューバの市民権も与えられ、政府閣僚の要職にも就いた人物が、最後には故国アルゼンチンの隣国・ボリビアでの解放ゲリラ闘争に参画して、そこで死んだ――その生涯は、あまりに劇的で、その生き方自体に、人びとの深い関心が寄せられました。


 関心はそれだけに留まることはありませんでした。チェ・ゲバラは、結果的に短い生涯を終えた人ですが、残された論文や演説の数は数多くありました。

キューバの労働者、農民、医学生を前に行なった演説、国連をはじめとするざまざまな国際会議においてキューバを代表して行なった演説、社会主義経済建設をめぐる論文など、ゲバラが発言したテーマは多岐にわたっています。

その中から、あえて、彼が主要に関心をもっていたテーマを取り出すとすれば、それは「社会主義論」と「武装闘争論」であったと思います。


 この時期は、彼が確信をもち、そのために生きた社会主義の理想が、世界じゅうの人びとの心の中から消え去ってはいない時代でした。

むしろ、抑圧的なソ連社会主義への幻滅と批判は深まっていましたが、それに代わって、キューバが、あるいはゲバラたちが、新しい社会主義を創造しようとしているという現実に、励ましや刺激を受けている人びとがいた時代でした。

ゲバラが大切にしていたキーワードは「新しい人間」でした。人間が人間の敵である資本主義社会に代わって、友愛と歓待に満ちた社会主義社会が創られたら、どんな新しい価値観をもつ人間が育っていくことか――ゲバラが抱いたこの夢は、残念ながら、まだ実現されないままに終っています。


 ゲバラが論文などで展開した、もうひとつの重要なテーマは「武装闘争論」でした。人によっては、ゲバラを「軍事至上主義者」と呼ぶ人もいますが、私の考えでは、そうではありません。

合法的な集会やデモ、ストライキなどによって、民衆の主張を打ち出し、世の中のあり方を変革する条件を持たない社会、すなわち警察や軍隊の厳しい弾圧によって合法的な意志表現が許されていない社会――そのような社会においてのみ、武装闘争が選択肢になることを、ゲバラは明確に言っております。

確かに、当時は、キューバ、アルジェリア、ベトナムなどを中心にして、第3世界の解放運動が武力闘争を軸として広がりと深まりを実現していた時代でした。


 世界の歴史を支配してきたヨーロッパ近代の批判のうえに、新しい世界史が切り開かれていることを人びとが実感できた時代でもありました。

ですから、その時代的背景に裏打ちされていたゲバラの「武装闘争論」は、決してとっぴな意見ではありませんでした。


 このように見ると、当時、キューバは、ふたつの意味において、つまり、新しい社会主義のあり方を模索し、同時に台頭する第三世界主義の最前線にも立っている存在として、きわめてユニークな位置を世界政治において占めていたと言えます。そして、それを象徴するのが、チェ・ゲバラという人物であったのです。


 当時、チェ・ゲバラの死を悼む言葉や表現は、それこそ無数にあったので、それらに逐一触れることは、到底不可能であり、意味もありません。

きょう私は、このたび東京に誕生した「セルバンテス文化センター」でお話しているのですから、ここにふさわしい例をひとつだけ挙げます。スペイン語文化圏からは数多くの優れた現代作家が生まれていますが、そのうちのひとりとして、コロンビア出身で、1982年度ノーベル文学賞受賞者、ガブリエル・ガルシア=マルケスの名前を挙げることには、多くの方々のご賛同が得られると思います。

彼は、「ガボ」Gaboと呼ばれることを好んでいるようですから、以下、ガボと呼びます。ガボが生まれたのは、1927年という説もありますが、従来はチェ・ゲバラと同じ1928年生まれと言われてきました。

ガボの代表作『百年の孤独』は、奇しくも、ゲバラが死んだ1967年に刊行され、その想像力豊かな物語の魅力のゆえに、ただちに世界的なベストセラーになりました。このように、ガボとチェ・ゲバラは、まったくの同時代人なのです。


 ところで、ガボは、1968年に「この世でいちばん美しい水死人」という、きわめて短い小説を書いています。ゲバラが死んだ翌年です。

物語はこうです。カリブ海のある海辺の村に大きな男の水死体が打ち上げられます。見知らぬ顔だから、村の者ではありません。

死体にまとわりついている海藻からすれば、遠い、遠い大洋から流れ着いたもののようです。村の女たちは、卑しさもさもしさもない、誇らかでさえある男の表情に惹かれます。

背が高く堂々たる体躯で、見るからに凛々しく逞しく、その男を見ていると、自分の夫のつまらなさがうとましくすら感じられます。

その男のために、女たちは、体を洗い清め、主祭壇を飾る金具類をつけて、立派な葬儀を執り行なってから遺体を海に返してやります。

あらゆることが生まれ変わり、花咲き乱れるその村は、やがてその水死人の名前で呼ばれるようになるだろう。女たちのただならぬ振る舞いに、最初は不審の目を向けるだけだった男たちも、ついには真剣に葬列に加わっていくのです。


 この作品に描かれた水死人の姿には、ボリビア南東部の小さな村の小学校の中で、上半身を裸にされてベッドに横たえられた、射殺直後のチェ・ゲバラの姿が重なってきます。

死んでいったチェ・ゲバラに対して、当時、世界じゅうで多くの人びとが感じた思いを、ガボは見事な寓話として表現したのだと思います。

 以上が、世界じゅうで、チェ・ゲバラという人物に対する関心が高まった第1段階、すなわち1960年代末の背景にあった事情です。


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 さて、第2段階は、いまから10年前の1997年ころです。この年は、チェ・ゲバラの死から30年が過ぎた段階です。この30年間に起こった政治と社会の変動は、きわめて大きいものがありました。

ゲバラがあれほどの確信をもって夢見ていた社会主義は、ソ連・東欧の社会主義圏の独裁体制が次々と崩壊したことに現われたように、存立の危機に見舞われました。中国、ベトナム、キューバなど、現在も政治体制としては社会主義だと主張している国々も、経済的には、資本主義の象徴であるグローバル経済の大きな枠組みの中に包摂されつつあります。


 危機に瀕したのは社会主義ばかりではありません、武装闘争という、第3世界における革命戦略もまた重大な岐路に立たされていました。

それには、いつくかの理由が考えられます。武装闘争を通じて革命や独立を達成した第3世界の国々が、その後の新しい社会の建設事業において、必ずしもうまくはいかなかったという現実があります。

独立や革命を指導した「英雄たち」が、その後腐敗したり堕落したりした国もありました。独裁的な抑圧体制が新たに生まれた国もありました。また、この時期になってなお武装闘争を続けていた集団の多くは、侵略してくる大国の軍隊や抑圧の先頭に立つ政府軍に抵抗する、かつての反体制ゲリラたちがもっていた理想も倫理も語らないままに、恐るべき殺戮に明け暮れるようになりました。

だから、この頃から、侵略してくる大国の軍隊や抑圧の先頭に立つ政府軍に抵抗する、倫理的な存在としての響きを持っていた「ゲリラ」という言葉はほとんど消え去り、ほとんど殺し屋に等しい「テロリスト」という冷たい響きの言葉が多用されるようになったのでした。


 こうして、チェ・ゲバラ没後30年を迎えた時期には、ゲバラが大事にしていた「社会主義」も「武装闘争」も、社会全体の中では、マイナスのイメージをもって受け取られるようになっていました。

にもかかわらず、それを唱えたゲバラは、一個人としてはあらためて大きな注目を浴びたのです。30年間行方不明であったゲバラたちの遺骨が、ボリビア現地で発掘され、キューバへ返還されたという出来事が、大きなきっかけでした。

さらに、私が知るだけでも、4冊の分厚い伝記が発行されました。書いたのは、メキシコ人ふたり、フランス人ひとり、北アメリカ人ひとりでした。ゲバラの著作が各国で新たに発行されました。

編集者としての私も日本において、『モーターサイクル・ダイアリーズ』をはじめ、アフリカのコンゴでの作戦記録も含めて6冊のゲバラ関連書をこの時期に集中して刊行しました。主として若者たちが集まる渋谷や原宿の書店でこれらの本は売れ始めました。


 私は、市場経済を唯一絶対の原理とするグローバリズムによって世界が覆いつくされてゆく趨勢には、大きな違和感をもっていました。

社会主義が敗北したからといって、大国の世界支配とたたかったゲバラのような人物が忘れ去られてゆくのは間違いだと考え、自分のできるところから「ゲバラ復権」の動きをつくろうと思って、これらの書籍の企画を立てたのでした。

反響は、私の予想をはるかに超えました。若者向けの雑誌も相次いでゲバラ特集を行ないました。若者たちにとっては、Tシャツのデザインでのみ知っていた、誰とはわからなかった人が、急に現実感をもって迫ってきたようでした。


 以前からゲバラを知っていた人びとが彼を再評価し、知らなかった若い人びとが新たに関心を示した理由は、何だったのでしょうか。

それは、ゲバラが権力からどんな位置をとったか、という事実に人びとが注目しているからだ、と思います。

ゲバラが活動していた1960年代は、冒頭に触れたように社会変革という意味で言うなら「理想と希望の時代」であったと言えるでしょうが、それから30年後の1990年代、つまり20世紀末は「幻滅と絶望の時代」であった、と言えます。

経済的な繁栄に絶対的な価値をおく、現実肯定主義が大手をふって世界じゅうを支配する原理となっていくなかで、人びとは、やはり、夢、理想、ロマンをもって人間社会のあり方を考え抜き、行動した人物を蘇らせたいと思ったのです。

かつてはそのような立場で発言したり行動したりしていた多くの指導者が、いったん権力を手にしたら、初心を忘れ、とんでもない権力者になったり、腐敗・堕落していく姿を現実に見て、権力から遠く離れて生きた人物を、懐かしく思い出すことになったのです。

それらに加えて、ゲバラの死の悲劇性、30年後に遺骨が発見されるという劇的さ、彼自身のフォトジェニックな姿と顔立ちなどの要素が、人びとの永続的な関心をかきたてたのだと思います。


 以上が、ゲバラに対する関心が高まった第2段階、すなわち1997年前後の背景にある事情であったと思います。


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 しかし、現実のチェ・ゲバラは、見果てぬ夢やロマンを抱いて生きただけの人物だったのでしょうか? 理想主義の高みで生きた人間として、彼を持ち上げれば持ち上げるほど、興ざめの現実を生きる私たちのカタルシスは得られるかもしれません。

しかし、彼が遺した論文や演説を読み、その生涯をつぶさにたどってわかることは、彼は自分自身を取り囲む現実から逃げることなく、それと相渉った人間であるということです。

そうすることに喜びや刺激を感じると共に、それによって自ら悩み、惑い、苦しみ、間違いを犯し、傷ついた人物でもあったのです。


 ゲバラ没後40年目の今年、2007年には、みたび、ゲバラに対する関心が世界的に沸き起こっています。

命日であった10月9日を中心に、ボリビア現地でも、キューバでも、日本を含めた世界各地でも、「ゲバラとその時代」が現在なお意味するものは何かをめぐって、討論する集会が開かれました。私自身がこのテーマに関してお話しするのも、この秋だけで4度目です。

彼の著作は、新装版として世界各地で刊行が続けられています。キューバ解放闘争の時期と、ボリビアでのゲリラ戦争の時期についての2本の映画製作が進行中で、来年にも公開される予定です。

ですから、ゲバラに対する関心の高まりは、没後40年を迎えた今年、2007年に限られることなく、しばらくのあいだなお続くでしょう。


 私は世界的に見て、この段階にきてようやく、チェ・ゲバラへの関心が地に足のついたものになってきていると思います。それには、いくつかの理由があります。


 ひとつ目には、ゲバラが生まれ育ち、その解放のためにたたかい、そして死んだラテンアメリカ地域において、新しい歴史の胎動が始まっていることです。

さきほど、駐日ボリビア大使、ハイメ・アシミネ氏がお話されましたが、氏を任命したのは、2006年初頭に大統領に就任したエボ・モラレスさんです。

先住民族アイマラ人の出身であるエボ・モラレスさんは、2005年末の大統領選挙において、過半数の得票を得て当選しました。2006年1月には、まずボリビア先住民族文明のティワナク遺跡で、先住民族様式にのっとっての就任儀式が行なわれ、翌日ラパスの議会での就任式が行なわれました。

この模様は、ボリビアのテレビ局が中継しました。私は、ボリビアの友人が送ってくれた録画ビデオで、その模様をすべて観ましたが、思わず感慨にふけったものでした。

なぜなら、先住民族様式の就任式が行なわれること自体が、先住民族に対する差別に満ちたラテンアメリカ全域の近現代史をふり返った時に、大きな事件であるとすら言えます。驚きは、それに留まりません。

エボ・モラレスさんは、スペインの植民地支配に対してたたかった独立の英雄たちやボリビアが模範とすべき人びとの名前を挙げたときに、チェ・ゲバラの名前も何度となく挙げたのです。

エボ・モラレスさんは、キューバ革命の年、1959年の生まれですが、彼が8歳のときボリビア政府軍とたたかっていたチェ・ゲバラは、その志を受け継ぐべき、大切な人物であると考えているのです。


 今年、ゲバラが死んだ土地で開かれた記念集会でもエボ・モラレス大統領は次のように述べています。

「私はゲバラ主義者で、社会変革を求めるゲバラの理想を共有している。それをわれわれは民主的に遂行している」と。

つまり、武力革命によってではなく、自由選挙を通じて成立した民主政権によって社会変革が可能な時代がきたのだ、とする宣言です。現在、ラテンアメリカには、ボリビアと同じように、大国が押しつける政策に従属することなく、自らの力と、志を同じくする近隣諸国との相互扶助・連帯・協働の精神によって、自立を目指す国々が数多くあります。

方法は異なっていても、ゲバラが抱いていた理想を実現しようとする現実的な力が育っているのです。ゲバラのことが、理想主義の高みにおいてではなく、地に足がついた地点で思い起こされていると私が言うのは、このことを指しています。

 また、別な視点からも、ゲバラが掲げた理想や行なったことを客観的に見直す動きが生まれています。

人間は誰もがそうですが、自分が生きていた時代がもつ条件によって制約されて、理解できないこと、見えないこと、自覚できないことが少なくありません。一個人の限られた生涯のなかでも、後の時代になってみれば、どうしてあのとき、こんなことがわからなかったのかと思えることが、あります。

チェ・ゲバラの場合も例外ではありません。彼がソ連型社会主義に対する厳しい批判者であったことには疑いがありません。

しかし、その批判の眼目は、ソ連が働く者の意欲を引き出すために物質的な刺激を重要視したり、第3世界に対する政策においてソ連の国益を優先したりしたことなどに限られていました。

ソ連体制が無残な崩壊を遂げた主要な原因というべき、既存の社会主義体制が有していた抑圧的な支配構造に対する批判的な視点を欠いていた、と思います。

ゲバラの生き方を捉えて、権力構造の中枢にしがみつくことなく生きた一個人の潔癖さと理解するだけでは十分ではない広がりが、この問題には備わっているのです。


 また、アフリカのコンゴやボリビアにおけるゲバラの経験をつぶさに読むと、白人ゲバラには見えなかった民族問題の深みがあることが分かります。

先住民の大地であったアメリカ地域を征服することになるコロンブスの大航海から五百年目を迎えたのは、いまから15年前の1992年でした。

この前後から、ラテンアメリカ地域では、先住民族の権利回復の動きが目立つようになります。

メキシコ南東部のチアパス州で、生活状況の改善とグローバリズム反対を掲げて活動しているサパティスタという先住民族組織の主張は、その典型です。

先住民エボ・モラレスがボリビア大統領になったことも、もちろん、その象徴です。これらの動き全体に、チェ・ゲバラの思想を批判的に受け継ぐものがあると捉える視点が重要だと思います。

ゲバラの思想と行動を大事な教訓にしたいと考える人びとや集団なかにあっても、ゲバラを無批判的に、英雄主義的に捉える態度はすでに終わっているのです。


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 さて、私たちはこうして、チェ・ゲバラの思想と行動が遺した意味について考えてきたのですが、その私たちが暮らしているのは、ラテンアメリカから遠く離れた日本の地です。最後に、チェ・ゲバラのことを日本に引きつけて考えることにしたいと思います。


 ゲバラが、キューバ革命の年、1959年の7月に来日していることは、皆さん、ご存知でしょうか。このころ、ゲバラは革命政府が派遣した経済・通商使節団の団長として、アラブ・アジア諸国を歴訪し、そこで日本にも訪れたのです。

経済・通商担当の閣僚に会ったり、大手の機械・自動車メーカーの工場を見学したり、いくつもの行動記録が残っています。

そのなかで私の胸を打つエピソードがあります。キューバ代表団を受け入れる日本外務省と、駐日キューバ大使館が立てていたスケジュールには、ゲバラたちが、第2次世界大戦で死んだ日本の無名兵士の墓に献花するという予定が組まれていました。

それを聞いたゲバラは、「私は行かない。それは、アジアの幾百万の人びとを殺した帝国主義の軍隊ではないか。私は行かない。私が行きたいのは広島だ。アメリカ人が10万人の日本人を殺した広島だ」と言ったと、随行者は述べています。


 1959年といえば、日本の敗戦後14年の段階です。日本から見れば、あの大戦は、アジア諸国に対する日本の侵略から始まったと捉えるのが正しいと私は考えています。

しかし、日本はその後対米戦争の口火を切り、世界大戦の只中に入り込んだので、戦争の最終局面は、アメリカとの戦いであったという印象が日本人のなかには強く残っています。

しかも、米軍が広島と長崎に原子爆弾を落とした直後に日本が敗戦を認めたこともあって、日本人の多くは、「アメリカに負けた戦争だった」と意識しました。あの戦争がそもそもは日本のアジア侵略から始まったことを、日本人は忘れていたのです。ゲバラが訪日し


 1959年は、まだそういう段階でした。遠くラテンアメリカで生まれ育った31歳のチェ・ゲバラが、アジア諸国と日本の歴史的な関係を正確に捉えていたことに、私は深い感銘をおぼえます。

そういえば、冒頭でゲバラが発した1967年のメッセージに触れました。「ふたつ、みっつ、数多くのベトナムをつくれ、それが合言葉だ」と題されたメッセージでした。この論文は、次の言葉で始まっています。

すなわち、「世界の大火災が終わり、日本の敗北によって象徴される事件をあらゆる国の無数の言葉で祝ってから21年経ったいま」という文章です。当時の世界情勢の分析を、ゲバラはこのような言葉で始めたのです。


 他方で、アメリカが世界史上初めて広島で使った大量破壊兵器である原爆がもたらした惨禍に、ゲバラがいち早く深い関心を抱いていたことにも、強い印象を受けます。

しかし、ゲバラが執拗に広島行きの希望を伝えたのに、日本外務省はあれこれ口実をもうけては、それをやり過ごそうとしたようです。

このときの随行員の回想記が、一昨年キューバで刊行されました。それを読むと、大阪に泊まっていたある夜、業を煮やしたゲバラは、これがチャンスだとばかり、大阪駅から夜行列車に乗って広島行きを強行し、原爆ドーム、資料館、焼け蕩けた人影が残る銀行前の石段、原爆病院、いわゆる原爆スラムなどを訪れたそうです。

日米安全保障条約によって日本各地に置かれている米軍基地のをことを指しているのでしょうか、「こんなことをされてなお、あなたたちはアメリカの言いなりになるのか」と言う言葉を、ゲバラは日本人の案内人に残しています。


 受け入れ国の無名兵士の墓に献花することを拒否し、日本外務省が乗り気でなかった広島行きを単独で強行するなど、ゲバラのふるまいは、外交レベルで見るなら、非常識で異例のことであったかもしれません。

しかし、私は、ここに、透徹した歴史認識をもち、どんな場合であっても不正義に対する率直な怒りを表明する人物としての、チェ・ゲバラのごまかしのない生き方を見るのです。


 日本に関わっての話題は、もうひとつあります。すでに、駐日ボリビア大使からご紹介がありましたが、昨年9月、ボリビアで一冊の本が発行されました。

『革命のサムライ――チェと共に、フレディ・マエムラの夢と戦い』という本です。フレディ・マエムラさんの父親は、鹿児島県出身で、ペルー経由でボリビアに住みついた方です。

1941年に3男として生まれたフレディさんは、農村部のベニ地方で育ちました。病気になった貧困層の人びとが、医師に診てもらうお金もなく、また医師不足もあって、死んでいく様子を彼は子ども時代から見ていました。

そこで医者になるという希望をもっていましたが、おりしもキューバ革命の勝利によって、キューバは第3世界の学生を留学生としておおぜい受け入れるようになったので、キューバに留学しました。


 どこで、誰との、どんな出会いがあったのか、やがてフレディさんは、ゲバラのゲリラ部隊の一員として秘密裏に故国・ボリビアに帰国し、ゲリラの根拠地に入ったのでした。

彼はゲバラたちが殺される2ヵ月前に、政府軍に捕らえられて銃殺されています。ゲバラが遺した日記にも、フレディさんのことが「エルネスト」とか「エル・メディコ」という暗号名で出てきます。

フレディさんがそのような生き方を選んだことで、遺された家族の方々は、家宅捜査、離職、世間からの白眼視など、さまざまなご苦労をされたと聞いています。

それでも、長い年月が過ぎ、当時のことを客観的にふりかえる余裕が社会全体に生まれ、さらには、ゲバラを肯定的に語る大統領も誕生したことによって、フレディさんの生涯を詳しくたどる仕事も可能になったのでしょう。

書いたのは、フレディさんのお姉さんであるマリー・マエムラ・ウルタードさんと、その息子であるエクトルさんです。

私は、今年2007年のはじめ、ボリビアのラパスでおふたりにお会いし、お話をうかがう機会がありました。おふたりがもっている、フレディさんへの敬愛の気持ちを深く感じ取りました。


 日本からラテンアメリカ諸国への移民の歴史が始まってから、ほぼ一世紀の時間が経ちます。

私はいままでに、その移民の方々が書き記した数多くの体験記を読んできました。近代日本にとって、移民とは「棄民」のことであった、とはよく言われることです。

日本国家は、近代化の過程ではじき出した人びとを、きちんとした予備調査も行なわないままに、中南米の見知らぬ大地に放り出した場合が多かったからです。

ですから、移民の方々が書き記す体験談は、確かにあったであろう苦労話と、その果てにたどり着いた経済的な成功の物語に満ちていました。

先住者である、ブラジルやボリビアやペルー現地の人びととの間に、どんな関係を結んだのか、という観点からの記述はとても少なかったと思います。

フレディさんは移民2世ですが、この世代の方々の生き方を見ていると、個人的な苦労話や成功物語に終わることなく、ボリビア現地の現実に基づいて自らの人生の行方を選び取る青年が生まれていることを、実感させてくれます。

マリーさんたちの著作は、フレディさんのその生き方を明快に描き出していて、とても興味深いところです。

「井の中の蛙」といわれることが多い日系人社会の中にあって、広く世界に目を開いて自らの人生を選び取った一青年の、僅か25歳で終わった人生は、私たちに多くのことを語りかけてくるのです。



 きょうお話してきたことをまとめて言うならば、チェ・ゲバラやフレディ・マエムラについて考えることは、私たち自身の思想と志操を高めるくれることになるのだということです。


 私の話はこれで終わります。ご清聴、ありがとうございました。



 (ふだんの講演時に、メモは用意するが、原稿を事前に作ることはない。この夜は、スペイン語文化圏の聴衆も多く、スペイン語への同時通訳がなされるという話を聞いた。

私の話し言葉はときどきまどろっこしくなることもあり、通訳者は苦労するだろう。

大事なことを話したいとも思い、正確な通訳をしてもらうために、めずらしくも事前に原稿を用意した。

用意した原稿を読むという「話術」は、これはこれで、難しいものだという感想を得た。)

 
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