現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1997年の発言

◆一年後に、ペルー大使公邸占拠事件を顧みる:天皇問題に即して

◆防衛情報誌「セキュリタリアン」の役割

◆血腥い物語:船戸与一著『午後の行商人』(講談社)を読む

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一年後に、ペルー大使公邸占拠事件を顧みる:天皇問題に即して
「反天皇制運動じゃーなる」5号(通巻162号)(1997年12月15日発行)掲載
太田昌国 


 ペルー日本大使公邸占拠事件が発生してから一年が経ち、また例の武力突入によって事態が一応の「決着」をみてから八ヵ月が過ぎた。ここでは、事件の発端としての「ナショナル・デー」、すなわち 日本の在外公館は天皇誕生日を「国祭日」として祝い、レセプションを行なっているという問題に焦点を当てて、あの事態を振り返ってみることにしたい。

 事態の後で外務省調査委員会が発表した報告書によれば、「各国は、元首の誕生日、独立記念日、革命記念日等の特定の祝日を国祭日(ナショナル・デー) に指定している。我が国の場合は、特に法令による規定はないが、明治時代から天皇誕生日を国祭日と位置づけて世界各地の我が国の公館でこのような行事を行ってきたという伝統がある」。

元タイ駐在大使であった岡崎久彦によれば、イギリス主催のパーティでは「女王陛下のために」という言葉とともに乾杯がなされ、日本大使館の場合には、一九四五年までは当然にも「天皇陛下万歳」との唱和がなされていた。驚くべきことには、戦後になっても、湯川という男(後に宮内庁式部官長を勤めた)が大使であった頃の在フィリピン大使館では、戦前と変わらぬ唱和を「在留邦人一同」は行なっていたという (青木盛久・岡崎久彦著「人質:ペルー日本大使公邸の126日」、クレスト社)。

 この「慣例」にあっては、一九四五年は何ほどの意味も持ってはいない。戦後のいつからこの行事が復活したのかはわからないが、たとえば韓国の日本大使館で「四月二九日」にレセプションが行なわれていたことを想像すれば、事態の深刻さはただちに明らかになる。外務当局は「国祭日に際して、対外的に天皇誕生日と明記することは決めていない」(つまり、エンペラーズ・バースデー=天皇誕生日と言うも言わぬも、当該大使の裁量だ)と説明しているが、上にみたフィリピン の例もある以上、歴代日本政府=外務官僚の、歴史に対する「鈍感さ」は、ほとんど無恥の域に達していると言うべきであろう。

 浅野健一の著書に教えられて、ついでに書いておくと、在外の日本大使館が開くパーティで天皇誕生日に次いで大げさなものは新年祝賀会だが、防衛駐在官が派遣されている四〇近い国では、自衛隊記念日のレセプションも重要視されているという (浅野健一著「日本大使館の犯罪」、講談社文庫)。現在は、一九五四年の自衛隊発足記念日に因んで七月一日が選ばれているという。

浅野の取材によれば、当のある武官は「国軍の記念日に大きなレセプションを開催するのは国際的にはプロトコール(外交儀礼)上の常識だ」と語ったというが、何かにつけて機密のヴェールをかぶっている天皇制と自衛隊に関わって、私たちの与かり知らぬ海外の公館で、これほどまでのことが行なわれている事実は、これから厳しく問題にしていくべきだろう。なにしろ自ら「国際化時代」と喧伝しておきながら、「明治時代からの伝統」に基づいて諸事を執り行おうとしている連中なのだから。

 さて、問題を元に戻し、日本大使公邸占拠事件のその後の展開のことを考えてみたい。四月二二日(ペルー時間)の武力突入の直後の記者会見において、首相・橋本は「救出作戦は残念ながら事前にわが国に連絡はなかった。この点は遺憾に思うと申し上げなければならない」と述べた。だが同時に、「現地で現場を見ている人と、時差一四時間のところで考えている者との差は当然ある。人質の皆さんを無事救出していただいた場合、だれがフジモリ大統領を非難できるだろうか」とも語り、全体として「遺憾だが理解する」との立場を明らかにした。

 日本政府が一貫して「平和解決」を、文字どおり「唱えていた」ことはよく知られている。フジモリは事件の過程においても、ましてや事後の会見などではいっそう明確に、平和解決をのみ言いつのる日本政府の態度にいかに困惑し、怒りをおぼえたかを隠そうとしていない。

 事件全体をふりかえった場合、ペルー・日本政府間の矛盾が極点に達した時点を、一九九七年一月末と見做すことができる。一月半ば頃から、ペルー国家警察は公邸に向けたスピーカーから大音響で軍歌を流し始めた(事後のフジモリの説明によれば、それは、トンネルを掘る音をゲリラに聞かれないためのカムフラージュであった)。

一月二七日には、警察の装甲車が公邸の周辺を行進し、特殊部隊員のひとりが邸内の女性ゲリラに向かって卑猥な動作をして挑発したために怒ったゲリラが発砲し、本格的な銃撃戦が始まる寸前にまでいった。日本政府は武力衝突を恐れ、そのような事態の打開のためには両国首脳会談しかない、と判断した。二月一日、東京・リマの中間地点であるカナダのトロントで、橋本・フジモリ会談は開かれた。

厳しい応酬がなされた、のであったろう。橋本にはひとつの重大な気懸りがあった。来る五月末には、天皇・皇后のブラジル・アルゼンチン訪問日程がひかえている。ペルーと国境を接してはいないが、同一地域圏にある二国訪問は、天皇誕生日のレセプションの場で起こったペルー「人質」事件が未解決では、実行するわけにはいかない。

また、たとえ解決していても、それが多大の犠牲者を生む軍事解決であったなら、その場合にも、当事者が平気な顔をして旅行するわけにはいかなかったであろう。橋本は、天皇たちの五月末からの南米訪問を予定どうりにこなすためには、占拠・人質事件は遅くても四月末までに、犠牲者の出ない形で平和的に解決していることが必要であることを主張しないわけにはいかない立場にあった。フジモリからすれば、橋本は机上の空論を言っているに等しかった、であろう。

 共同記者会見で橋本は語った。「フジモリ大統領は、人質に危害が加えられない限り武力行使はしないことを再確認した」。同行記者はいっせいに「平和解決で合意」と報道した。その後明らかになったところでは、共同通信の上田記者は「武力解決を事実上容認」との記事を東京に送ったという。東京のデスクはこれを「踏み込みすぎ」と判断して、ボツにした(共同通信社ペルー特別取材斑=編「ペルー日本大使公邸人質事件」、共同通信社)。 武力解決を選択肢として残すというフジモリの強硬な主張に対して、おそらく橋本は、天皇らの旅行日程を頭に浮かべながら、白紙委任状を渡したのであろうというのが、私の「推測」である。


 事前通告もなく、大使館内に「外国の」特殊部隊が突入し、作戦終了後にも館全体にわたって破壊のための破壊行為を繰り返し、ほとんどすべての「証拠品」を跡方もなく消失させたーーこの事態は、ブルジョワ国家の主宰者たる者をして、「主権原則から」怒り心頭に発して当然のこととも思われるが、橋本がそのように振る舞うわけにはいかなかったのには、以上のような経過があったのかもしれない。


 五月三〇日、天皇・皇后は予定どうりに南米訪問の途についた。そして七月二日、「事件解決のお礼に」招待した日本政府に応えて、フジモリは来日した。会見した天皇は「私の誕生日を祝うレセプションで発生し、心を痛めていましたが、大統領及び貴政府のご尽力で解決したことを深く感謝します」と述べた、という。

(1997年12月15日記)

 
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