表題は「まぶいぐみ」と読む。二年前の芥川賞受賞作などを収めた『水滴』(文芸春秋)に続く、沖縄今帰仁村生まれの作家・目取真俊(めどるま・しゅん)の二冊目の作品集である。
表題作品の主人公=幸太郎は、乳飲み子のころ戦争で両親を失った。そこからくる不安のせいか、幼いころからよく魂を落とした。小さなことでびっくりし、怯え、元気をなくす。
そのたびに祖母や、近所に住む母代わりのオバアによる魂込めが必要だった。回数は少なくなったとはいえ成人してからも同じだ。ましてや幸太郎は今回、五十歳を過ぎたというのに、魂を落としたばかりか口に大人の拳ほどもある大きなアーマン(オカヤドカリ)が潜り込むという異形の姿と化した……。
魂に寄り添って生きる沖縄の人びとの精神世界には親しく感じられるであろう導入である。翻ってヤマトンチュウにはどうか。いきなりその問いがくる。
ところで作者は、ひたすら個的に自閉するだけの精神世界は描かない。主人公に必死で魂込めを行なおうとするオバアは、浮遊する幸太郎の魂がいる海辺で、過ぎし日の戦争で主人公の母親が日本兵の手によってひと知れぬ死を迎えた情景を回想する。
幻想的な物語は一挙にあの沖縄戦の記憶に繋がってゆく。「水滴」もそうだが、今回の作品集に収められている他の短篇でも、戦争と米軍基地の問題がさまざまに影を落としている。その繋げ方が一筋縄ではいかず、幻想から現実へ、現実から幻想へと往還するところに、この作家の技量が見える。
繰り返し洞窟(がま)が出てくる。鬱蒼と茂るガジマルなどから成る濃密な南方の樹林の先にある洞窟こそ、沖縄人が魂を祈り、風葬を行ない、沖縄戦で民衆が身を隠し、果ては自害し、戦後にあってはコータイシデンカに火炎瓶を投げた青年たちが篭もった場所でもあったというように、沖縄の典型的な風景だ。洞窟の岩肌から水がしたたり落ちる光景から「水滴」のモチーフが得られていると推定できるほどに、目取真は洞窟に親しい。
ウチナーグチ(沖縄の言葉)が巧みに使われている。とくに会話の部分において。多くの場合、漢字で意味を感じとることはできるが、よどみなく読むことを妨げはする。悪いことではない。すらすらと読むたぐいの文学ではない。
作者はそこに、地の文で使われている日本語を異化する効果を込めているようにみえる。最先端の問題意識が、洞窟にせよウチナーグチにせよ土着性へのこだわりと切れていない点が示唆的だ。
最後に。文学作品に対する真っ当な入り口とは言えぬかもしれないが、私は作者・目取真俊の外向けの、挑発的なポーズに注目している。芥川賞受賞以来、この人の顔写真は幾度も目にしたが、いずれも深い色のサングラスをかけて、目の表情を見せない。
素顔をさらしたくないのだという。文芸記者とのインタビューでは、いまは教職の仕事の関係から十分な時間が取れず短篇しか書けないが、いずれガルシア=マルケスの『百年の孤独』のような、神話・伝説・歴史・現実政治などが絡んだ長編に取り組みたいとの意欲をいつも語る。マルケスを引き合いに出すことなど、よほどの自信がないとできることではない。
現実を模写するのではなく、来るべき未来を予感するものとしての文学の力を、この作家なら今後も示してくれるのではないか。従来の作品の質を思っても、この傲然たるポーズから見ても、そう期待させる数少ない作家のひとりだと考え、次回作を鶴首して待つ。
(1999年12月15日記)
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