現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1999年の発言

◆インタビュー「東ティモール多国籍軍評価をめぐって」(仮題)

◆書評:目取真俊著『魂込め』

◆チモール・ロロサエは国軍を持つというグスマンの言明について

◆ペルー大使公邸事件から三年

◆グスマンの「方針転換」について

◆私達にとっての東チモール問題

◆文学好きの少女M子、十七歳の秋

◆東チモール状況再論:若干の重複を厭わず

◆「おまえの敵はおまえだ」

◆東ティモール情勢を、PKF解除に
利用しようとする日本政府と右派言論


◆書評:伊高浩昭著「キューバ変貌」

◆「ふるさとへ」

◆アンケート特集/若い人たちにおくる三冊

◆書評  田中伸尚 『さよなら、「国民」「「記憶する「死者」の物語』

◆傍観か空爆か。少女の涙と大統領の周到な配慮。他の選択を許さぬ二者択一論と欺瞞的な二元論の狭間

◆「ほんとうは恐いガイドラインの話」

◆裁判長期化批判キャンペーン批判

◆時代につれて変わる出会い方、そのいくつかの形ーーラテンアメリカと私

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チモール・ロロサエは国軍を持つという
グスマンの言明について     
「支援連ニュース」1999年12月号(第208号)掲載
太田昌国


 前号に「私たちにとっての東チモール問題」と題する文章を私は寄稿した。チモール民族抵抗評議会代表のシャナナ・グスマンが、来るべき独立社会「チモール・ロロサエ」が国軍を持たない非武装社会になることを展望する言動を一貫して行なっていることに、共感をこめて注目する趣旨の文章である。末尾に「一一月一七日記」と記した。

 翌一一月一八日付けの朝日新聞夕刊に、東チモール・ディリ発村上伸一記者の興味深い記事が載った。同記者は他の外国人記者団と共に一七日夕刻、シャナナ・グスマンと会見したが、その内容が報道されているのである。それについてはのちに詳しく触れるが、グスマンが非武装社会構想に関する従来の考え方を変えたらしいことを知って、私は関係するインターネットのホームページ上に 大急ぎで「グスマンの『方針転換』について」と題する短い文章を11月19日付けで書いた。それに若干の加筆を行なう形で、前号に続く文章をまとめておきたい。

 グスマンは言う(村上記者の表現を正確に再現する。なお、朝日新聞は「グスマオ」の表記を採用している)。


 1 「我々は南太平洋の一部という意識のほうが強い」が、独立するであろう新国家が どの地域グループに属するかの問題に関しては、「新国家の利益を考えながら、加盟先を検討していく。可能なら両方[東南アジア諸国連合(ASEAN)と南太平洋諸国会議(SPF)]に入りたい」。

 2 従来主張してきた「非武装中立」については「違う方向を考えるようになった」。   「新生国家の安全保障は政治的な善意だけではやっていけず、現実的にしなければならない」。多数の独立派住民が犠牲となった民兵集団の騒乱を例に挙げ、軍備の必要性を指摘したが、グスマオ氏が率いる政治団体「民族抵抗評議会」(CNRT)の軍事部門である「民族解放軍」(ファリンテル)を、新国家の軍隊として育成していく方針と見られる。

 3 CNRTが、国連や外国の援助組織に対し、二ー三年にわたる国連暫定統治の間は東チモール住民の発言権を認めず、再植民地化を狙っているとの警戒心を抱いていることに関しては、グスマオは「東チモールにふさわしいやり方を一番知っているCNRTの態勢強化には何も援助してくれず、国際機関が自分たちの考えだけで住民を導こうとしている」と批判した。この問題に関しては、国連チモール暫定行政機構(UNTAET)のデメロ代表との会談でもこの批判を伝え、CNRTと国連側の協力を強めることに合意したことを明らかにした。


 以上が報道のほぼ全体の脈絡である。英語紙を含めてこれまでに参照できたこの日前後の他の新聞には、グスマンとの会見記事は出ていない。したがって、別のメディアにおける報道と相互に付き合わせてこの朝日新聞の記事を検討することはできていないが、この報道を前提として以下の議論をすすめる。

 「私たちにとっての東チモール問題」でも触れたように、あの住民投票の前後、インドネシア国軍を背後に持つ「併合派民兵」の暴行を前に「いっさいの武力抵抗はやめよ」というCNRT指導部の指令は、際どい判断であっと思う。

 情勢がある程度平穏化してから東チモールの地に入ったグスマンの耳には、指導部の指令に従って抵抗しなかったために失われた生命がいくつもあったという報告がおそらく届けられたにちがいない。

よく見聞きする「理想主義から現実主義への後退」あるいは「国連ないし帝国主義への妥協路線」と一言で片付けてしまうには、悔しい体験と苦しい葛藤がそこにはあり、そのギリギリの地点でグスマンらのこころは揺れているのだ思える。

 言語教育問題の観点から東チモール独立運動を支援する活動に関わってきた高橋道郎氏は次のように語っている。

「シャナナは同じティモール人が相互に闘うようになったらまた国際社会からティモールは孤立してしまうから、ファリンティル(東ティモール民族解放軍。独立運動のための軍組織)は自制し絶対攻撃するな、最大の忍耐を示せといったといわれています。だから民兵にあれだけ殺されても殺されても反撃しなかった。

 しかしそのことで結果的には、インドネシア軍の暴力・横暴が国際社会の前で明らかになったという意味では成果だったかも知れませんが、でもその中で東ティモールの民衆や聖職者までが殺され、ノーベル平和賞受賞者の家まで焼き払われ、ベロ司教は命からがら海外に逃げざるを得なかったのです。

私としては非常に割り切れないものがあります。殺された人たちの想いをちゃんと汲んで生き残った私たちがきちんとしなけらばなりません。


 不条理に殺されていった人たちの魂の声を聞くということが重要です」(『情況』一九九九年一一月号所収「東ティモール解放へ:連帯運動の二十年」)。

 高橋氏の発言も参照しながら、問題のありかを要約してみる。非武装社会の構想という、現在の世界水準でいえばひとり突出した「理想主義」をCNRTは、シャナナ・グスマンの口を通して以前から掲げていた。

それは、抵抗のために止むに止まれず発動した暴力が、「一時的なもの」でしかないかもしれない「敵」の末端の兵士を死に至らしめることへの痛みを感じた主体が、(武装を伴う抵抗闘争の必然性を確信しつつも、同時に)暴力が暴力を、憎悪が憎悪を呼び起こさない未来を展望するがゆえに選択された道であった。

その端緒として、彼らは「併合派」の暴力に無抵抗を貫くという形で実践した。インドネシアによる暴力支配に対しては武装抵抗を辞さなかったCNTRが、何故この段階で無抵抗路線を採用したのか。

 志は理解のうちにあるとしても選択時期が正しかったか否かの問題は残り、高橋さんならずとも「割り切れなさ」を感じて当然のことだと言える。ただ外部世界にいる私としては、それへの賛否/共感か批判かを性急に表明するよりは、前回も述べたように、主体自体が迷わなかったはずはないその「決断」の背後にあるものをじっくりと考えるべきであると捉えている。

外部の私たちが、内部の主体以上の判断材料をもっているとは考えられない。そこには、グスマンらの日頃の言動に明らかなように、武装闘争をいかに位置づけて闘争を継続するのかとか、対立してきた者に対する「憎悪」の問題をどう解決するかについて、第三世界の闘争から学んだことが秘められていたにちがいない。

 だが現実には、そのために多くの犠牲者が出たと、事後彼らは判断せざるを得なかった。やがて独立するであろうチモール・ロロサエは、国軍を持つという「現実主義」へ転換した。ごく最近グスマンと語った人の報告によれば、グスマンは住民投票後の「併合派」の暴力によって人びとに刻印されたトラウマを気遣っているという。

投票前の受難はいかに悲劇を伴った場合もあるとはいえ独立闘争の一貫した過程におけるもので耐えることもできるが、投票後のそれは意味がなく説明不能であり、受け入れることはできない。それゆえ、癒しがたいトラウマとして残っているというのである。

 非武装問題に関するグスマンらの「転換」の背景には、こんな事情があるにちがいない。「局外者」である私たちは、その意味を、現実に存在している世界情勢と、東チモールで進行した以上の事態の中で捉えるしか、ない。状況は流動的で、これからもまだ、どんな「変化」も可能である。

東チモール独立運動が世界に示し得た範例を思えば、独立した新しい社会が国軍を有する場合でも、何の疑問もなく自然の流れの中で「民族解放軍」が国軍となる場合とはちがう「何らかの変化」が、主体的にも、客観的にも生まれるだろう。遅い歩みではあれそれが、私たちが歴史から感じ取ることのできる、確かな変革の兆しなのだ。

 問題はつねに、主体みずからに返ってくる。私たちは、大日本帝国海軍がかつて三年有余にわたって東チモール地域を軍事占領し、その際住民に与えた損害について五十五年後のいまも補償していないという歴史的過去を有している。

しかも、いまや世界でも有数の国軍=自衛隊を擁する日本社会に生きているからこそ、東チモール独立運動が掲げていた「非武装社会構想」に関心をいだき、その行く末を見守りたいと思ってきた。

私たちを取り囲む情況はそれだけではない。一九九九年国会における周辺事態法案の成立によって、世界の二大武装大国・米国と日本の軍事共同作戦は、日本の国内法的に可能になった。

だが私たちは、これが現実のものとなることを阻止しようとする運動のさなかにあり、その究極の地点は、国軍の廃絶による非武装社会の実現にあると考えるからこそ、東チモール独立運動の方針に関心をいだいてきた。

 CNRTの、「理想」と「現実」の狭間での苦闘を彼岸のものとはせずに、私たち自身の試行錯誤のなかで生かすこと。私たちの足元に残るのは、その課題である。


【1999年12月15日記】

 
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