ペルーの日本大使公邸占拠・人質事件が起きてから三年が過ぎた。反政府ゲリラ、トパク・アマル革命運動(MRTA)による占拠期間は四ヵ月に及んだから、その間中私たちは、マスメディアでの大量の事件報道に囲まれていた。
あの事件から何ごとかを学ぶという意味で、報道量に見合った結果を私たちは手にしているだろうか。
どんな出来事も、社会的な文脈を離れては読み解くことはできない。ゲリラは、獄中政治囚の処遇状況とフジモリ政権の経済政策に関わる要求を掲げた。つまり、民主主義と人権の問題、および貧富の格差を放置する政府の社会・経済政策への疑問を発したのだ。
ペルーのような「南」の貧しい国の場合には、その政策を制約する力を持つ日本などの大国や国際金融機関の役割のあり方もが問われたのだと言える。ゲリラの主張と手段に対する賛否は別にしても、重要な課題が提起されたのだ。
だが、フジモリ氏はそうは捉えなかった。ゲリラの主張には根拠がなく「無法なテロ」は断固粉砕するというのが、彼の揺るぎない信念だった。十七人の死者を出した武力決着の直後に、満面の笑みをうかべて国旗を振って凱旋する彼の顔に、私が政治家ではなく軍人の顔をしか感じ取ることができなかったのは、そのためだ。
フジモリ氏にとって、あの事件は「一過性の危機」でしかなく、それを乗り切ってしまえば一件落着だった。自らの政治・経済政策を考え直す契機にはならなかった。
政治囚が劣悪な処遇の改善を求めてハンガーストライキを行なう状況にも、絶望的なまでの貧富の格差にも、三年後の今も変化はない。彼は大統領三選を狙っているが、二〇〇〇年一月九日には立候補するか否かを最終的に表明するようだ。
日本での受けとめ方はどうだろう。武力決着の直後にはフジモリ氏の「英断」を称え日本の危機管理の欠如を慨嘆する意見が目立ったが、三年間には別な形での捉え方も出てくる。中島みゆきは、「4・2・3」と題する昨年の歌で、この事件を歌った。
ここでは、日本人人質の安否のみに関心が集中し、救出作戦で死亡した兵士と遺族の悲しみに想像力が及ばないこの社会の病理が暴かれる。日本人でないものには冷たいこの社会のあり方が怖いと歌う中島に、私は共感をおぼえる。
この思いを受ける形で、死刑囚・永山則夫がいた。彼は九七年八月に刑死したが、自分の著作の印税をペルーの貧しい子どもたちに寄付してほしいとの遺言を遺した。人質事件の報道から、獄中の彼はペルーの貧しい路上の子どもたちの現実を知ったのだろう。
貧しさのゆえに犯罪に走った自分の人生への悔恨がこめられた著作から得られた一千万円ちかいお金を、「永山則夫基金」と名づけて受け取るペルーの子どもたちが現実に存在していることの意味は大きい。
ペルーを囲む国際環境はどうだろう。事件の直接的な当事者であった日本も、先進国であるという意味で間接的な当時者であった米国なども、事件そのものについてはフジモリ氏と同じ立場でとらえた。
貧しい南の国々の政府に「弱者切り捨て」に等しい政策の採用を強要するというあり方を顧みることはなかった。画一的な貿易自由化が南の諸国の生命線と言うべき農業を破壊していること、南北間の現状の交易条件が経済格差の解決に寄与するものではないことーーそんな問題意識を育むこともなかった。
でも、歴史はそう直線的には進まない。世界貿易機関(WTO)のシアトル閣僚会議の決裂はどうだろう。そこには、米国対日本・欧州連合(EU)の対立とは別に、先進国の身勝手なふるまいを批判する途上国の意志がはたらいていた。
三年前のペルー事件が本質的にはらんでいたのと同じ質の問題だ。ペルー事件のほとぼりもすっかり冷めた今は、南北問題というこんな大きな構図の中で、事件の意味を冷静に振り返るにはいい時期なのかもしれない。それが、あのような悲劇の再現を、根っこから解決していく「急がば回れ」の道につながるはずだ。
【1999年12月6日記】
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