現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1999年の発言

◆インタビュー「東ティモール多国籍軍評価をめぐって」(仮題)

◆書評:目取真俊著『魂込め』

◆チモール・ロロサエは国軍を持つというグスマンの言明について

◆ペルー大使公邸事件から三年

◆グスマンの「方針転換」について

◆私達にとっての東チモール問題

◆文学好きの少女M子、十七歳の秋

◆東チモール状況再論:若干の重複を厭わず

◆「おまえの敵はおまえだ」

◆東ティモール情勢を、PKF解除に
利用しようとする日本政府と右派言論


◆書評:伊高浩昭著「キューバ変貌」

◆「ふるさとへ」

◆アンケート特集/若い人たちにおくる三冊

◆書評  田中伸尚 『さよなら、「国民」「「記憶する「死者」の物語』

◆傍観か空爆か。少女の涙と大統領の周到な配慮。他の選択を許さぬ二者択一論と欺瞞的な二元論の狭間

◆「ほんとうは恐いガイドラインの話」

◆裁判長期化批判キャンペーン批判

◆時代につれて変わる出会い方、そのいくつかの形ーーラテンアメリカと私

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「おまえの敵はおまえだ」   
「派兵チェック」85号(1999年10月15日発行)
太田昌国 


 去る六月、年長の友人・山口健二さんが病死した。享年74歳。知り合ったのは、私の学生時代。以後30年有余、断続的にではあったが、付き合いは続いた。

 手元から本が喪われたので正確な引用はできないが、鶴見俊輔が「(山口健二は)もっとも信頼できる左翼の人間だった」との趣旨のことを述懐したことがあると、かつて森秀人は書いていた記憶がある。

私が知るかぎりでも、共産党、社会党、総評、アナキズム運動、新左翼諸党派ーー時代によってさまざまな潮流と関係を結びながら運動の過程を生きた、不思議な人だった。戦後反体制運動の裏面史、外史、野史を、人を煙にまくフィクションをまじえながら語り得る稀有の人だったと思う。

 知り合って間もない、私がごく若いころに言われた。「思想の幅は狭くてよいが、行動の幅は広くとっておくほうがよいと思うよ」。私が、この含蓄ある助言を生かしてやってきたと言い切る自信はない。でもこの言葉は、1960年代初頭の雑誌『白夜評論』に山口さんが書いた「おまえの敵はおまえだ」という文章の表題とともに、記憶から消えることはない。

 「表題」とあえて書いた。実は、この雑誌もいま手元にはなく、文章の内容を確かめるすべがない。論理の展開というより、アフォリズムの連鎖のような文章であった気がするが、いまの私にその真相はどうでもよく、表題の含意だけが大事だ。

 唐突だが、大江健三郎の文章を引く。シカゴ大学で徳川時代の思想史を講じるテツオ・ナジタに宛てた書簡で大江は言う。

 〈自国の歴史を単純化せず、多様に、リアルに見て、どんな自己中心の夢も押しのけることこそ、二十一世紀の国際社会によく生きるための、本当に新しい「仁」と「義」の教育ではないでしょうか。(中略)しかし、実際に盛んになりそうなのは、「日の丸」「君が代」の法制化に力をえた、歴史家でも教育者でもない人々が歴史教科書を作りかえるという、他者の痛苦をくみとる「仁」とも、フェアの精確さの「義」とも無縁な動きなのです〉(1999年10月5日付け『朝日新聞』夕刊 )。

 「歴史家でも教育者でもない人々が歴史教科書を作りかえるという」事実に苛立つ大江は、この前段でも、この考え方と無縁ではないであろう夢を語る。アジア太平洋戦争の末期、大江の父親は毎晩酒に酔っては、無学な商人である自分を恥じていたと回想したうえで、大江は言う。テツオ・ナジタの『懐徳堂ーー18世紀日本の「徳」の諸相』を読みながら、酔って身体を揺らす父親の前に無力感と悲しみをもって正座するばかりの自分に、「仁」を《人間の寛容さ、同情、慈悲心の基礎》とした徳川期の学問所の開基者の言葉に倣って、それならお父さんにもあると思うと言うことができたなら、と夢みたことを。

 大江はここで、わずか10歳にも満たぬかの年ごろの自分に、こんな言葉で父親を慰めえたかもしれぬ役割を仮託している。

 実は、後者の夢想には、畏れ入りましたとでも言って、引き下がるしかない。10歳のわが子にこんな言葉を吐かれたら、父親は酔いにまかせて、きいたふうのことを言うな、と殴りつけるのではないかというほうへ、私の想像力は及ぶからである。

 「お父さんは、恥じる必要はないと思う」と励まし得た、幼い自分を含羞もなく仮想できる大江は、うまくは言えぬがどこか勘違いをしていると思え、そのあまりの優等生ぶりに大きな違和感をおぼえる。

 単なる違和感に終わることのない、批判的な思いは、優等生ぶりではひけをとらない、前者の発言に対してこそ生まれる。「歴史教科書を作りかえるという」「歴史家でも教育者でもない人々」というのは、『戦争論』などを描き続ける小林よしのりや、間もなく『国民の歴史』を刊行するであろう西尾幹二らのことを言いたいのだろうか? 私自身も幾度も書いてきたように、私も小林や西尾の歴史観には深い批判をもつ。

 だが、それは「歴史家でも教育者でもない」彼らが歴史に口出しすることに対する批判では、決してない。内容に対する批判である。

むしろ、小林たちの表現が大きな「成功」を収めてきたのは、「歴史家や教育者」などの口舌の徒=インテリ=言葉や文字をもてあそび、行動しない人間への敵意を煽ることで、硬直した学校教育に苦しみ、(大江のような東大出、ましてやノーベル文学賞受賞者!に象徴される)エリート主義への怒りを燃やす人びと(とりわけ若者)の共感を獲得できているからだと考え、この事実の重大性に注目している。


 「たかが漫画家」が社会・政治問題から、若者の性・エイズ問題に至るまで、知の高みにいる者たちを辛辣に当て擦りながら〈本音で〉描く。「たかがドイツ思想家」が「日本の歴史」などという大それた一書の執筆に果敢に取り組む。

立派な専門家としての歴史家や教育者が、上から描く空疎な歴史書には欠けている何かを、内容の当否以前に、人びとはそこに感じているのだ。

この種の表現がなぜかくも大勢の人びとの心を捕らえているのかを掘り下げること、そのうえで内容の当否を問い、批判する有効な道を探ること。そのことこそが求められている時に、大江は手垢にまみれた〈専門性〉の囲いの中から〈敵〉を撃とうとしている。驚くべき時代錯誤、というべきである。 

 大江がこう表現する時、どんな理想的な歴史家や教育者を思い浮かべているのかは知らない。だが、自由主義史観への批判を行ないながら私は、ほかならぬ私自身が読み込み、影響を受け、信じた時期もあった歴史観には、〈日本ナショナリズム〉に収斂していくという一点において、批判されるべき自由主義の歴史観と通底するものがあるということを省みざるをえなかった。

その意味で、私は、遠山茂樹、江口朴郎、上原専禄、竹内好、井上清、石母田正らの主著を読み返す作業をしている。

 読めば読むほど、〈敵〉はわが裡にあり、「おまえの敵はおまえだ」との思いがわいてくる。それは、この作業の渦中で、かつてこの表題の文章を書いた山口さんの死に出会ったから、ばかりではない。

ナショナリズム批判とは、自分の中にも巣食うそれともたたかわなければならぬ困難な作業だとあらためて思うからである。右派言論と対峙してきたこの数年間を経ての思いは、そこへ行き着いていることを、私は知る。

                         (1999年10月11日記)

 
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