現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1999年の発言

◆インタビュー「東ティモール多国籍軍評価をめぐって」(仮題)

◆書評:目取真俊著『魂込め』

◆チモール・ロロサエは国軍を持つというグスマンの言明について

◆ペルー大使公邸事件から三年

◆グスマンの「方針転換」について

◆私達にとっての東チモール問題

◆文学好きの少女M子、十七歳の秋

◆東チモール状況再論:若干の重複を厭わず

◆「おまえの敵はおまえだ」

◆東ティモール情勢を、PKF解除に
利用しようとする日本政府と右派言論


◆書評:伊高浩昭著「キューバ変貌」

◆「ふるさとへ」

◆アンケート特集/若い人たちにおくる三冊

◆書評  田中伸尚 『さよなら、「国民」「「記憶する「死者」の物語』

◆傍観か空爆か。少女の涙と大統領の周到な配慮。他の選択を許さぬ二者択一論と欺瞞的な二元論の狭間

◆「ほんとうは恐いガイドラインの話」

◆裁判長期化批判キャンペーン批判

◆時代につれて変わる出会い方、そのいくつかの形ーーラテンアメリカと私

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文学好きの少女M子、十七歳の秋
第IV期・反天皇制運動連絡会発行
『<アキヒト・ミチコ>天皇制の「十年」:「天皇在位十年記念式典」・奉祝キャンペーンに抗議する』と題する小冊子(99年10月30日発行)に収録したものに訂正。
語り手/有馬美子(ミーコ)
聞き取り・構成/太田昌国 


                  一


 きょうも朝から不愉快なことばかりだ。家を出て駅に向かう途中、小さな公園がある。樹齢何十年にもなる桜の大木で有名な公園だ。

 桜の花は好きだが、それは〈私のカジイ〉が言うような妖しさが好きなので、ことさらサクラ、さくら、桜、SAKURAと言い立てて、奇妙な日本文化特殊論を展開する人びとは嫌いだ。でも、いまはこの木が花開かせる季節ではない。きょうも、葉を落としたあの桜の木の下には、何組もの母親と子どもたちが集まっていた。

 普段着を小綺麗にまとめた若い母親たち。私と一〇歳ちょっとしか違わないのに、どうしてああこまっしゃくれているのだろうと思わずにはいられない、いまどきの幼い子どもたち。毎朝、幼稚園の送迎バスを待つ何組もの母子ーーという光景を見ると、私はどうしようもなく全体主義の匂いを嗅ぎつけて、不愉快になる。

 理不尽な思いだ、ということは知っている。仕方ないのよ、論理ではなく生理なんだから。家庭や地域にあるにちがいない精神の惨劇をひた隠しに隠して、お互いの敵意と探り合いの不信の目も秘め事にして、幸福そうに集まる母子たち。

 ああ、たまらない!

 駅に着いて電車に乗る。きょうも満員だ。私と同じ性の存在を前にして、きょうも男たちは大仰な見出し文字が踊るスポーツ新聞を広げている。若いのも、中年も。芸能人の結婚、離婚、不倫。年俸三億円も手にしておいて不振をきわめる野球選手の「駄馬」呼ばわり。派手な文字だ。

 でも何が嫌って、卑猥な見出しとともに載っている裸の同性たちの写真や露骨なイラストだ。狭い空間、身動きのとれないからだ。いやでも目に飛びこんでくる。他人を、しかも異性を前にこんなものを平然と広げて、自分の外見も精神も飾ることをしない男たち。朝からこんなばかげた読み物を読んでいるから、男たちの脳味噌は膿味噌になってしまうんだ、きっと。

 腐臭、存在それ自体が放つ腐臭。こんな男たちが、カイシャで何の仕事をするというの!

 お昼休み。きょうはお弁当がないので、S子とパンを買いに校舎の外に出た。私の学校の回りには、けっこう会社があって、昼どきには付近のレストランや食堂はサラリーマンで賑わう。異常な暑さが続いた今年の夏。一〇月に入っても暑く、秋にはほど遠い。

 だから男たちはワイシャツ姿だ。ああ、またしても! 食事を終えた男たちが、三人、四人と道いっぱいに広がって向こうから歩いてくる。

ワイシャツにネクタイ。腹部の醜い膨らみを抑え切れなくなってボタンとボタンの間のワイシャツがはち切れ、下着のシャツまで見えているヤツもいる。そして、あの爪楊枝。誰もが口元をだらしなく緩め、爪楊枝をはさんでいる。

シーハ、シーハ。ああ、たまらない! この男たちは、今朝、公園にいた女たちの夫にちがいない。家庭と会社挙げての、全体主義の完成!  こんなものを見続けた挙げ句が、午後は石毛の国語の授業だ。最悪、サイアークだ。

 この社会は不思議だよなあー、おかしいよなあー。なあー、と語尾をいやに引き伸ばすZ独特の口調で、きょうの国語の授業は始まった。代議士の放言が問題になるのは、いつもサヨクから見て右翼っぽい言動だけだからなあー。

 「核武装の問題も国会の討議の対象にすべきだ」と言っただけで、マスコミの袋叩きにあう。この国には討論の自由もないんだなあー。サヨクや自称民主主義者の代議士が、軍隊は要らないとか、国旗・国歌は要らないなどと言うのも、国を守るべき責任を持つ議員としては大いに問題にされるべき放言だと先生は思うが、そんなことは問題にもされないよなあー。

 しかし、とZはここで一息ついた。この前の国会で成立した法案によって、君が代と日の丸は、法律的にも正式にわが国の国歌・国旗となった。いままで反対と言ってきた連中も、これで反対する理由を失ったわけだ。卒業式や入学式のたびに、掲揚だ、斉唱だ、いや反対だ、という大騒ぎがこの学校でも起こってきたが、次回からはシュクシュクと行なわれるわけだ。

 政治家が大好きな「シュクシュクと」という言葉を、Zはわざとらしく声を大にして発音した。静けさとも、慎みともおよそ無縁な男たちが、ことさらに使いたがるこの言葉。フン、という表情が私の顔に隠しようもなく顕れてしまったのだろう、Zは教壇の高みから私の顔をにらみつけた。恐ろしい顔だった。

私は思わず、透明のペンシルケースの中に見えたナイフを取り出し、右手に握りしめた。神戸の、あの「十四歳」の少年のこころが一瞬わかったような気がした。


                   二

 一年前のことを思い出す。私たちが「ミッチャン、ミチ・ミチのミチコさん」と陰で呼んでいる人が、私の大好きなインド(!)で開かれた児童図書の国際会議とかでビデオ講演をした。

歌あり、踊りあり、恋物語ありのインド映画に心踊らせて、私のインド好きは始まったのだが、それはともかく、「子ども時代の読書の思い出」というその講演は、テレビでも放映され、新聞にも出た。私たちは、Zの「国語」の授業で、その講演を読まされた。ある新聞に出た講演要旨の記事のコピーが配られ、それを読んで感想を述べあうという特別授業だった。

 Zは、お正月の歌会始の歌とか、一族が旅先で詠むならわしになっているらしい歌とかが新聞に出ると、よくコピーをして私たちに配り暗誦させようとしたが、「古典」の授業で万葉や新古今の歌をある程度まで読み込んだ私たちにすれば、なんなの、この歌、という水準のものが多かった。

 Zがあえて「至尊」と呼ぶ、前の天皇の「御製」(これもZの表現だ。実際、Zはほかにも、玉体、玉顔、玉音、宝算などの表現を私たちに教えこもうとしてきた)には、見るべき歌もちらほらあったが……。

 あとは、この人たちの発言に触れる機会といえば、国会とか国体とか植樹祭とか海の日とか、何かしらのイベントで述べる、あの奇妙な発声と抑揚の式辞くらいだ。文体も、とびきり可笑しいから、一度聞いたら耳から離れない。いのちのこもらない言葉なぞ、この社会には溢れているけれども、あれほど〈こころ〉が感じられないのに、ねばっこい妙な印象をひとの心に残す言葉はめずらしい。

 生活形態からしても、あれほど〈人間味〉の感じられない存在はめずらしい。あの人たちはそういう人たちなのだと思い込んでいたから、「ミッチャン、ミチ・ミチのミチコさん」のインド講演には驚いた。そこには、たしかに〈肉声〉が感じられた。あの人が、自分のことばで話している! しかもかなり〈聡明に〉。

 Zは嫌いだけれど、なにごとかを言わなければならない場面に立たされて、私はその驚きを率直に表現した。この人は(さすがに、Zの前で、ミッチャン、ミチ・ミチのミチコさん、とは言えなかった)自分で文章を書いたんですね。

しかもかなり上手です。ふだんから文章を書きつけていないと、書けないものだと思います。短歌ならともかく、この人はふだん文章を自由に書いて発表できる人とは思えないので、きっと秘密の日記をつけて、文章の練習をしているのではないでしょうか。

 先生がよく「至尊」と呼ぶ、前の天皇、つまりあの人の義父にあたる人とは、結婚以来キリスト教信仰の問題とか子育ての問題とかでいろいろ衝突したり、精神的に追い詰められたり、床にひれ伏して謝ったりの葛藤があったと聞いています(私は、ヘアサロンの待合室で読んだ、男にとってのスポーツ新聞みたいに、わたしたち女の脳味噌も膿味噌にしてしまう、例の女性週刊誌で知っていたありったけの情報を詰め込んだ)。人は、追い詰められたり、困難に直面してはじめて心が研かれ、自分の心の裡を表現する力が得られると言われています。

 そうです、あの人はきっと誰にも見せることのない「地下生活者の手記」を書いていて、そこで復讐のための文章訓練を重ねているのです。

この講演は、新美南吉の「でんでん虫のかなしみ」から始まります。子どもの時にこれを読んで確かに感じるものはあったのだろうけど、ここで言う悲しみは明らかに成人後、とりわけ皇室に入ってからのものです。理由? 別にないけど、勘です。文章全体が持つ雰囲気に対しての勘です。勘でものを言ってはいけないんですか。

 日本の神話伝説に親しんだ、とことさらに述べるところも、キリスト者のあの人を思えばなかなかです。建国神話への、さりげない誘いです。しかも、なかでも忘れられない物語は、皇子・倭建御子とその后・弟橘比売命の遠征のそれだといいます。

 皇子は時の天皇から遠征に継ぐ遠征を命じられ平穏な休息の時が得られなかったと、あの人も述べています。建が荒海を前に進退窮まった時に、弟橘は海神のいかりを鎮めるために入水するこの神話に、あの人は稀に見る「愛と犠牲」の物語だとして感動したと子ども時代の思い出を語るのです。

 あの人の立場を思うと、これはひょっとしてすごい感想です。建と弟橘の美しい「愛と犠牲」の対極にいるのは、無理強いをした天皇です。これもまた、子ども時代の追憶に終ることのない気持ちが透けて見えます。

これらに秘められた、当てつけの仕掛けを思うと、この人はなかなかのものだと思います。無意識の人を、「愛と犠牲」の果てにかちとられた建国神話の世界に導き、わかる人だけにわかる方法で、義父への復讐を遂げているのです。

 思いがけない方向に私の話が転じていっていることを、私は自覚していた。Zの顔が紅潮し、鼻を大きく膨らませていくのがわかった。アイツが興奮した時の特徴だ。もういい! 怒った声でZは叫んだ。


                   三


 Zが私を講堂から引きずりだそうとしている。Zの汚らわしい手で捩じあげるようにして掴まれた左の二の腕が痛い。

私は、右腰の、セーラー服の下に秘めたポシェットの中のナイフを必死で求める。ポシェットといっても、チャラチャラした女の子が可愛らしさの演出のためにつけている、タイ製やアンデス製の小さなものではない。「あの日」以来、私は何かを感じて、特製の長めの革ケースを身をつけ、そこに隠し持っていたのだ。

 Zが数週間前勝ち誇って言ったように、日の丸と君が代を国旗・国歌と定めた法案は国会を通過した。きょうは天皇在位一〇周年の「記念式典」の日で、政府はさっそくすべての学校に「国旗掲揚に協力を」と要請していた。

Zタイプの教師がうようよいる私の学校では、その「要請」の範囲をすら越えて、講堂に日の丸を掲げ、君が代を斉唱するという。「シロヂニ アカク……」の旗、「キミガアヨーハ……」の歌。現代を生きる私の美意識と音感に、これほど暴力的に侵入してくるものは、ない。

 〈あの人〉には、信じられないほど自由に発言させるような雰囲気も一方でつくっておきながら、結局あなたたちは引き替えに、どこかで「自由」を引き締めずにはいられないのね。騙されるものか。私が好きな絵を描いていたアンノ・ミツマサ、〈あの人〉の本の装丁を担当してご苦労様の茶話会で皇居に招かれた時の、能天気な文章を読んだよ。もう、これまでね、さよなら。

 学校や子どもについてかなりまともなことを言っていたカワイ・ハヤオ、〈あの人〉の本に寄せた「皇后さまからの、国民への贈り物」という宣伝文、読んだよ。あんたともお別れだね、さよなら。自由な精神の体現者のように見えたあなたたちも、あの「一族」の前にはひれ伏していく、あたりまえの日本の大人だったんだ。

 実は、ずいぶんと不自由な心しか持っていない人なんだね。騙されていたよ。


 君が代の斉唱が始まって、生徒も教師も直立不動で立っている。立つものか、歌うものか。私は、床に座り込む。「M子、キサマあー」。Zがとんできた。「法律で決まってんだー。もう抵抗はできなんだぞー。立てえ。立って、歌えー」。

歌うものか。自分から歌いたい歌はたくさんある。押しつけられた歌など、歌うものか。立とうとしない私に業を煮やし、Zは私を床の上で引きずりだした。口をポカンと開けて、あの間延びした歌を歌い続けるいくつもの無表情な顔が目にはいった。見まい、見てはいけないとする、この無表情さ。

 ああ、心がかよっていないこの顔つきには見覚えがある。桜の木の下の女たち、電車の中で卑猥な紙面を他人の顔に押しつける男たち、爪楊枝のサラリーマンたち。日常のどこにも、この顔はある。

 Zに引きずられてゆく私の脳裏に、さらにいくつかの表情が浮かんだ。なぜか代々、海洋の小生物や微生物ばかりを「研究」している男たち。この「珍種」の男たちが〈族〉として滅びてゆくのを静かに見送っていればよいものを、せっかく持っていたらしい「才能」を殺してまでその男たちの家系に「産む性」として入り込んだ女たち。

 そのひとつひとつの顔を思い浮べながら、私はポシェットのナイフを右手で握りしめた。そしてひとつひとつの顔に、心の中で斬りつけた。男たち、女たちの顔は歪み、やがて顔いっぱいに鮮血が広がった。

 なにごとにも耐えて、耐えてきた私の日常が終わった。「十四歳」の少年の哀しみに、少しは近づいたと思った。凶暴な気持ちがあふれでてきて、これからだ、と私は、自分でも思いがけないほどしっかりとした意識をもって、Zの強腕に引きずられていた。



                           (1999年10月27日記録)

 
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