一、「卓上四季」という新聞コラム
ラテンアメリカ、広くは「第三世界」と出会ったのは、私が一〇代半ばの頃のことだから、もう四〇年ほども前のことだ。一九五〇年代末から六〇年代にかけてのことである。思い出してみれば、理由はいくつかあったように思うが、ここではそのひとつに触れてみる。
私は北海道東部の町に生まれ育った。テレビがふつうの家庭にまで浸透している時代ではない。何か大事件が起こると、すでにテレビが入っている近所の家の小母さんが「見においで」と誘ってくれる時代のことだ。いきおい、ふだんの情報源は新聞でありラジオであった。
北海道では、日刊紙は「北海道新聞」が圧倒的なシェアを持っている。同紙の一面下段「卓上四季」というコラムがあって、一九六〇年前後の時代には、私がいまも思い出すことができるようないくつもの「名文」が載った。世界史的な展望の下で現実を見通す確かさと文学・芸術への造詣の深さで、そのコラムは際立っていた。
須田幀一という名の、戦後ジャーナリズム史をふりかえるときには逸することのできない名コラムニストが書き手であった。中学・高校時代にはよく文章の要旨をまとめるという課題が出されるが、そのコラムは、課題とされていなくても、熟読し、わからないことを調べ、考えさせるだけの精神的な刺激を与えてくれるものだった。
「世界史的な展望の下で現実を見通す」ということでいえば、繰り返すが一九六〇年前後の時代だから、日本では安保闘争があり、世界に目を向ければ一九五九年キューバ革命の勝利、一九六〇年アフリカ諸国の独立、一九六二年アルジェリアの独立……といった事態が続いていた頃である。
「平和主義者」といわれてきたインドのネール首相が、インド大陸に「ダニ」のようにくらいついたゴアというポルトガル植民地を武力で解放したのもこの時代(一九六一年)のことである。総じて言えば、どこを向いても、欧米諸国による植民地主義支配を打破する動きが高揚していた。
「卓上四季」はこれらの動きの意義を評価し、背後にあるものを示し、これが世界史の歩みを変えていく必然的な道筋であることを的確に指摘していた。キューバ革命に対する評価も、このコラムが基本を用意してくれたように思える。私はこのコラムを「生きた世界史の授業」だと思っていた。
それにしても、少なからず驚いたのは、「卓上四季」が伝える、次のようなアルジェリアの独立闘争に関する情報だった。記憶している大要をまとめると、次のようになる。
大戦が終わって一六年経ったいま(と、一九六一年のある日のコラムは言う)、戦勝国のなかでいちばん苦しんでいるのはフランスだろう、はじめの九年間は泥沼のようなインドシナ戦争、とどのつまりはディエンビエンフーの敗戦となった。
それに続く七年間はアルジェリア戦争で、共産党すらがアルジェリア政策では動揺を繰り返し、アルジェリアの解放戦線を一貫して支持したのはサルトルらのグループだけだった。アルジェリアの解放戦士に対するフランス側の弾圧はナチスまがいのもので、ルーブルとシャンゼリエで「かおり高い」フランスがこんな野蛮なことをするかと思うと、百年の恋もさめる、と。
植民地支配体制が潰えつつあり、新しい時代が到来しつつあることは確かだったが、アルジェリア解放闘争に対するフランス挙げての敵対的な態度を知ると、怒りがこみあげてくることは当然としても、人間の考えと行為が変わっていくということは大変なことなのだという思いが残った。
いま当時を振り返りながら、別な側面の問題も考えてみる。その後の四〇年の間にメディアは大きな変貌を遂げ、巨大な産業となって「第四権力」との異名までとるに至っている。
巨大化したマスメディアの内部からは、骨太な歴史観に裏付けられた言論はほとんど消えた。かつて力をふるい、かつ現在の秩序を支える強者の価値観を疑問の余地なくなぞるばかりの言論が横行している。
南北の経済格差の問題こそ、現実の世界が直面している重大な問題であるからには、過去の植民地支配の事実について触れられることも、あるにはある。だが、ここ数十年の経済・貿易関係で生じた、「北」に対する「南」の債務解消問題がマスメディアで声高に議論されることはあるが、植民地支配によって生じてくるはずの、「南」に対する「北」の賠償責任問題が取り上げられることは、ない。
それだけに、私は、植民地支配の問題についての自覚が明確であった、四〇年前の一地方紙のコラムの意義を、いまあらためて確認することになる。社会を支配する常識的な議論の枠組みを越えて問題の根源を浮かび上がらせる発言に若い頃に出会えたことは、大事なことだったと思う。
二、D・H・ローレンスの『馬で去った女』
そのころ外国の文化や情報に接するには、新聞・ラジオと、当時はまだまだ少なかった本に頼る場合が多かったとはいえ、対象が欧米諸国の場合ならば、まだしも恵まれていた。文学はもちろんのこと、映画にせよ音楽にせよ絵画にせよ、それらに触れる機会はあった。
しかし、上で触れたような「新興諸国」の文化や現実に接する機会はきわめて制限されていた。でも、そんな時代にあっても、思いがけない迂回路や抜け道はある。一見したところ「情報過多」の状況に溺れている現在から見ると、そんな巡り合い方は懐かしくさえある。
一九五〇年代を通して大きな社会的話題となったものに、D・H・ローレンス著『チャタレー夫人の恋人』(伊藤整訳、小山書店刊)が猥褻文書であるかどうかをめぐる裁判があった。私が中学のころだったと思うが、最高裁の判決が出て、訳者と出版社の有罪が確定した。
年齢からいっても、「猥褻文書」なるものは、当然のことながら仲間うちのたいへんな話題となった。それに伊藤整は、北海道・小樽出身の作家で、その頃までに彼のどんな作品を読んでいたかは記憶もないが、どことなく親近感か信頼感をもっていたから、その人が翻訳したものが警察の手入れを受けたということからも、興味は深まった。流通していた『チャタレー夫人の恋人』の「猥褻」箇所削除版を入手して、みんなで回し読みした。
おもしろかったのだろう、新潮文庫くらいはある程度そろっている町いちばんの大きな書店に行って、ローレンスの他の作品を探した。何冊かあったように思うが、いまもとりわけ記憶に残るのは『ローレンス短篇集』(岩倉具栄訳、新潮文庫、初版は一九五七年)に収められた『馬で去った女』という作品だ。
メキシコの山地に移住して銀鉱山を所有するに至ったヨーロッパ人の男がいる。縁あって彼と結婚したのはバークレー出身の白人女性。彼女はある日、単調な生活に飽きて、独り馬に乗って、訪問客たちが話していた、山の彼方のインディオ(「土人」と、岩倉氏の訳書では表現されていた)の集落を求めてゆく。
集落にたどりついた彼女は、インディオたちとの出会いの中でさまざまに不思議な体験をする。集落の長に「何を求めてここに来たのか」と問われた彼女は「何もないわ! 白人の神から自分で逃げ出して来たの」と答える。白人の神には飽き飽きした白人の女が土着の神を求めてやって来たのだと解釈した村人たちは、「太陽を取り戻すための」人身御供として彼女を捧げる儀式を執り行なう。彼女は従容としてその運命を受け入れてゆく……。
短篇を要約してしまうと味気ないものだが、関心を持った方は実際の作品に当たっていただくのが、いい。いま読み返すと、当然にも、別な思いが生じたり、経済的には満ち足りた生活をおくりながらその日常生活の単調さに飽きた白人が、迷い踏み込んだインディオの村で……という物語の展開には、ちょっと待て、と途中で一声かけたくもなる。だが物語の基本構造は、いま読んでもわるくない。
ましてや、はじめて読んだときの印象には忘れがたいものがあった。不思議な世界を垣間見た、メキシコとはいったいどんなところなのだろう、当時わたしが楽しんで観ていたハリウッドの西部劇に出てくるインディアンと、メキシコの「土人」とか「土民」と表現されている人びとは、いったいどんな関係なのだろう、そもそも関係はあるのだろうか、『チャタレー夫人の恋人』を書いたローレンスが、いったいなぜメキシコを題材とした作品を書いたのだろう……。
すぐさま解決はつかなくても、何かに接して、こころに深く印象として残るというものがある。この作品は私に、そんな作用を及ぼしたように思える。その後、ローレンスには、メキシコを舞台にした長編小説『翼ある蛇』という作品もあることがわかり、一九六三年になって翻訳が出ることで(宮西豊逸訳、角川文庫)、ローレンスとメキシコの関わりは、もう少し広がりをもって見えてきた。
私も青年期に入りつつあった時期だったし、彼の作品が、もちろん、男女の完全なる性的結合を軸にした人間社会のあり方を求めるなかで「原始的な」生命の神秘に魅せられたローレンスという作家に即して論じられるのが正統派の流儀なのだろうということは、理解の範囲内にあった。だがこの作家の場合、私には、かつてもいまも、作家とメキシコの関わりのほうに興味深いものを感じる。
ローレンスがメキシコに滞在したのは一九二〇年代の一時期だった。どんな時代だったのだろうと調べ始めた。そのころは、増田義郎著『メキシコ革命』(中公新書、一九六八年)も刊行された時期だから、マルクス主義の「移入」もないままに、ロシア革命にも先駆けて行なわれた一九一〇年代のメキシコ革命の形が、日本でもようやく見え始めたころだ。
それによると、二〇年代とは、貧農を主体とした革命としては中途で挫折したままに、メキシコ社会が混沌とした情勢下にあった時代だ。二〇年代ばかりでなく、それに前後する一〇年代と三〇年代も、当然にも視野に入ってくる。それにしても、知れば知るほど、おもしろい。後にロシア革命の現場にいて、当時の私たちの必読書『世界を揺るがした一〇日間』を書くことになる米国のジャーナリスト、ジョン・リードは、一九一四年メキシコ革命の只中の北部戦線を取材し、報告書『反乱するメキシコ』(野田隆ほか訳、小川出版、一九七〇年、その後筑摩叢書で再版)を書いている。忘れがたいソ連の詩人、マヤコフスキーは僅かな期間だが、一九二五年にメキシコを訪れている。
やはりソ連の映画作家、エイゼンシュテインは一九三〇年にメキシコを訪れ、長く暖めていた映画制作の企画を実施にうつす。スターリンの妨害もあって、この作品は未完成に終わったが、エイゼンシュテインとメキシコの出会いも興味津々だ(エイゼンシュテイン著『メキシコ万歳!』、中本信幸訳、現代企画室、一九八六年)。
そして一九三〇年代も末になると、スターリンに追われて「地球の上をビザもなく」彷徨っていたレオン・トロツキーが、メキシコの画家、ディエゴ・リベラの手引きでメキシコの亡命する。トロツキーに会うために、フランスのシュールレアリスト、アンドレ・ブルトンがメキシコに来る。数年後、トロツキーはスターリンの指令を受けた人物によって暗殺される。
ほかにもこの時代のメキシコにはフリーダ・カーロがおり、米国からはイタリアからの移民で、エドワード・ウエストンから写真の手ほどきを受けたティナ・モドッティがやってくる。
一九四〇年を越えると、スペイン内戦でフランコに敗北したスペイン共和国派の人びとが多数メキシコに亡命してくる。
まるで、この時代のメキシコは、国境を越えて人びとの出会いの場をつくりだしているかのようだった。『チャタレー夫人の恋人』に対する少年期の興味本位の関心が、曲がりくねりながら、こんなふうに伸びてきたのだとふりかえると、直線的ではない読書体験というものはおもしろい作用をおよぼすものだと思えてくる。
三、チェ・ゲバラの死
「卓上四季」にも導かれたキューバへの関心は、前項との対比で言うと、直線的に進んだ。革命キューバと抜き差しならぬ政治・経済の関係に入っていく米国においては、政府レベルでは亡命者グループに武器を与えてキューバへの軍事侵攻を図るとか、カストロの暗殺を何度も企図するとか、ラテンアメリカ諸国に圧力をかけてキューバとの断交・貿易中絶を強要するとかの動きが続いた。だが、少数とはいえ、キューバの主張に耳を傾けようと努力する人びとも帝国内にはいた。
独立左派、ポール・スウィージーとレオ・ヒューバーマンは『キューバ:一つの革命の解剖』(池上幹徳訳、岩波新書、一九六〇年)を、リベラルな社会学者、ライト・ミルズは『キューバの声』(鶴見俊輔訳、みすず書房、一九六一年)を出版して、自分の国が社会・政治・経済の各分野であまりに多大な負の影響力を及ぼしてきた他国における社会変革の過程を冷静に見極めようとしていた。大国が精神的に自閉せずに外に開くーーそんなあり方こそが必要なのだということを、彼らの著書から学んだ。
キューバ革命の帰趨やゲバラの生死が一九六〇年代にもった意味については、いままでにも多くの人びとが語り、私もごく最近にも触れたばかりだ(『コルダ写真集 エルネスト・チェ・ゲバラとその時代』解説、現代企画室、一九九八年)。ゲバラの死から三〇年有余、キューバ革命から四〇年を経ようとしているいま、私には、この三〇年〜四〇年の間に、私たちの社会が経験した急激な変貌の意味を捉えることが重要なことに思える。ふたりの作家の作品/発言から、この時代を隔てる落差に触れてみる。
コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスに『この世でいちばん美しい水死人』という掌編がある(『美しい水死人』に所収、木村栄一訳、福武文庫、一九九五年)。カリブ海に面するとある漁村の浜辺に巨大な物体が打ち上げられているのを子どもたちが見つける。絡みついた藻やゴミを取り除くと、村人、とりわけ女たちが息をのむほどに美しい男だとわかる。人びとは何くれとなく世話を焼き、遺体を美しく飾りたてて海へと戻す……。
いつの時代、世界のどの地域にも共通するお伽話として読むことは、もちろん可能だ。だがこれが一九六八年に書かれた作品であることを知ると、私(たち)は、ボリビアの小さな村の学校の一角のベッドに射殺されて横たわるゲバラの姿を、マルケスが描いた水死人に重ね合わせて読み込んでしまう。水死人の細部の描写は、まるで私たちが写真で知っているゲバラ最後の姿を描いているかのごとくなのだ。
これは、この作品の読み方のひとつであるにすぎないとは思いつつも、私の場合、それ以外に読みようがない。あの時代、人びとはこうして、その生き方と思想において隔絶した位置にいると見えた人に対する追悼の気持ちを表わしたのだ。
他方六〇年代には思想的にゲバラとそう遠くない位置にいたと思われる、ルイス・セプルペダ(チリ出身の彼は現在ドイツで生活しながら、作家活動をしている)は、三〇年後にふりかえって、大要次のように言う。
六〇、七〇年代の政治闘争はラテンアメリカ全体を均一なものと捉え、社会主義連合をつくることを目的にしていた。アイマラやケチュアやチアパスの先住民の気持ちを聞かず、大陸で最も豊かなものである多様性と相違を否定し、均一な全体を求めたことはイデオロギー的偏向であった……と(ルイス・セプルペダ『パタゴニア・エキスプレス』解説、安藤哲行訳、国書刊行会、一九九七年)。セプルペダは自らの問題として語っているが、ここでは当然にも三〇年前のゲバラの戦略もまた、ふりかえり/批判の対象となっているのであろう。
セプルペダが、「解放思想」の全体主義的な暴力性を対象化しようとするときに、アメリカ大陸の先住民族の存在を契機にしていることは興味深い。
ひとつには、ゲバラがボリビアでの武装解放闘争の過程で経験せざるを得なかった、先住民族との出会いの〈不可能性〉を思うとき、それは個別具体的な状況に照らし出された総括だと言える。また世界じゅう至る所に先住民族をつくりだしたのがヨーロッパ近代の植民地主義であったことをふりかえるとき、同じヨーロッパの体内から生まれた「解放思想」をも、ヨーロッパ近代の総括という課題の枠内で再検討するという、避けることのできない普遍的な方向性にも繋がっていく。
ところでゲバラの死から六、七年を経た頃、私はボリビアまで行こうと思って、ラテンアメリカへの旅に出た。その旅は先々で意外なほどに長引いたものになり、したがって思いがけない出会いに恵まれた。
いまに続く意味ある出会いのひとつは、ボリビアの映画集団ウカマウとのそれだったと思う。ウカマウは「映像による帝国主義論」を創造することを課題にしながら、時代状況の中での必須のテーマの映像化に取り組んできた。ゲバラがボリビアで戦っていた時代背景をテーマにしたこともあるが、前出セプルペダと同じような方向からゲバラの時代の総括を志しているのかもしれない、その作品を貫く問題意識はますます民族問題・民族間の関係性へと凝縮しつつある。
問題意識の共通性を感じた私たちは、一九八〇年にウカマウ作品の日本における自主上映を始めた。私たちのラテンアメリカへのアプローチは書物に偏重して行なっていたのが実態だったから、映像世界が切り開く別種の力には、感じ入るものがあった。今日まで自主上映が続き、中途からは共同制作の形態になっていることは望外のことだったが、一方的な思い入れに終わることのない関係の具体性を掴んだという意味で、私たちはそこから大きなものを得ていると言える。最近知り合った二〇代の女性は、中学生の頃からウカマウの作品を観ており、それも動機のひとつになって南米のカーニバルの研究に入り、何度もメキシコやボリビアに行っているということだった。
埴谷雄高の言葉を借りるなら「精神のリレー」がすでに始まっているのだと知って、それは私たちにとってはうれしい出会いだった。
本によってのみ異世界を知り、空想をたくましくしていた時代の〈飢餓〉情況も、私は嫌いではない。だが、現実に現地に足をはこび、人に会い、語り、町や村や山野の風景を眺めるという経験は、相互浸透ー相互交流を可能にするという意味では、他に代えがたいものがあるように思う。
四、中島みゆきの「4.2.3.」
一九九八年、中島みゆきが新しいアルバムを出した。私は、彼女の歌が嫌いではないけれど、新曲ごとにチェックしているほどのマニアではない。今回は、思いがけないルートから、この新アルバム「わたしの子供になりなさい」(ポニーキャニオンPCCA-01191)の中に、ペルーの日本大使公邸占拠・人質事件を歌った曲があると聞いて、さっそく買って聞いてみた。題して「4.2.3.」という。
テーマとなった事件は、一九九六年一二月一七日に起こった。人びとの記憶にまだ鮮明な出来事だろうから、事態の経過についての詳しい説明は避ける。私はこの出来事が起こっていた四ヵ月間に書いたり話したことを『「ペルー人質事件」解読のための21章』(現代企画室、一九九七年)にまとめたが、そこで一貫して主張したことのひとつは、これは私たち(日本に住む者)にとっては、ペルーの問題であるよりは日本の問題なのだという観点であった。
「外」の世界を知ることは実に楽しく刺激的なことだといって済ますことのできる場合もある。だが、こと世界史認識なり社会・政治・経済の現実の問題として捉えると、「外」の問題・出来事はつねに自分の足元が照らし出す働きをする。
ペルーという遠い外国で起こったこの事件は、1.首都リマの日本大使公邸で行なわれていた天皇誕生日祝賀パーティの席上での事件であること、2.日本人・日系人が多数人質にされたこと、3.フジモリ氏が日系人大統領だという理由から日本政府・日本社会は特別な関心を寄せたり支援を行なってきたが、そのペルーの現政権に真っ向から対決するゲリラが起こした事件であること、4.フジモリ政権に対するゲリラの要求には、日本も関わりの深い経済のグローバリズムに対する危惧が表明されていること、5.いわゆる「テロリズム」の問題が起こったとき、どう解決の方向を探るかという点に、社会・政治問題ないしは戦争と平和の問題に関わる当事者政府/社会の本質的な理念が表明されるものであるということーーなどのいくつもの理由から、私は当初から、わが足元におよぶ事件だと捉えていた。
しかし、日本のジャーナリズムの報道は、ゲリラの「テロ」行為に対する全面的な非難、フジモリ政権の無条件擁護、人質の安否のみに関心を集中させるーーなどの性格を確固としてもち、終始変わることはなかった。
つまり自己批評を欠いていたのである。それは、一九九七年四月二二日(日本時間では同二三日)、フジモリ政権が軍の武力突入によって大使公邸を制圧し、計一七人の犠牲者(人質一人、政府軍兵士二人、ゲリラは全員の一四人)を出しつつ人質救出に「成功した」(と、ペルー・日本両政府も、大方のメディアも評価した)後も同じだった。
さて、中島みゆきの「4.2.3.」は、この武力作戦が行なわれた日付を日本時間で示した数字である。あの日の朝、彼女は眠れぬままにテレビのスイッチを入れた。見慣れた白く平たい石造りの建物から炎と噴煙が上がる。
やがて「日本人が救けられましたと興奮した」リポートが伝えられる。「人質が手を振っています元気そうです笑顔です……」という声が続くなか、画面には黒く煤けた兵士を運ぶ担架が映る。「胸元に赤いしみが広がる」兵士は、(日本人人質を)「救け出してくれた見知らぬ人」なのだが、日本のテレビ報道が歓喜する「日本人の無事を喜ぶ心」は、この兵士までには及ばない。中島にそこに苛立ちを感じ、次のように歌う。
あの国の人たちの正しさを ここにいる私は測り知れない
あの国の戦いの正しさを ここにいる私は測り知れない
しかし見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心のある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう
この国は危ない
何度でも同じあやまちを繰り返すだろう 平和を望むと言いながらも
日本と名の付いていないものにならば いくらだって冷たくなれるのだろう
慌てた時に 人は正体を顕わすね
あの国の中で事件は終わり
私の中ではこの国への怖れが 黒い炎を噴きあげはじめた
4.2.3.…… 4.2.3.……
日本人の人質は全員が無事
4.2.3.…… 4.2.3.……
4.2.3.…… 4.2.3.……
「作詞:中島みゆき」
中島みゆきの受容のされ方からいって、彼女のCDはマスメディアとしての力を発揮しうる媒体だと考えることができる。私には、彼女が作詞・作曲したこの「4.2.3.」は、マスメディアの上での発言としてはきわめて稀な、事態の本質に言い及んだ表現だと思える。
「あの国の人たちの正しさを/あの国の戦いの正しさを、ここにいる私は測り知れない」という限定した場に自らをおきつつ、その後で、足元の問題に関わって言うべきことを表現し、「この国は危ない、日本と名の付いていないものにならば いくらだって冷たくなれる」とまで言う。
私は前項で、現地体験の深い意義に触れたばかりだが、「ここにいる私は測り知れない」という自己限定のうえで正確な判断が示されると、いたずらに体験主義を強調するに終わるわけにはいかないな、という思いにもかられる。
私は最近、ある大学での講演会のときに、こんな工夫をしてみた。音はこの曲を流す。
一方スクリーンには、武力作戦から数カ月後に来日したフジモリ氏にインタビューしたNHKテレビ「クローズアップ現代」の画面を音声をオフにして映し出す。スクリーンには、スタジオのフジモリ氏の笑顔がいっぱいに広がる。炎と噴煙を上げる大使公邸の様子も映るが、主要な映像は、人質救出の場面やペルー国旗を広げ満面の笑みを浮かべながら人質を歓迎するフジモリ氏である。
聞き手の女性キャスターも、当時の映像を懐かしみながら、やはり笑顔いっぱいにしてフジモリ氏に問いかける。
音楽と映像を組み合わせたこの試みは、若い人びとのおもしろい感想を呼び起こした。彼女たちは、中島みゆきがこの歌で歌ったような意見をメディアの上で見聞きすることができない。この社会にある「言論の自由」は、もともとこのような意見を選択肢の中に含んではいないのだ。
このような捉え方があることに彼女たちは驚き、目を開かれたと語った。中島が歌う言葉と画面のフジモリやキャスターの笑顔とはあまりに対照的で、同一の事件についての表現がこうもかけ離れてしまう理由はどこにあるのかという問題へ関心は向かった。
だから何気なく見慣れてしまっていた映像を、今までとは異なる視点で見る契機を掴んだのである。私が「この曲が、ゲリラの死に触れていないところが物足りない」と勇み足の発言をすると、ひとりの学生は「そこまでやるとウソっぽくなるから、これでいい」と的確な指摘をした。
この文章の冒頭で触れた時代のように、情報量そのものがきわめて限定されている場合でも、視点いかんによっては問題の本質を掴むことができる。
現代は逆に、不必要な情報が過剰にあふれ、他方必要な情報には封鎖の壁が高く築かれている時代であり、前者の情況のみを指して「情報化社会」と呼ばれているのだが、ここでもまた、問題の本質に迫りうる「視点」のいかんこそが問われているのだと言える。
その意味では、私たちはまだ、この時代にも秘められている可能性を十分には活用しきってはいないという点に、今後の希望を見出だすことができるのかもしれない。