チリ・コピアポの鉱山で生き埋めになった鉱山労働者33人の救出作業は、テレビ的に言えば「絵になる」こともあって、世界じゅうで大きく報道された。
地底で極限状況におかれた人びとがそれにいかに耐えたか、外部の人間たちが彼らの救出のためにどんなに必死の努力をしたか。それは、どこから見ても、人びとの関心を呼び覚まさずにはおかない一大事件ではあった。
メディアの特性からいって、報道されることの少なかった(すべてを見聞できたわけではないから「皆無だった」と断言する条件はないが、気分としては、そう言いたい)問題に触れておきたい。
メディアが感動的な救出劇としてこの事件を演出すればするほど、北海道に生まれ育った私は、子どもの頃から地元の炭鉱でたびたび起きた坑内事故と多数の死者の報道に接していたことを思っていた。
九州・筑豊の人びとも同じだっただろう。事故が起こるたびに、危険を伴なう坑内労働の安全性について会社側がどれほどの注意をはらい、対策を講じてきたのか、が問われた。
鉱山労働者の証言を聞くと、身震いするほど恐ろしい条件の下での労働であることがわかったりもした。
一九六〇年――「60年安保」の年は、石炭から石油へのエネルギー転換の年でもあった。九州でも北海道でも閉山が続いたが、「優良鉱」だけはいくつか残された。
当時の世界の最先端をゆくと言われていた「ハイテク炭鉱」北炭夕張新炭鉱で、今も記憶に鮮明な事故が起こったのは一九八一年十月であった。
坑内火災を鎮火するための注水作業が行なわれたのは、59人の安否不明者を残したままの段階であった。
「お命を頂戴したい」――北炭の社長は、生き埋めになっているかもしれない労働者の家族の家々を回り、こういう言葉で注水への同意を得ようとした。「オマエも一緒に入れ!」と叫んだ人がいた。
結局亡くなったのは93人だった。翌年、夕張新鉱は閉山した。他の炭鉱も次々と閉山して、炭鉱を失った夕張市が財政破綻したのは四年前のことである。私の目に触れた限りでは、10月14日付東京新聞コラム「筆洗」がこれに言及した。
遠いチリの「美談」の陰から、
近代日本がその「発展」の過程で経験したいくつもの鉱山での人災を引きずり出せたなら、すなわち、一人の絵描き・山本作兵衛か、一人の物書き・上野英信の感性を持つ者が現代メディアにいたならば、問題を抉る視点はもっと確かなものになっただろう。
チリ現地からの報道では、救出される労働者をカメラ映りの良い場所で迎える大統領セバスティアン・ピニェラについての分析が甘く、「演出が鼻につく」程度の表現に終始した。
現代チリについて想起すべきは、まず一九七〇年に世界史上初めて選挙による社会主義政権が成立したこと、新政権下での銅山企業国有化などによってそれまで貪ってきた利益を剥奪された米国政府・資本がこれを転覆するために全力を挙げたこと、その「甲斐あって」一九七三年に軍事クーデタを成功させ社会主義政権を打倒したこと、の三点である。
さらに、21世紀的現代との関連では、軍政下のチリがいち早く、いま世界じゅうを席捲している新自由主義経済政策の「実験場」とされたことを思い起こそう。
貧富の格差が際立つチリ社会にあって、社会主義政権下と違って、社会的公正さを優先した経済政策が採用されたのではない。
外資が投入されて見せかけの繁栄が演出された。経済秩序は、雇用形態・労働条件・企業経営形態などすべての面において、チリに暮らす民衆の必要に応じてではなく、米国や国際金融機関が描く第3世界戦略に沿って組み立てられたのである。
現大統領ピニェラの兄、ホセ・ピニェラは、軍政下で労働相を務め、鉱業の私企業化と労働組合の解体に力を揮った。
新自由主義経済政策は国外からの投資家に加えて、国内の極少の経済層を富ませるが、ピニェラ一族はまさに、世界に先駆けてチリで実践された新自由主義的政策によって富を蓄積し、鉱業・エネルギー事業・小売業・メディア事業などに進出できたのだった。
もちろん、そこでは、労働者の安定雇用・労働現場の安全性を含めた労働条件の整備などが軽視されていることは、日本の現状に照らして、確認できよう。
救出された労働者を笑みを浮かべて迎えた大統領の裏面を知れば、チリの今回の事態も違った見え方がしてこよう。
(11月5日記)
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