東欧近現代史の研究者・南塚信吾が「注目集める横断的世界史」という文章を書いている(朝日新聞2月20日付け夕刊)。
従来の国別・地域別の歴史を並列することでは、同時代を生きる国々・諸地域が相互に関連し接続している現実を見失い、全体としての世界の歴史を再構成することにはならないという反省からきているという。
トリニダード・トバゴの首相も務めたエリック・ウィリアズムの『コロンブスからカストロまで』のように、カリブ海域史を世界史との繋がりの中で書き切った優れた先例は、夙に一九七〇年に生まれているが、確かに、日本の歴史書を観ても、20世紀末以降、そのような問題意識に基づく書物が増えている。また、国境を超えた協働作業で地域史を綴る試みも目立ってきた。
この歴史意識の変化は、一九七〇年代後半以降急速に進んだグローバリゼーション(全球化)によってもたらされている一面もあるだろうが、世界的な趨勢として確立されている以上、今後は現実に先駆け、いわば「未来からの目」として機能することもあるだろう。この観点から、二つの地域の昨今の動きをふり返ってみよう。
一つ目は、ラテンアメリカ地域である。去る2月、中南米・カリブ海統一首脳会議が開かれ、「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」(仮称)を来年7月に発足させることを決めた。
51年に発足した米州機構には米国とカナダも加盟しており、59年のキューバ革命以後はキューバを孤立化させる役割を担ってきたが、今回の共同体は、逆に米国とカナダを除外し、クーデタによって生まれた政権の支配下にあるホンジュラス以外の32ヵ国が参加した。
一昨年、コロンビア軍がエクアドルに越境攻撃を行なったが、この事態を収拾するために動いたのがこの地域の諸国だった。
それが今回の、米国抜きの新機構設立に繋がった。参加国政府の対米姿勢には違いがある。
設立条約作成・分担金確定なども今後の課題であり、前途にはさまざまな困難があるだろう。
しかし、地域紛争を解決するための具体的な努力の過程を経てここに至ったこと、自己利害を賭けて常に紛争を拡大する火種である米国を排除していること、それが従来は米国の圧倒的な影響下におかれてきた地域で起きていること――その意義は深く、大きい。
世界銀行やIMF(国際通貨基金)は、世界に先駆けてこの地域に新自由主義経済政策を押し付けてきた張本人だが、最近、世銀の担当者は、「経済の多様化と富の再分配を通して貧困層を支援する」政策を採用している南米諸国のあり方を高く評価したという。
3月1日にウルグアイの大統領に就任した元都市ゲリラ=ホセ・ムヒカが年俸の(月給ではない)87%相当の一万二千ドル(約一二三万円)を住宅供給のための住宅基金に寄付したというニュースも、政治的・社会的状況の変革のなかで、政治家が身につけたモラルの高さを示している。
彼の地の人びとは、横断的地域史・世界史の創造が、日々の理論的・実践的な課題である時代を生きている。
二つ目は東アジアである。この国では、「平時」を「戦時」にするための努力が、新政権の閣僚と首相によってなされている。
鳩山政権が実施しようとする「高校無償化」をめぐって朝鮮学校をここから外そうとする動きがあるからである。
最初に言ったのは中井拉致担当相だが、彼が識見も政治哲学も欠く人物であることは、就任会見時からわかっていた。
今回の発言に怒りと哀しみと恥ずかしさはあるが、驚きはない。
その発言に、首相が乗った。「国交のない国だから、教科内容の調べようもないから」と。
日朝首脳会談以降の日本の社会・思想状況が、自らを顧みることなくして排外主義に走っている点でこれほどの惨状を呈しているのは、横断的な地域史・世界史の視点を社会全体が欠いているからである。
未だに「国史」の枠内に身を置いて恥じない地点から、中井や鳩山のような発言が飛び出してくる。
「未来からの目」どころの話ではない。首相の言う「東アジア共同体」が、彼のなかで現実感を伴っていないことも、よくわかる。したがって、と言うべきか、私たちには、この現状を変えるという課題が目前にある。まだ国会審議は続いている。
(3月6日記)
追記:生活と仕事の時間からくる制約上、原稿は深夜に書く。夜更けて、25時26時27時と、机に向かう。だいたいは、とりとめもない妄想が、そして時には、夢が、ひらいてくる。故に、ご覧のような連載タイトルとなった。乞う、ご寛容、および同志的な批判。
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