トルコ、イラク、イラン、シリアなどにまたがる、日本の面積の一・五倍ほどの地域に住む民がある。その地域は古くから「クルディスタン」と呼ばれる。クルド人の土地(国)を意味する言葉である。
総人口が二五〇〇万人から三〇〇〇万人に及ぶと推定されるクルド人は、国家をもたない。「国家こそ、諸悪の元」と考える筆者などには、「国家なき社会」を形成するクルド人は、それだけで、あやしい魅力を放つはずの存在だ。
だが、現実のクルド人は、前出の近代国家の枠内にあって、それぞれ「少数民族」として遇されている。どの国でも、少数民族は多数派民族による抑圧・差別の対象とされているのがふつうだ。クルド人の場合はどうなのだろう?
そのことを、歴史的・現在的に明らかにしたのが本書である。日本でも、クルド民族に関する本は何冊かは出ている。だが、私たちの多くは、新聞やテレビなどの日常的な報道の積み重ねのなかで、世界事情に関わる何事かについての認識を深めていく。クルド民族に関しては、この積み重ねが決定的に欠けている。
世界的に見ても、クルド民族に関わる出来事は、厳重な情報規制の下にある。この情報管理に加担しているのは、クルド人を「少数民族」と遇している前出の国々だけではない。これらの諸国と、それぞれの時代状況のなかで、浅からぬ関係をもつ欧米諸国もそうなのだ。著者は、いくつもの事例に触れながら、その構造を証していく。
その典型例として詳しく叙述されるのは、一九八八年、北イラクでの出来事だ。サッダム・フセイン政権が、イラン国境に近いハラブジャの町の住民に対して化学兵器を使用し、五千人が殺され、一万人が負傷したのだ。イラン・イラク戦争末期の事件である。ハラブジャは当時イランの実質的な支配下にあった。
同地のクルド人がイランを迎え入れたとして、フセインの「制裁」にさらされたのである。
欧州のメディアは一時はこの事件を大きく報道した。だが、長続きはしなかった。それから二年後、イラク軍がクウェートに侵攻し、反フセインの国際的な包囲網が出来上がったときも、第二のヒロシマとの意味合いから「ハラブジマ」と呼ばれたこの事件は、欧米側にとってフセインの圧政を証す格好の材料だったはずだ。
確かに、フセインが化学兵器を使用するかもしれないとの怖れが随所で指摘された。だが、それは、派遣された多国籍軍の兵士の安全を守る、という意味においてのみだった。
事態の本質はどこにあったのか? 著者は答える。一九七九年に始まるイランのイスラーム革命に対峙するイラク・フセイン政権を欧米諸国は後押ししていた。
イラクの化学兵器製造については、ドイツの有力企業が深く関与している。ハラブジャ事件が起きたころはすでにイラン・イラク戦争後の「復興特需」が話題になっており、事業総額五〇〇億ドルに上るイラク復興事業への参加を欧米諸国の経済界・政界は狙っており、化学兵器使用を理由に経済制裁を課すことなど、論外であった。
翻って、著者の分析はアラブ・イスラーム諸国政府の態度にも及び、この恐るべき虐殺をも見てみぬふりをした「アラブ民族主義」が孕む問題性が指摘される。
ふだんは、アラブ民族主義から遠い場所に身をおいて発言するエドワード・サイードのような知識人までもが、湾岸戦争の直後に、イラクが毒ガスを使用したという噂には不明な点が多いとの趣旨のことを述べていることに批判的に触れる箇所にくると、問題は意外なまでの広がりをもってわが足元にも及んでくることを、読者は知ることになる。
後続の章では、トルコにおけるクルド人の状況が詳しく分析される。いまは獄中にあるクルドの女性議員レイラ・ザーナの証言、死刑判決をうけてやはり獄中にあるクルディスタン労働者党議長アブデュッラー・オジャランとの一〇年前のインタビューなどからは、トルコ個別の状況はもとより、NATOの一員として国際関係の中にあるトルコにおいて、クルド民族がどんな位置にあるかが浮かび上がっていて、示唆的だ。
そのほか、イランやシリアのクルド人の状況、難民という形で日本にまでたどり着いているクルド人にまで叙述は及び、さながら「クルド問題全書」のおもむきがある。
本書の著者はこの一〇年間ほど、「週刊金曜日」や「京大新聞」において、クルド問題に関わる文章を断続的に発表してきた。現地取材と、土地の言語を読みこなして行なう分析からは、何よりも対象に対する熱意と視角の確かさが感じられて、私は深い関心をもって読んできた。
そして、いつかこの著者がクルド問題の全体像を歴史的・構造的に明らかにする一書をまとめてくれることを期待していた。その願いが、思いがけず、本書のような形で実現したことに感慨をおぼえる。
四六判、五〇〇頁を超える大著である。在野で研究するときに必然的につきまとういくつもの制約を思い返すのか、著者は舌鋒するどく、ふだんからクルド問題に無関心を決め込み、必要に迫られて報道することがあっても蓄積を欠くために表面的で不確実な記事に終始するジャーナリズムを批判する。
中東問題の専門家でありながら、そこに占めるクルド問題の重要性を自覚しない学者・研究者も批判する。その批判方法は、より個別・具体的に展開すれば説得力をますように思える。
本書のような書き下ろしの大著に、かつて書いた文章を挿入する場合には、編集上の一工夫がほしかった思いも残る。いずれにせよ「クルド学」(クルドロジー)の構築をめざすという著者の意気込みが伝わる好著である。本書の発行元が、鹿児島に拠って特色ある出版活動を続ける南方新社であるということも、いかにも本書にふさわしいことと思えてくる。 |