TBSラジオの「永六輔の土曜ワイド」をよく聞く。この人は基本的に話芸の人だと思っているのでラジオでは聞くが、多数ある著書のうち僅かしか読んだことがない。
古典・芸能の世界を知り尽くし、70歳にちかい今も週の過半を旅から旅に明け暮れ、各地に不思議なまでに幅広いネットワークをもつこの人が早口でまくしたてるもろもろの話が、あらゆる意味からいっておもしろいが、番組スポンサーとの関係を推し量ればおそらくギリギリの線で繰り出しているのであろう、社会・政治レベルの戯作者的な批評も、聞き流すには惜しいものがある。
「世の中の常識的な線」を十二分に踏まえているその発言には、時にもどかしく、物足りなく感じる点がないではないが、それはそれで強みになる場合があると見るべきだろう。
報道の質の問題として、またそれを受けとめる視聴者側が抱える問題として、テレビよりもラジオを重視する永の批評的視点も重要だ。
いつの頃だったか、新たに成立した小泉政権を支持するかどうかの新聞・テレビ各社の世論調査が出揃い、その驚くべき高い支持率が話題にのぼり始めた 5月初旬頃だったろうか。永はたしか、次のような趣旨のことをラジオで述べたか、番組内容を予告する毎日新聞のコラムに書いた。
「小泉さんは、たしかに手振り・身振りを伴うパフォーマンスは派手だし、自分の思いを断定的に語るスタイルも新鮮に映る。しかし、国会でのやりとりをラジオで聞いていると、その言葉はむなしく、まったく何も言ってないことがよくわかる」。
テレビでは派手な動作に幻惑されて発言の内容それ自体を糾すことを忘れてしまう視聴者の惰性も、言葉の中身を聴きとるしかないラジオでは生き生きとした反応を呼び戻す可能性があることを、この永の言葉は語るものだった。
電波の世界で仕事をしながら半世紀を生きてきた人物の言葉として、聴くべき点があると思える。テレビを視聴し、ラジオを聴くときのそれぞれの自分のあり方に照らしてみても、それは納得のいく議論である。
だが、マスメディアの世界では、このような視点をもつ発言はきわめて少数しか見られなかった。それから一ヵ月以上経って、 6月16日の「土曜ワイド」を聞いた。月に一回出演する野坂昭如と永のやりとりも、時におかしいが、この日出演した野坂は、いわゆる「小泉人気」についてこう語った。
「小泉と田中(真紀子)に人気があるということはわかった。しかし、そんなことばかりが報道されて、それに対する批判や疑問があることが、とくに新聞で報道されないことがおかしい。小泉・田中批判をすると、部数が確実に減るらしい。だから、新聞社の上層部は批判を控えようとし、記者も抵抗もせずにそれに従っている。戦前の翼賛的な報道体制と同じで、非常に危険だ」
(瞬く間に消えゆくラジオでの発言ゆえ、野坂の言葉どおりではない。大意は汲み取ったつもりだ)。
「小泉・田中批判をすると、新聞の部数(読者)が減るらしい」という野坂発言のニュースソースは知らない。だが、国会で小泉を激しく追及した辻元清美らの野党議員のもとには、その場面がテレビのワイドショーで放映され始めた直後から、抗議・非難・恫喝・罵倒・嫌がらせの匿名ファクスやメールがかなりの量で届いたとする報道(朝日新聞 6月 5日付)から類推すると、ありえないことではないと思われる。
辻元は集団的自衛権をめぐる小泉の認識の危うさを糾していたのだが、その文脈を外し、「総理」と叫びながら何度も責め寄る辻元と、憤然とする小泉の顔を、面白可笑しくアップで対照的に映し出すのがワイドショーの手法だから、辻元に抗議のメッセージを送った視聴者は、問題のありかを知ることもなく、自分が見た映像上の印象に対して単純な反応を示したのだと言える。
この種の反応が常に一定の量を形成しつつあるのが、現在が孕む問題なのだと思える。理由はいま少し多岐にわたるだろうが、小泉政権成立以来、新聞報道が各社ごとの個性をいっそう喪失し、無批判報道に画一化しているのは、野坂が言うように、この視聴者の反応のあり方への「恐怖」があるのかもしれない。
たとえば、機密費の使用先問題に関する、録画も残っている半年前のテレビ発言を「忘れた」と言い放った塩川財務相について、本来ならばその無責任性を追及すべきメディアはそれをほぼ放棄した。その代わりに、この老政治家の〈とぼけた〉味が一部の若い人びとの心を捕らえ、インターネット上に塩川支援のホームページまでできてアクセス数も上昇中という報道を相次いで行なった。
時代を象徴していると信じ込まれている「流行り言葉」で文脈を繋げば説明はつく、という居直りだけが目立つ、手ぎわも調子・趣も同じで、「同工異曲」とすら言えない一本調子の報道が、順次、各メディアで行なわれたのだった。
これらの報道は、塩川を主人公にホームページを仕立てた人物の、今風の軽はずみなノリを、インターネット全盛の「現代風俗」の一光景の中に違和なく溶け込ませ、塩川を何事もなかったかのように免罪する役割を果たしている。
異様な光景だ。(視聴率の高い番組の真似事がすぐなされるテレビはともかく、新聞の場合)他紙ですでに同じテーマを扱った記事が出ているならば、せめて工夫を凝らし、切り口の独自性を競いたいという「矜持」があろうが、それすらそこからは感じとることができなかった。その傾向は、都議選が告示されて以降現在まで続いているように思える。
めずらしくも、現政権に対する疑問の提示がなされる場合でも(塩川の場合に典型的なように、批判の提起はほとんどなされない)、逃げ腰である。嘲りとからかいの調子が色濃かった前政権に対する態度と比しても、それは際立っている。
権力を手中におさめた政治家を観察すべき視点が、仮に10件あるとして、「癒し」とか「なごみ」という一件で論じる「市民」とメディアが登場したのである。検討すべき他の九件の条件を無視するのだから、それは、自らをすすんで統制する時代の始まりを告げていよう。
現代米国の批判的な歴史家ハワード・ジンは、民主主義の致命的な状況を「素直で、黙従する、受身の市民」の誕生に見てとった(ハワード・ジン『甦れ 独立宣言:アメリカ理想主義の検証』、猿谷要監修、人文書院、1993年)。
米国の絶望的な政治状況を見てのふりかえりである。「素直で、黙従する、受身の市民」を作り出す「テレビ政治」の先行国=米国の後追いを始めたこの国に住む私たちに、この本は多くを語りかける。
「世論調査」の結果や現実に作り出されつつある政治・社会状況への〈不信〉が、私たちの「議論を狭い世界に押し込める」ことのないように気をつけながら、「先取りした絶望ではない選択」(いずれも、『世界』01年 7月号、座談会「構造改革って何だ?」における藤原帰一の発言)を模索したいものだ。
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