三〇年前のむかし劉彩品という女性がいた。台湾生まれの彼女は一九五七年、私費留学生として来日し、東大で天体物理学を専攻する学生・院生となった。その後日本人男性と結婚し、婚姻届も提出した。在留資格変更と永住許可申請を申し出たが、日本の入管当局によって拒否されたまま、やがて中華民国政府発行の旅券は失効期限がきた。
ビザも切れた。一九七〇年、彼女はビザの更新と永住許可を再度申請した。彼女は、日本の入管当局が「不法滞在者」の強制送還を繰り返し行なっていること、台湾から日本の大学に留学していた複数の友人が帰国後、交友関係を基に「台湾独立分子」と接触した容疑で逮捕・拷問され、死刑を求刑されていることなどの事実を知っていた。
そこで、旅券更新のために必要な、同胞の連帯保証人を頼むことなどは誰に対してもできないと考えたのだった。法務省は最終的に、中華民国政府大使館に「絶縁状」を出せば無国籍者として在留を許可するとした。
彼女は思想・信条の立場から「中華民国を拒否し、中華人民共和国を自分の国として選ぶ」との文書を提出した。さらに若干の紆余曲折を経て、劉彩品は三年間のビザを獲得した。日本が台湾の国民党政府を唯一正統な中国政府と承認して、北京の中華人民共和国とは国交を持っていなかった一九七〇年の話である。劉彩品は翌一九七一年、招かれて大陸中国へ渡った。
当時、主として友人の日本人たちによる劉彩品支援運動が広く展開された。劉は、たとえ支援者に対してであろうと「抑圧民族の一員としての」日本人の立場性を厳しく問う人であった。
劉支援の活動に直接的には関わってはいなかった私も、出入国管理法案問題、南ベトナム政府を批判した在日ベトナム人留学生の在留問題、在日朝鮮人の国籍書き換え問題など、アジア諸民族との関係がさまざまなレベルで問われていた当時の情況の中で、劉彩品が次々と出すビラの文章を緊張感をもって読んでいたことを思い出す。
それは、民族・植民地問題が提起する課題の重要性にまだまだ無自覚であった時期の私たちに、歴史認識上の大きな転機を促す動きのひとつだったと言える。私は、劉彩品が行なう国民党政府批判は当然としても、「毛沢東思想万歳!」という捉え方には同意できなかったが、それは思想的・政治的立場の違いであり、日本と中国の歴史的関係と現状を思えば、日本法務省と入管に対する劉の要求は認められるべきだと考えていた。
それから二五年が過ぎた一九九六年、思いがけないことに私は劉彩品と新聞紙上で「再会」した。中国へ行って後、彼女は南京・紫金山天文台の教授を務める傍ら、八三年以降三期にわたって全国人民代表会議(全人代)台湾省代表一三人のうちのひとりだったという。
だが、九六年三月に開かれた全人代には出席しなかった。その心境を大要次のように朝日新聞に語った(一九九六年三月二二日付)。
「台湾近海でのミサイル試射・実弾射撃訓練は明白な軍事威嚇であり反対だが、最近は全人代で李鵬首相などに何を言っても聞いてもらえず、無力感をおぼえる。
背景には、共産党指導部が台湾の民心を理解していないことや天安門事件の武力鎮圧が成功だったと考えていることにある。
また、人民解放軍の地位の誇示とか共産党内部での権力争いも関わっていると思う。台湾の人たちは『怖くない』と言っているが、やはり怖いに違いない。その心情を思うとたまらない気持ちだ。
中国は、なぜ台湾で『独立』の声が強くなったかを考えるべきだ。私が中国へ行った一九七一年当時とはイメージが変わり、周恩来首相などにあった原則が弱まり、大国主義的な傾向が強くなっていると思う」。
劉は当然にも苦い気持ちをこめて、これらの言葉を発したにちがいない。一方には、「台湾省」を含めた中国蹂躙の歴史を辿った日本帝国主義と「その奴隷となり走狗となった」国民党政府を批判し、「中華人民共和国万歳!」と叫ぶ二五年前の劉彩品がいる。
他方には、全人代代表として、「出身省」である台湾の民意に無理解をきわめる共産党指導部に対する絶望感と台湾民衆に対する深い思いを吐露する二五年後の劉がいる。
そこにはまた、中国革命の「変質」の過程のみならず、台湾を「好ましからざる政権の統治する地域」として関心の対象から外し「奇妙な無関心」(いずれも若林正文の言葉)のエアポケットにおいていた、〈戦後左翼〉あるいは〈進歩派〉としての私たちの二五年間の彷徨の姿も投影されているように思える。
小林よしのりの『台湾論』なる作品は、この空白地帯を、ある意味で巧みに占領している。歴史に対する小林の無知とデマゴギーに満ちた主観主義的な解釈と、相も変わらぬ父権主義的な態度などは当然にも批判するに値しよう。批判しなければならぬ。
そのことは自明の前提である。そのうえで、私たちが等閑視してきた問題領域がここでも、これらの歴史偽造派たちに占拠されている事実に、私たちは痛切に自覚的であるべきだろう。
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