一
「〈ポストコロニアル状況〉を東アジアで考える」と題されたシンポジウムを傍聴した。
以下の小さな文章は直接的にそれに触れることはないが、どこかで関係してくる点はあるかもしれない。はじめに言っておくと、「ポストコロニアル」という理論装置について私は無知であった。今も、さして変わりはない。以下の断章的な文章は、その理由の一端を明かすかもしれない。
一九九〇年代に、在日朝鮮人歴史研究者、キム・チョンミ(金靜美)がまとめた三冊の本の編集・製作に、私は編集者として携わった。『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』『水平運動史研究』『故郷の世界史』がそれである(順に、一九九二年、九四年、九六年に、いずれも現代企画室刊)。
ここでは最初の本にだけ触れるが、原稿段階から補充・書き直しを経て数回のゲラ校正に至るまで、キム・チョンミの緊張感溢れる文章を幾度となく読んだ。
厳しい文章で、その含意を正確に受けとめるためには、何度も読み返さないわけにはいかない箇所がいくつもあったが、とりわけ次の文章は忘れることができない。
「いま、ベトナムは、経済的には、世界の最貧国のひとつとなっている。フランス・日本の侵略につづくUSAの侵略とのたたかいの過程で、ベトナム民衆はおおくをうしなった。とくにUSAは侵略戦争のさいに、都市部などを無差別爆撃しただけでなく、枯葉剤とナパーム弾で森林を焼き、生態系を破壊し、人と大地を毒殺した。そしていまもベトナムの大地には無数のクレータがのこされ、表土層がけずられ、毒素が残留している。これにたいしUSAが、正当に弁済するなら、それだけで、USAは、世界の最貧国になるだろう」(「東アジアにおける反日・抗日闘争の世界史的脈絡」)。
最強の資本主義国が、侵略戦争の責任を経済的に弁済することを通して、世界の最貧国に転化する。マタイ伝の第二〇章の一節「後なるものは先になるべし」は、フランツ・ファノンが『地上の呪われたる者』の「暴力論」で引用し、非植民地化とはこの一句の検証である、と断言した表現として魅力的だったが、これは、まさに後続の一節「先なるものは後になるべし」を表現した言葉にちがいない。
同じようなことを漠然とは考えながら、自ら進んでここまで具体的な言葉にしたことはなかった。なるほど、植民地支配をうけ、侵略戦争にさらされた「南」から現代世界を見ると、こういう問題として物事は見えてくるのだろうな、と得心がいった。あるいは、次のように言うのがいいかもしれない。
これをモラリズムの問題(道義的な問題)として受けとめがちな私たちは、それゆえに解決の道が見えないために心情的に行き詰まる場合が多かったが、キム・チョンミは「弁済」という、きわめて具体的な問題として提起し、その分、私たちにとっての課題が明快なものとなった、というように。
二
キム・チョンミの最初の本が出版されたのは一九九二年のことである。世界大で言えば、コロンブスのアメリカ大陸到達から五百年目の年であった。一四九二年を一契機として始まった「ヨーロッパ近代」は、回顧するには数字的にいって区切りのいいこの年に再審にかけられることになった。
私たちも、その年に東京で行なった行事を「五百年後のコロンブス裁判」と名づけたが、世界各地で同じような問題意識に基づいての理論的な営みと実践がなされた。
征服とそれに続く植民地化によってヨーロッパが獲得し得たものが何であり、逆に非ヨーロッパ世界が失ったものが何であったかが、未だかつてない規模で明らかにされた。
五世紀前に起源をもつ帝国主義・植民地問題が、現在に至るまで持続的に、どんな南北の関係を生み出しているかを自覚した者にとって、課題はヨリ具体性を増したのだと言える。
それからしばらくして、本多勝一の『マゼランが来た』が朝日文庫版に収められるのを機会に、私は解説を書いた。本多はその書の末尾を、マゼランの死後スペインに帰着した船一隻の積み荷だけでも莫大な利益が生まれたことに触れた後、次のような表現で締めくくった。「ただし死んだ船員約二〇〇人にせよ殺された先住民たちにせよ、死者の生命分は計算されていない」。
それをうけて、私は書いた。「いわれなく殺された死者たちが、もし生き長らえることができたと仮定して、その生命が持ち得たであろう『価値』を計算すること、本多氏がさりげなく語っているのはそのことである。これは、実は、恐るべき問いである。だれにとって? 繁栄を謳歌する産業先進国にとって。(中略)だれの目にも、もはや明らかなのだ。
『南』が『北』にたいして、これらの『価値』を賠償するよう求めたとしたら!」 このような問いが世界規模で起こっていた時、日本のなかでは、早くもこれに対して防衛的な煙幕を張る者が出てきた。旧日本軍に徴用された「従軍慰安婦」金学順さんたちが日本国家の責任における謝罪と補償を求める裁判を起こすという事態が起こっていたからである。
松本健一と岸田秀が先鞭をつけたその種の言論は、たとえば、次のようなことを主張していた(「諸君!」一九九二年四月号)。
曰く「日本の新聞はじめマスコミが、連日のように自国の旧悪を暴露するさまは、自虐を楽しんでいるようで、異様な感じを受けた」(松本)。曰く「自らの清廉潔白を言うために悪い日本人を告発、糾弾している。南京虐殺とか細菌部隊とかの問題がでると、必ず声高な告発者が現われる」(岸田)。曰く「(欧米諸国には)主権国家が自己を拡大し拡張するのが当然であるという感じがあったわけだから、そう簡単に謝罪するはずがない」(松本)。
松本は、もちろん、だから日本だけが先走って謝罪・補償などしてはいけない、過去に遡ってそんなことをしたら、収拾がつかなくなる、と言いたいのである。
キム・チョンミが言う「弁済」の課題が具体的に提起されると、「ポストコロニアル」の時代になって五〇年後を生きる旧「宗主国」の側の人間がこのように「抗弁」する。ここに問題の本質があるのだ、と私には思えた。
三
米国の言語学者ノーム・チョムスキーは、ごく最近、次のように語っている。「(人類の歴史上、人口問題で最悪の破局に直面している)アフリカではエイズやその他の病気によって何千万という死者がでている。
富裕な国々が、わずかな援助をする話もある。しかし欧米諸国は、莫大な補償金を支払うべきだ。ヨーロッパは植民地政策、米国は奴隷制度によってアフリカを破壊したのだから」(朝日新聞二〇〇一年六月一二日付夕刊)。
「援助ではなく補償を」と主張するチョムスキーの立場は、米国内においてまったく孤立していよう。事実、冒頭に触れたシンポジウムで発言した酒井直樹は、大要次のように語っていた。「米国における国際戦犯女性法廷報道を見ると、天皇有罪判決には触れても、米国が主導した天皇無罪論には触れない。米国の戦争責任と結びつける観点もまったくない。
それは、同胞感・一体感・愛国心などからくる米国の『国民主義』が孕む問題性のように思える」と。だからこそ、チョムスキーは、自分なりに必死の努力をしてきたにもかかわらず「まったく無力であったことを自覚」するという絶望感を吐露せずにはいられなかったのであろう。
日本と米国ばかりではない。事情はどこでも同じだろう。フランスでは最近アルジェリア独立戦争(一九五四〜六二)の際のフランス軍の残虐行為が元情報将校の口を通して明らかにされ、首相ジョスパンは「歴史の暗部に光をあてる」必要性を説いている。
だが、フランス人で、植民地支配を批判し軍に捕らえられて拷問にかけられた経験を『尋問』(原著一九五七年、日本語版はみすず書房、五八年刊)に書いたアンリ・アレグは「とっくの昔にわかっていたことで、無視してきただけではないか」と吐き捨てるように語ったという(朝日新聞二〇〇一年六月八日付)。
戦後ドイツは、ユダヤ人虐殺の責任に関わる償いを(日本の戦争責任のとり方と比較すれば)果たしていようが、一八八〇年代に始まるアフリカのナミビアやタンガニーカにおける植民地支配と民衆虐殺の史実にまで遡ってアウシュヴィッツの本質を見極めようとはしていない(にもかかわらず、一九九〇年ナミビアの独立を前に、ナミビア人とドイツ人の共同プロジェクトとして、子どもたちの歴史教育のためのテキスト『わたしたちのナミビア』が製作されたという事実は心に留めておきたい。
このテキストは、コロニアリズムの歴史を、支配と被支配の当事者同士が協働してふりかえった画期的な成果のひとつだと思える。日本語版は現代企画室、九〇年刊)。
以上、断章的に顧みてきた一九九〇年代のいくつかの事実は、いずれも、「コロニアリズム」がきわめて具体的な現在の課題であり続けていることを示している。
私が内発的に「ポストコロニアル」という問題意識をもったことはないが、当日のシンポジウムで“ポスト”という接頭辞が孕む問題性に自覚的な発言は、いくつか聞けたように思う。
追記:「〈ポストコロニアル状況〉を東アジアで考える」というシンポジウムのタイトルを想起する時、私の問題意識から言えば「東アジア」という地域概念についても語るべきところがあると自覚している。
直接的な関心で言えば、はるか(!)一九七〇年代前半に、本稿で触れた帝国主義・植民地関係に関わる問題意識をもって行動した人びとが自らを「東アジア反日武装戦線」と名づけていたこと、に関わっている。
いまひとつは、私が少なからぬ関心を抱いてきた古代史家=藤間生太が一九六六年に、従来の歴史研究の主流であった一国史的な枠を打破し、古代史から中世史の分野に関わって、『東アジア世界の形成』と題する著書を著していること(春秋社)に関わっている。決して一般的とは言えない「東アジア」という呼称が含意するところを考え抜かなければならないこの重要なテーマについては、他日を期したい。
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