自民党政治の迷走が続く。別に彼らの路線的迷走を心配する立場でもないが、国際社会における「普通の国」とは、欧米社会をモデルにするからこそ出てきた彼らの国家像であり、その具体性は、たとえば国連安全保障理事会の常任理事国になることであり、国連レベルで発動される軍事行動に自国の国軍が参加できて、いわゆる国際的規準を満たすことであると彼らは語ってきた。
前者のための必要条件を考えると、「つくる会」の教科書採用問題や首相の靖国神社参拝強行などは、アジア諸国が日本の安保理常任理事国選出に積極的に関わることを妨げるという意味で、論外なことだと思える。
サッカー狂の友人は、日本(政府)が、2002年ワールドカップ共同開催予定国の韓国に対して、いま/なぜ、こんな喧嘩を売るのか、理解に苦しむと言う。退場した、かのサラマンチ程度のものに留まることのない、FIFA(国際サッカー連盟)の政治力を、自民党政治は侮っているのではないか、と。
FIFAの政治力の件は私にはわからない。仮に、ワールドカップ共同開催の前提条件としての二国間の友好関係を日本は掘り崩しているとの批判が、国際的に、あるいは韓国側から出てくるとして、「政治とスポーツは違うレベルの問題だ」という、いつもながらの原則的な(?)立場で、切り抜けることができると彼らは信じこんでいるのだろうか。
ところで、「国際的規準としての」軍事行動への参加の一件はどうだろうか? 集団的自衛権の問題については、小泉は従来の自民党政治の路線を一気に越えようとする意気込みを組閣直後から示している。その具体策が今後どのような形で出てくるのかは、いまのところ不明だ。だが、政府がやがて打ち出す具体策の策定に当たっている外務官僚などが、どう考えているかを示す材料はある。発行人:粕谷一希、編集委員:本間長世、山内昌之、編集協力:外務省の月刊誌『外交フォーラム』2001年 9月号「特集:湾岸戦争から10年」がそれである。
湾岸戦争当時外務省北米局北米第一課長で、その後橋本政権時に首相補佐官を務めた岡本行夫は「また同じことにならないか:もし湾岸戦争がもう一度起こったら?」なる文章をそこに寄稿している。
10年前の湾岸戦争の経験を正確に復刻しなければと思いつつ「依然として客観的な観察者には、なれない。感情が出る」と自ら書く岡本だけに、情緒的な筆致である。岡本によれば、イラク軍のクウェート侵攻を前にした米国主導の湾岸戦争は不可避の正しい戦争であった。
そして、この地域に多数の石油タンカーを常時行き来させていながらイラク制裁の軍事行動に参加せず、軍資金しか出さなかった日本は(欧米諸国によって)「キャッシュ・ディスペンサー」のように扱われたが、それに「屈辱とトラウマ」を感じている男の立場から、すべての言葉は語られている。岡本が自明のこととしているこれらすべての前提は疑うに値するが、文章のタイトルにまでして自ら発した問いに対する岡本の自答は悲観的だ。
第一に、人命に対する超安全主義という国民意識が日本にはあり、「自由のために銃をとって戦うことに対する支持などない」。
このような国民意識を批判するために岡本は独特の比喩を使う。町内会のドブさらいで各家庭が衣服を汚して働いているのに、金持ち=日本家は家訓を守って泥仕事への参加を断り、クリーニング代だけを負担したに等しい(!)、と。戦争と平和の問題への対し方が、この程度の比喩で揶揄できると考えている男が、湾岸戦争時の外交実務に当たっていたことは記憶に値する。
私の考えでは、岡本が憂える、身の危険を僅かでも冒すことを嫌う「国民意識」なるものは、すでにして虚構だ。岡本のように自らは戦場に出ることもない立場で、「ナショナリズム」という心情的妖怪に振り回されて、戦争を煽る雰囲気はこの社会に充満している。
その意味では、岡本は安心してよい。焦るべきは私たちのほうだ。
にもかかわらず岡本が悲観的になる第二の問題は、「官僚の権限意識と行政の縦割り」状況にある。外務省、大蔵省、内閣官房などの間の意思疎通がなく、方針の決定や発表の仕方があまりに拙劣で、しかるべき時に当然得られるべき米国の信頼も得ることもできなった事実が縷々述べられる。なるほど、「キャリア・クラス」の外務官僚の目は米国をしか見ていないことを如実に示す文章が続く。
湾岸戦争と一口で言っても、当時者は多様だ。渦中にあるイラク、クウェート以外にも、中東地域には多くの国がある。
米国側についた専制的な王政諸国もあれば(ついでに言えば、これらの諸国の非民主主義的な専制を、米国は決して非難の対象としない)、反米の一点でフセイン批判を控えたアラブ諸国もある。私はこれらの為政者の目線にも関心をもつが、それだけではなく、自分たちの土地に生まれる天然資源が自らの手の届かぬ地点で〈国際取引〉される現実を見ている「産油国」の貧しい民衆が、湾岸戦争をどう見ていたかということにも強い関心をもつ。
このような問題意識など、エリート外務官僚はカケラも持つこともなさそうだ。外務省の中枢に長年いた岡本がこの文章を書いていたとき、メディアは外務省スキャンダルを書き立てていた頃だろう。
外務省問題の本質は、あえて言えば、ノンキャリアの「不祥事」にはない。モラルに関わる不祥事がキャリアを巻き込んで内攻しているであろうことは明らかだが、より根本的には、外務官僚が主導してきた日米安保堅持に象徴される外交路線が孕む問題性をこそ指摘しなければならない。
冷戦構造が終わりを告げて10年を経たいまも、米国との二国間軍事同盟体制を不動の前提として外交政策を立案することに何の疑念もいだいていない岡本のあり方こそが問われるべきだ。
だが、ここを「聖域」とする岡本は、省庁間のつまらぬ権限争いに問題を矮小化するだけだ。
岡本はさらに、「法的整備」の現状についても悲観的だ。PKO法の成立は「大きな前進だ」ったが、「鳴り物入りで成立した」周辺事態安全確保法は、「立法意図は評価できる」ものの「あまり実際の役には立たない法律だ」。
だから、法的整備をさらに行ない、法律条文の逐条解釈にこだわって柔軟な運用を邪魔する法制局を規制して……と、「戦争を可能にする国家」に向けた岡本の「妄想」はとどまることを知らない。
ほかにも「外交フォーラム」誌には、「湾岸の夜明け作戦と五一一名の隊員たち」を書いている元海上自衛隊ペルシャ湾掃海舞台指揮官・落合峻の文章など、軍人の心情を顕にした内容のものが掲載されており、見逃すわけにはいかない。
湾岸戦争後の10年の過程を顧みるべき課題は、私たちの前にもある。
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