メキシコ南東部チアパス州で、サパティスタ民族解放軍(EZLN)を主体とする先住民族蜂起が起こったのは1994年初頭だった。
叛乱者たちは当初から、この蜂起の目的のひとつが、カナダ・米国・メキシコの3カ国間で成立する「北米自由貿易協定」に反対することにあると明快に語っていた。弱肉強食をすべて良しとする市場原理なるのものが、メキシコの貧しい先住民族に強いるであろう暗い未来を見通したからである。だが、それから7年。
主導者たちが、いまや世界を統べる基準であることを豪語する「グローバリゼーション」の勢いは止まらないかに見える。それでも、世界は一握りの巨大資本に言いように左右されていて良くはなく、「世界はわれわれすべてのもの」と主張する運動が世界各地で粘り強く展開されており、そこではサパティスタ運動は、その主張の先駆性とユニークな運動のあり方において、常に注目されてきている。
蜂起から7年目を迎えた2001年初頭、サパティスタは再度注目すべき試みを実現した。96年以降政府との和平交渉は中断していたが、新大統領フォックスがEZLN管轄区に駐屯させていた軍の一部を撤退させたことから、EZLNも交渉再開の方針を明らかにしていた。
EZLNは、対政府交渉を行なっていた時期にも、その場を個別EZLNの場にすることなく、全国各地から各層の代表者が参加する全国的な討議の場となるよう心を砕いた。彼らはこの新たな和平プロセスについても、そうしようとしたのだろう。
2月24日、先住民地下革命委員会の司令官など24人がチアパス州をバスで出発、先住民族が獲得すべき諸権利の訴えをしながら12州を回った。各地では住民との討論・対話集会が開かれ、EZLNはそれぞれの場にふさわしいメッセージを発した。
ミチョアカン州ヌリオでは、EZLN代表団の到着に合わせて第三回全国先住民会議が開かれ、千人の人びとが参加した。2週間有余をかけて三千キロの道のりを行進した末に、3月11日代表団は首都メキシコ市に入った。
行進にはメキシコ内外の社会運動活動家や野党の国会議員多数が随行した。(メキシコ政治史上ではありふれた)暗殺などの不幸な事件が起きなかったのは、いやな表現だが「弾除け」(マルコス副司令官は「人間回廊」と言う)になることを厭わなかったその力にも与かるところもあるだろう。
まず、サパティスタが自ら「先住民の尊厳のため行進」と名づけたこの行進プロセスで見るべき点を挙げておきたい。サパティスタは、新大統領フォックスの就任当日に(2000年12月2日)、彼に宛てて書簡を送り、「叛乱が終わっていないこと」、したがって彼は前大統領から「戦争を引き継いでいる」ことの自覚を促しつつ、和平に向けた基本条件を明らかにした。
すでに1996年に成ったサン・アンドレス合意を実施にうつし、COCOPA(協調・和平委員会)が発議した先住民の権利および文化の承認を、法制化すること。獄中のサパティスタを釈放すること。脱軍事化すること。
以上の3点である。同時に、先住民地下革命委員会―総司令部24名をメキシコ市に代表団として派遣することも明らかにした。時機を得た、見事な先制的な攻勢に、サパティスタの政治的な成熟の証しを見る思いがする。
その後出発当日までは、メキシコ各地での受け入れをめぐる綿密な打ち合わせや「防衛」態勢の問題が討議されていたのであろう。
一方、サパティスタは国会議員、サイバー遊泳者、報道関係者などに宛てて簡潔なメッセージを発表し、この試みへの注目を訴えた。とりわけ2月に発表された「サパティスタへの質問と回答」は、目下の政治的な課題について分かりやすい言葉遣いで説明した文書で、印象的な内容だ。
私たちが、蜂起直後から注目してきた「軍の消滅」という未来像、「権力を求めない」という方針、先住民の分離独立をめざすのではないなどの問題についても語っている。
そして2月24日からは、行進の具体的な展開に則した内容が語られるようになる。私自身、サパティスタ民族解放軍文書集1『もう、たくさんだ!』(現代企画室刊)の翻訳をした時にも感じたし、今回の一連の事態をインターネット上で精力的に紹介した山崎カヲルさんも書いているが(http://clinamen.ff.tku.ac.jp/EZLN/)、先住民の言語でまず書かれ読まれたりしたと思われる文書の場合、発想・言葉遣いが、翻訳する私たちには分かりづらいこともある。
しかし、その難しさを超えていったん日本語に訳されたものを読むとき、(私の場合は)しっくりと心に入ってくることが、いつも不思議で面白く思う。「叛乱するマルコス副司令官」が、彼なりの(?)詩心を出して書く文書の難解さとは、難しさの種類が違う点が興味深い。
サパティスタが行進の過程で訪れたメキシコ各地には、それぞれ異なる民族名を持つ先住民が住む。
サパティスタは各地で出す文書中で、その固有の民族名を逐一挙げて、それぞれの地域にふさわしい内容のメッセージを工夫している。それらの文書からは、先住民の価値観・自然観・哲学観が、時には色彩観、そこに吹く風の匂い、風の強さなども感じられるようで、楽しい。
さて、いよいよ代表団はメキシコ市に着いた。3月11日のことである。ここで発せられるメッセージも、社会のあらゆる構成層の人びとに、上からではなく水平的な場から語りかける姿勢が一貫していて印象的だ。
だが、メキシコ市に着いたサパティスタが議会での発言を要求している以上、政府・議会との駆け引きが必要だ。一転、サパティスタの口調は厳しさをまし、またしても政治的な成熟度を感じさせるものとなる。
外国の高官など非議員であってもメキシコ議会での演説を認められた前例に触れて、自分たちの主張の正当性を言う。数を限定された議員との対話が提案されると、不真面目で悪質だと一蹴し、自分たちにも敵対してきた議員も含めた全議員との対話をあくまで求める。
それは「戦争を繰り返さないために、戦争の解決が戦争の原因の解決になる」ような道筋を追究することを揺るがせにしないことからくる、一貫した努力である。
3月28日、決裂寸前までいきながら、サパティスタの議会演説が実現する。人の先住民司令官が覆面姿のまま演説した。演説の内容もさることながら、消極的な報道しかなさなかった日本の新聞にも掲載されたこの時の写真を見るだけで、実現された事態の例外性、それゆえの重大な意義を汲み取ることができる。
この社会でもっとも抑圧されてきている社会層の先住民が、しかも(!)マチスモなる男性優位のイデオロギーが暴力をふるう現実の中で女性の先住民が、非議員でありながら国会で自らの言葉を語った。
人びとの、したがって社会の意識が変わっていくうえで、これほど力を発揮する具体的な現実は少ない。二日後、サパティスタ代表団は首都を後にして、根拠地ラカンドン地区に戻った。
それから一ヵ月後の4月28日、下院議会は「先住民権利法」を採択した。だが、議会審議の過程で、先住民の土地や石油など天然資源の開発・利用に関わる権利が制限されたことは「先住民にたいする重大な侮辱だ」として、サパティスタは和平交渉の再度の中断を表明した。事態は予断を許さない。
それにしても、こうして報告を書きながら、思う。サパティスタの政治戦略・戦術や成熟度の卓越性を他人事のように言うのではなく、日本の「疲弊した」社会運動のなかに具体的に生かしたいものだ、と。
追記:過程を追うにあたって、文中で触れた山崎さんのホームページを参考にした。
|