藤森謙也、と書けば、だれのことか、多くの人にはわからないかもしれない。一九二〇年、藤森直也という人物が熊本からペルーに移住した。一四年後いったん帰国し、今度は妻ムツエと共に再渡航した。そして一九三八年、長男・謙也が生まれた。
この人物が、のちのアルベルト・フジモリである。彼は、二〇〇〇年一一月ペルー共和国大統領としてペルーを出国し、ブルネイでのAPEC首脳会議に出席し、その後ペルー情勢の様子見のために外交査証をもって日本に立ち寄り、現地ペルーの政治情勢己れに不利と見て結局メール送信によって大統領を辞任したが、ペルー国会によって「継続的に道徳的な不能力状態」を理由に罷免された。
外交査証が失効したそのとたんに、実は日本国籍も保有しているといって「日本人として」この国に留まっているのは、誕生当時、謙也名での出生届けが現地の日本領事館に提出されており、往時の国籍法に照らして言えばそれは現在も適法だからである、と説明されている。
国籍問題上の適法性いかんはともかく、この、日本における辞任劇と居座りは、全般的に見て、きわめて不評だった。それは一国の政治的な最高責任者として、あまりに無責任に過ぎる態度であり、即刻ペルーへ帰り自らの立場を人びとに説明すべきであるという意見が、大方のメディアの主流を占めた。
しごく当然の反応であったと言えるが、フジモリはこれを見て危機意識を感じたのだろう、俄然メディアを利用しての反撃に出た。大統領であることを辞めた、一私人としてのフジモリが「一夜の宿を求めた」からには「キリスト教徒としての自分が泊めるのは、私の美学」だとする曽野綾子が、マスコミ取材の段取りを仕切った。
かくしてアルベルト・フジモリは、二〇〇〇年一一月から二〇〇一年二月の現在に至るまでの日本において、その会見記事や自ら書いた文章、さらにはテレビ出演がもっとも目立った人物のひとりとなった。
とりわけ、一一月二五日前後に、三浦半島にある曽野の別荘に、テレビ局・新聞社・通信社を個別に呼びつけて行なった「各社別〈独占〉記者会見」なるものは、その茶番性において最たるものだったと言える。
フジモリの回顧録ないし弁明の書は、遠からず中央公論新社から翻訳出版される予定だと聞く。ここでは、フジモリ自身の弁明が比較的長く書かれているふたつの文書を基にしつつ、一〇年間に及んだフジモリ政権のあり方をふりかえりながら、今回の事態の背景を考えてみたい。その文書のひとつは、「フジモリ回顧録」(読売新聞二〇〇〇年一二月二七日〜三〇日連載)であり、いまひとつは「希望の国・ペルーへの道」(『新潮45』二〇〇一年二月号)である。
フジモリは一九九〇年の大統領選挙において、当初はいわゆる泡沫候補とされていながら、終盤において急速に有力候補となって注目を浴び始め、日系人であることで日本のテレビ報道でもその姿を見ることができるようになった。
私からすれば初めて見るフジモリは、日本刀を振りかざしそれを鞘に納めるさまを満面の笑みを湛えながら演技していた。それは、テレビでの選挙運動の一コマだったようだ。
「サムライ」を演出したその方法に、私は大きな不快感と違和感をもった。「日本的なるもの」をこのように演出し、投票者の関心を惹こうとする政治家は、(それが功を奏するかもしれないだけに)ロクなものではないだろうというのが、私の予感だった。他の選挙運動の方法も含めて総合的に判断すれば、白人特権階層の代弁者として最有力候補であった作家のバルガス=リョサに対抗するに、フジモリがある種の「人種主義」に意識的に依拠しているらしいことは明らかであった。
この「人種主義」的煽動は、選挙に勝つという意味では成功した。植民地支配時代から一貫して続く白人支配体制に怒りをもつ、非白人の庶民階層が、投票行動としてはフジモリに加担したからだった。
だが、出自からしても「庶民の味方」であることを装ったフジモリは、施政一〇年間の経済政策においては、その仮装をかなぐり捨てた。インフレの終息、経済成長の達成をもって、フジモリの経済政策の一定の成功を言う言論は、いまなお強い。それは全面的なウソではないが、マクロ経済面での成果をのみ見て、その新自由主義的経済政策がもたらした経済格差の拡大という事実を覆い隠すことはできない。
ネオリベラリズムの経済政策は、世界銀行やIMF(国際通貨基金)などの国際金融機関と日米などの先進諸国のイニシアティブを受け入れた結果のものではあるが、フジモリがそれを自覚的に採用したとき、それは貧困層をより困窮状態に追いやるものでしかなかったという側面を見逃すわけにはいかない。
読売新聞連載の「回顧録」において、フジモリは、帰国を要求しているのは、彼が「民主的選挙によって大差で破った、貴族的支配階級に属する人々」であり、「日本人移民の息子で、大した資産もなく、民衆の中から出た私が、選挙で彼らを打ち破ったから」こそ彼らは「私をけっして許さなかった」と述べている。自分はいまも「民衆のチーノ(東洋人)」であるとも主張している。
確かに、フジモリ後のパニアグア大統領やデクエヤル首相などが既成政党出身の寡頭支配層に属していることは明らかなことだ。彼らが企図しているフジモリ政権時代の責任追及の方向性に、来るべきペルーの未来があるとは思われない。
だが、フジモリが自分を訴追しようとするこの新支配層との「人種的」対立点を強調して、相変わらず「貧困層の味方」ヅラを続けることの虚偽は指摘しなければならぬ。現代ペルーにおける社会的分断線を、フジモリのように引くわけにはいかない。
特別手記「希望の国・ペルーへの道」で、そのことはいっそう明らかになる。そこでも彼は、自分がいかにペルーのことのみを常に考え一身をペルーに捧げてきたかを語っている(妻との離婚も、彼によれば、そのための犠牲であった)。
フジモリ施政下の一〇年間でいかに「ペルーが希望ある国」に変貌したかの「実績」がいくつもの数値で語られている。「私たちペルー国民は」という表現のように、ペルー人であることと日本人であることを、局面に合わせて融通無碍に使い分けるけれんを隠しはしない。だが、精神的に彼を支えているのが、日本と米国とペルーにいる実の子どもたちでしかないことが、この文章からは読み取れる。
「家族愛の深さ」を演出したこの文章は、あるいは日本人向けのメッセージなのかもしれぬ。だが、東京で「息子たちと迎えた新年」を楽しげに語る冒頭部分と、つい昨日までの側近に対するあられもない批判と自らのペルーへの献身を自画自賛することに費やす後半部分の間には、隠しようのない虚しさが広がる。
フジモリの意識の中に「ペルーの民衆」は不在であることが、問わず語りに明らかにされているからである。
フジモリがどの発言でもとりわけ強調するのは、一〇年間一貫して「側近」であったモンテシノス国家情報局特別顧問(二〇〇〇年九月一六日解任)に対する批判である。
フジモリは、秘密の銀行口座・巨額の不正蓄財などのモンテシノスの「悪業」を知ったのは二〇〇〇年九月であったとしている。だが、フジモリ政権におけるモンテシノスの役割を経済的腐敗の局面においてのみ捉えることの誤りは、誰よりもフジモリが知っていよう。
政党母体をもたないフジモリが、自らの政権基盤の安定のためにモンテシノスの才能を見込んで重用し、後者がその期待に応えて軍と諜報機関との絆を固めたこと、それによって民主主義が大きくふみにじられたこと、「反テロリズム」の名の下での人権侵害が野放しにされたことーーいまやフジモリ自身がモンテシノスの経済的腐敗を認め、その「裏切り」を声高に強調すればするほど、そこには、民主主義蹂躙と人権抑圧政策における両者の盟友ぶりを隠す意図があると言わなければならない。
一九九七年四月の日本大使公邸占拠事件を、フジモリが武力突入によって「解決」した時の状況を思い起してみよう。その二週間前、モンテシノスのスキャンダルが露呈し、陸軍情報部での拷問・暗殺事件が明るみに出た。この「悪業」を覆い隠すために武力行使を行なったフジモリが、三年も過ぎてからモンテシノスの別な顔を知ったなどと広言するのは無恥以外のなにものでもない。
フジモリは「サムライ精神」を強調する物言いを依然として続けている。日系人であるがゆえにフジモリを特別扱い(重用)してきた日本政府・日本社会・メディアには、取るべき責任があると考えるのが、私たちにとってのフジモリ問題の出発点である。
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