現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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◆アフガニスタンについての本の成り立ち

◆わが社の一冊 現代企画室

◆誰も知ろうとしなかったクルド問題の全体像を明かす
書評:中川喜与志著『クルド人とクルディスタン』

◆人を傷つける現実よりも、武器の「精度」を報道するジャーナリズム
イギリス・BBC放送の自主的ガイドラインに触れて

◆「自衛隊が外国へ行くのは、外国を知るよい機会」・アフガン戦争に関わる大学生と教師たちの発言を読む

◆罌粟とミサイル・「9・11」とその後の事態をどう捉えるか

◆「善意」をすら気取る、底知れぬ悪意・「9・11」事件とその後の展開をめぐる報道を読む

◆緊急特別インタビュー
「批判精神なき頽廃状況を撃つ:自爆テロと『無限の正義』作戦の意味するもの」

◆重層的な歴史の過程が浮かび上がるラテンアメリカにおけるノンフィクション

◆「あはれ 秋風よ 汝こそは見つらめ」・南クリル(北方諸島)水域・三陸沖サンマ漁問題を読む

◆日米安保体制堅持の「正当性」を毫も疑わない外務官僚たち
『外交フォーラム』特集「湾岸戦争から10年」を読む

◆繰り返される「日本=単一民族国家」論・閣僚・政治家の「人種差別」「保安処分」発言を読む

◆深沢七郎よ、ふたたび
女性天皇論の台頭を前に

◆一九九〇年代に関わる断章
植民地支配責任の「弁済」という問題

◆「素直で、黙従し、受身の市民」を作り出す「テレビ政治」の誕生
ラジオ・テレビ・新聞の「小泉政権報道」を聴く・観る・読む

◆メキシコ先住民「尊厳のための行進」の意義

◆歴史的犯罪の時効をめぐる再考へ
「金正男らしき男」の偽造旅券による入国問題報道などを読む

◆台湾の、ある女性の記憶
東アジア文史哲ネットワーク編『小林よしのり<台湾論>を超えて』

◆戦争のなかの文化遺産 「タリバーンのバーミヤン大仏破壊」報道を読む

◆書評:栗原幸夫著『世紀を越える:この時代の経験』(社会評論社刊)

◆無神経・無恥な漫画家を喜ばせる入国禁止措置  小林よしのり『台湾論』をながめる 

◆書評 シモーヌ・ヴェイユ「力の寓話」 富原眞弓 著

◆表層で政府批判を行ない、最後にはこれに合流・する最近の事件に関わるマスメディア報道姿勢を読む

◆「フジモリ問題」を考える 

◆いまなお大国の「ミーイズム」に自足する映像表現
ロジャー・ドナルドソン監督、ケビン・コスナー主演『13デイズ』を観る

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深沢七郎よ、ふたたび・女性天皇論の台頭を前に  
反天皇制運動連絡会編集『季刊:運動<経験>』2号(軌跡社)掲載
太田昌国


 私は、いまから四〇年ほども前、一〇代後半に目にしたひとつの文章を忘れることができない。

 「天皇というものは本来純粋培養で、貴族同士の結婚によって段々痩せ衰えてゆき、ひとつの生物の標本となる。ジガ蜂のようにグロテスクになってしまい、国民がそれを見て、なるほど俺たちの象徴というのはこんなんなんだナというふうに眺めるようになってほしかった。ところが、民間の女性と結婚することになった。これは困ったことである。なぜならたいへん健康な子どもが生まれるであろうから」

 一九五九年四月、この国の首都では、明太子という異名をもつ皇太子と、皇族外から選ばれた民間の女性・正田美智子の結婚式が行なわれた。

この文章は、この事態を享けて書かれたものである。しかも、講談社という高名な出版社が発行している文芸雑誌「群像」に掲載された。今回この文章を書くに当たって原典にまでさかのぼって参照することはできなかったので、手元のノートに残っていたメモから書き写した。小さな異同はあるかもしれないが、大意は損なっていないと思う。

 書いたのは、深沢七郎である。深沢は一九五六年、民間伝承にある棄老伝説をテーマにした小説『楢山節考』で、文学界にも社会全体にも、大きな衝撃を与えて登場した。旧来に見られない世界を切り開いたこの小説の魅力もさることながら、私は、おそらくはいわゆる文壇の常識からも、社会一般の常識からも逸脱した、その後の深沢の言動が楽しくてたまらなかった。

『楢山節考』を評して「人生永遠の書のひとつとして心読した」と述べた作家・正宗白鳥との交友録や、画家・山下清との対談などは、その底知れぬ無垢なユーモアを愛して、何度読んだか知れない(深沢だけではない、相手も見事だと思う)。

後年、つまり一九六三年のことになるが、米国のケネディ大統領が暗殺されたとき、お祝いに赤飯を炊いて隣近所に配ったら怪訝な顔をされた、と心外そうに書いた日記もあって、これも可笑しい。

文壇なる世界では、深沢を指して、作品は名作だが、作者は「世間知らず」で「馬鹿」だとの評判がたったらしいが、「知力」によって立ってはいなかった深沢が、独特の感性と直感力に基づいて把握していた世界・社会のイメージを「異形のもの」として排除するほうが、制度的な社会にとっては都合がよかったのだろう。

 それにしても、冒頭に引いた深沢の言葉は、天皇や皇太子という存在に対する恨み骨髄の思いを直截に表現していて、迫力がある。近親婚という形での「生殖」を繰り返した果てに、「象徴」が昆虫の標本のような姿になったのを見れば、さすがの「国民」も目が醒めて、精神的に天皇制なるものから解放されることができるだろうという暗喩的な表現は、言葉を換えるなら、この国では自覚的な意識化作業による精神革命=回心を経ての天皇制廃絶も、他国ではありふれたれた歴史的事象であった物理的な処断=「王」の処刑による「王制」廃絶も、不可能なのではないかという深沢のニヒリズムを、言外に語るものであるように思える。

[現在の価値基準で言えば、深沢のこの言動は、障害者差別と見紛うばかりだとの批判がもしかしたら起こりうるかもしれないが、私の判断では、比喩が昆虫にまで突き抜けていることで、その範疇には到底閉じこめることのできない表現として、シュールな水準にまで昇華されていると思う]。

 深沢は、この後で触れる事件をきっかけとした流浪の旅の果てに「人間滅亡教」の教組を呼ばれるようになる。それは、彼から見て滅亡させるべき筆頭に位置する社会システム=「王制」すら廃絶できないでいる、みずからをも含めた「人間」に対する絶望感を抱え込んで生きた深沢にふさわしい呼び名だったかもしれない。


                   二


 さて、この言葉を書き留めて間もないころに行なわれた、天皇制に関わる深沢の第二の表現は、思いがけない結果を招く。ある小説のなかで、皇太子夫妻の首が斬られて、スッテンコロコロとかスッテンコロリンカラカラカラという音をたてて転がっていくと表現して、右翼の怒りと憎しみを買い、その小説が掲載された雑誌を発行していた出版社社長宅が襲われて家人ふたりが殺傷され、作家も結局は右翼テロを避けて国内流浪の旅に出ることになるのである。

問題となった小説自体は、「中央公論」という雑誌の一九六〇年一二月号に掲載された。作家はそれこそ年末年始にふさわしい「風流」な「夢譚」を意図したのであろうが、都心で始まったらしい「左欲」の「革命の様なこと」で、天皇夫妻も皇太子夫妻も処刑されるに至るが、その現場を目撃した私は、辞世の歌をつくるところで目が覚める……といったたぐいのお伽話である。

 これを「高級落語に類する作品」とした吉本隆明の評価もあり(「慷慨談−−『風流夢譚』をめぐって」、現代思潮社版『擬制の終焉』所収、一九六二年)、「ユーモラスな文学のひとつの名作だった」という大江健三郎の意見もある(「思想のない小説」論議、「毎日グラフ」一九六二年五月二七日号、後に創樹社版『深沢七郎の滅亡対談』所収、一九七一年)。

だが私としては、当時の感想としても、いま作品の記憶を微かに思い起こしてみても、あまり上等な質の作品とは思えない。

天皇制問題の本質が人びとの目の前に引きずり出され、右翼からすればあまりに「危険な匂い」がただようがゆえに「決起」する者が出たというよりも、刎ねられた皇族の首が「スッテンコロコロ」と転がったり、「この糞ッタレ婆ァ、てめえだちはヒトの稼いだゼニで栄養栄華をして」と「私」に怒鳴られた「昭憲皇太后」が「なにをこく、この糞ッ小僧ッ」と言い返しながら「私の顔をひっか」いたり、このふたりが組うちになって「昭憲皇太后」の首が「私」の両股に羽交い締めになるなどという描写のドギツサが、右翼を刺激したのだと思える。

 もちろん、「絵空事」の小説に描かれたにすぎないことを、その限りのものとして読み/批判することができずに、「現実世界」のなかで単純に反応してみせた右翼少年の迷妄は明らかだ。だが、深沢の文学的昇華力の不足も覆い隠すことはできないことのようだ。

事件をうけて深沢が「実在の人物をモデルにしたのがいけなかったんです。それに下品な言葉をつかったこと。(右翼の反発などという)そんな制約があるのを知らなかったんです」(毎日新聞、一九六一年二月七日)と、記者会見で涙ながらに語らざるを得なかったのは、誰よりも深沢本人が、この作品の力では、文学的方法論によってこの不当なる攻撃を迎え撃つことはできないことを自覚していたからだと言えるのかもしれない。

「名前はたしかに実在の人物から取っているにしても、描き方は、現実的な感情を触発するものではない」という立場は、作家が踏み留まることのできる最初にして最後の一線だったと思えるからだ。

同時に、吉本論文で的確な批判がなされているが、なかのしげはる(中野重治)がこの作品の皇族処刑の場面に触れて、革命にともなう民主的な裁判をふっとばして「マサキリ」での処刑を持ち出すことは、革命に対する侮辱であるという「批判」を繰り広げたことも記憶しておきたい。この読み方は、「右翼と紙一重しかちがわない文学論」だとする吉本は、見るべきものを見ていたと思う。

 ここで触れておきたい点は、もうひとつある。深沢の、急進的な精神を暗喩的に表現した随筆と、文学的に未昇華のドギツイ作品とは、すでに触れたように、いまから四〇年ほど前の、大手出版社=講談社および中央公論社から刊行されている文芸雑誌と総合雑誌にそれぞれ掲載されたのである。

ここでわずかに引用した部分だけから見ても、天皇制に関わる表現が、四〇年前にはどの程度の「自由さ」を享受していたか、がわかる。大きなメディアにおいて、天皇制に関する批判的な表現が、万古不易に厳しく制限され抑圧されていたわけでは必ずしもないという事実は、私たちに、現在とはちがう表現のレベルがありうることを示唆するものではないだろうか。

大江健三郎は、先に触れた深沢との対談のまえがきで、「あの事件(右翼テロ)がはじまると、日本の文学者たちは、具体的には、なにひとつ、この名作の作家を救助するための行動をおこさなかった。

深沢七郎さんは、ひとりぼっちで北海道を放浪するほかなかった」と書いた。こう書いた大江が具体的にどう生きてきたかは本人が明らかにしているのだろうが、総じて文学者に限らずマスメディアと社会が、右翼テロを前にして、自己規制と後退と沈黙を積み重ねてきたことが今日の事態を招いているのだと、大江に倣って、言うことはできる。


           
                    三


 私は、一度だけ、天皇を歓迎する列の中にいたことがある。

官許の「戦後日本史」的に言えば、「敗戦後、国民の心は落ち込んでいたが、陛下はみずから全国を行幸されて、親しく国民と接し、その気持ちを奮い立たせるような励ましのおことばをかけられた」が、北海道の釧路市までやってきた天皇一行の車がたまたま私の通っていた小学校の前を通り過ぎたために、日の丸の小旗を手にして歓迎の列に動員されたのである。

天皇が釧路に来たのは、本で調べると、一九五四年のことであり、私は小学校四年だったはずだ。光景はありありと目に浮かぶのだが、どんな気持ちで列の中にいたのか、情けないことに、まったく思い出すことができない。 

 その後、背伸びした社会批判意識の芽生えとともに、天皇制に対する疑問と批判の意識が当然育っていくにしても、その過程は同時に、この社会がいかに天皇制の呪縛から自由ではないかを確認する歳月でもあった。

のちに知った小山俊一の言葉を借りると「おれたち天皇制人間」と自嘲せざるを得ないような社会に、私たちは住んでいることが実感されるのだ(「オシャ通信」第二号、一九七二年一二月一五日)。

明らかに不条理な存在が、社会全体の中に揺るぎない存在基盤をもっているかに見えるとき、そして社会変革の常道というべき「理論と実践」の過程でそれを廃絶する現在から未来にかけての道筋が容易には見えないとき、私につねにささやきかけてくるのは、かつて深沢七郎が発した言葉であった。

 昆虫の標本のようになったものに皇室の未来像を夢描いた、あの暗喩的表現である。

 私は、一九八〇年代から九〇年代初頭にかけて、反天皇制運動の「正統なる」理論と実践の端っこでこれに同伴しながらも、こころの奥底で、深沢七郎のあのイメージを消してしまうことはできなかった。

 状況は、しかも、このイメージに有利に展開しているかに見えた。現皇太子とその側近は、結婚すべき相手を民間に探し求めながら、ことごとく失敗しているようだった。

社会一般ではすでに、結婚か非婚かを選ぶにせよ、子どもをもつかもたないかにせよ、当事者(同士)の、自由で主体的な判断に委ねられる時期に、ほぼ、入っていた。だが、皇族に生まれ育ち、それを外れて生きる選択肢があるなどとは露も思わぬ皇太子は、一系を絶やさぬためには女性と、しかも故・深沢七郎の「悪意」に満ちた願望を裏切るためにも、血族を外れた民間の女性と結婚すべき定めにあった。

彼には執心している女性がいるらしいことは、毎週刊行される女性週刊誌の新聞広告の見出しを見るだけで、十分にわかった。その女性が必死に逃げ回っているらしい様子も、誰の目にも明らかだった。

彼女に執心する皇太子とその意を受けた側近が、ストーカーまがいの行為を繰り返して結婚を迫っているらしいことを読み取ることも、さして難しくはなかった。彼女は現代に生きる女性として聡明そうではあったから、何とか逃げおおせるだろうと私は考えていただけに、皇太子と同女との婚約決定のニュースが流れたときには、はてさて、本人と家族に対するどんな「脅迫」が決め手になったものかと、私は訝ったものだ。

上品に口を塞いでいたとしても、おそらく、世間の多くの人びとも同じ思いをいだいていたのではないかと私は確信している。

 いずれにせよ、深沢七郎の夢想は、またしても、潰えた。



                   四 


 ふたりの後継ぎをもうけた後に結果的には交通事故死した古の大英帝国の故・皇太子妃にせよ、「当然生まれるべき」後継ぎが生まれないために傍目には想像もつかないほど苦しめられたにちがいない古の大日本帝国の現皇太子妃にせよ、現代を生きる女性として自律的な判断を行なえば、ヨリまっとうな人生を生きる道をみずから選ぶことはできた。

それを選ばずに、驚くべき伝統と因習や、厳しくかつ好奇の視線……に取り囲まれ、その代償に、一般の大衆には決して許されないもろもろの特権を享受できる道を択びとったのだから、その結果責任をみずからの一身に背負わざるを得ないことは自明のことだった。

 結果責任とは、日本の皇太子妃の場合、その生殖機能に世間の目が集中してしまうという一点において、である。一九九九年末、朝日新聞が皇太子妃に「懐妊の兆候」と報じた一件はやがて「稽留流産」と判明し、手術することで決着をみたが、これをめぐるマスメディア「騒動」ののち、四〇歳になる夫、浩宮はこう言った。

「医学的な診断が下る前の非常に不確かな段階で報道がなされ、個人のプライバシーの領域であるはずのこと、あるいは事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であります。(中略)今後は、事柄の性質上、慎重で配慮された扱いを望みます」。

日常的にあらゆる特権を享受する特別な存在形態(生活)を死守しておきながら、いったんことあれば、「個人のプライバシーの領域」に逃げ込もうとするこの言動が孕む欺瞞性は、底が知れない。

 事態はその後、だれもが知っている経過で進行している。二〇〇一年、皇太子妃の、今度こそほんとうらしい「受胎」の事実をうけて、現行「皇室範典」第一章「皇位継承」が定める「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」との規定を改訂し、女性天皇を可能するような議論が、政府・与党・マスメディアから、一気に浮上した。

現自民党幹事長、山崎某も、みずから発表した改憲論において、現行憲法は環境問題への意識に欠ける、プライバシーや情報の問題についても触れていないなど、現在の状況では口当たりのよい見直し項目を挙げているが、そのなかに、女性天皇肯定論を滑り込ませている。

皇太子妃を取り巻く医師団が、二〇〇一年一二月に生まれる子どもの性別をすでに判定し終わり、政府、宮内庁などがその情報も得ているであろう二〇〇一年半ばの段階で、つい先だって一気に噴き出した女性天皇肯定論は、いったん沈静化したかに見える。

しかし、四〇年前に深沢七郎があえて行なった発言が突いている事の本質を否応なく自覚せざるを得ない支配層は、あらためて、問題の根本的な解決を図ろうとするだろう。

 私たちが住むこの社会は、伝統的に、マルクス主義者のあいだからさえ、天皇から嬉々として勲章をもらい、祝賀会まで開く光景が、当たり前のように過ぎてゆく社会である。

「天皇の居ぬ日本を唾(つばき)ためて想う、朝刊読みちらしつつ」とか「皇(すめら)また皇(すめらぎ)という暗黒が復(ま)た杉の間に低くわらへる」などと詠んだ歌人が、三〇年有余を経ると宮中歌会始の選者となる社会である。日本古代史や日朝関係史に関して私たちにも深い示唆を与えた歴史家が、やはり三〇年有余を経て、同じく宮中歌会始の「召人」となって恥じない社会である。

これらの行為の選択が、たとえば山口昌男によって、「天皇については、いても、いなくてもいい。天皇制をなくすことで、それとともにある文化財的なもの、芸術的、宗教的なものまでなくしてしまうのは惜しい、という気持ちがありますね」と意味づけられる社会である(網野善彦との対談「女性天皇への道」、「論座」一九九八年一二月号)。

 深沢七郎の「本音」を、及ばずながら継承しようと思う私は、「風流夢譚」の作品レベルと「事件」後の対応において彼が逢着した問題に近づき、これを越える道を模索したいと思う。

 
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