立教大教員で、メディア論を専攻する門奈直樹は、いまロンドンにいる。
彼は、9・11米国中枢攻撃とアフガニスタンに対する報復戦争をめぐるイギリスのメディア事情について、興味深い報告をしている(『しんぶん赤旗』12月13日付)。
米国に同調して報復戦争に一貫して積極的な関わりをしているイギリス首相ブレアは、当然にも、メディアの報道規制を考えたが、BBC放送は機先を制して自らガイドラインを公表した。
敵意をあおるような報道はしない、政府の情報が信頼しうるかどうか常に確認する、軍人専門家には将来の軍事行動を予測させる発言をさせない、感情がこもるテロリズムという言葉は使わず「攻撃」という表現を用いる、「わが軍」ではなく「英国軍」を使うーーなどの項目から成るものらしい。
また、ジャーナリスト労組は「戦争反対メディア労働者」という組織をつくり、毎週、戦争報道を考える討論集会を開いているという。これは、よく言われるように「戦争の最初の犠牲者は真実だ」との自覚に基づくもののようだ。
実際になされているBBCの放送がどういうものかは知らない。だが、このような自主的なガイドラインが設定された以上、イギリスにおける「 9・11」攻撃/アフガニスタン戦争報道は、米国や日本の視聴者・読者が否応なく向き合っている報道とは、その質を大きく異にしていると思われる。
異様なまでに好戦的に高揚しているブレア政権とは違う顔をした、もうひとつのイギリス社会をそこに見ることができる。
インド洋に派遣された自衛艦隊を「わが軍」と呼びかねない勢いのこの社会から見れば、イギリスにおいて自己を対象化しうる呼称「英国軍」を使うこと自体が、人びとが国策と安易に一体化しないための、ひとつの歯止めになるかもしれないことが実感される。
ひたすら扇情的な報道に明け暮れた当初に比べると、少しは落着いてきたか見える日本のマスメディアの報道だが、たとえばNHKニュースに典型的なように、米軍が洞窟攻撃に使用している燃料気化爆弾(別名「デイジー・カッター[雛菊刈り]」)を、兵器としての残虐性には触れずにもっぱらその「効率性」において解説するあり方は、相変わらず続いている。
イスラマバードには日本のジャーナリストも大勢行っているが、11月22日付の現地紙が報じたクラスター爆弾の悲惨さを伝えたのは、前出「しんぶん赤旗」だけだったと思う。
同紙によれば、アフガニスタン北西部ヘラート村に落とされたクラスター爆弾によって「まきを集めていた12歳の少年が同爆弾に触れ、左腕の骨と指がこなごなになり悲鳴をあげながら帰ってきた」(11月23日付)。メディアにとって重要なのは、兵器の「精度」であって、人を傷つける悲惨な現実ではないのだろう。「 9・11」報道との温度差を感じざるをえない理由である。
その延長上には、11月下旬、「北部同盟」が制圧したマザリシャリフの捕虜収容所で起きた暴動に対して、米軍の空襲を含めた「鎮圧作戦」が行なわれ 300人以上の死者が出た事実についてのきわめて軽い扱い方がある。
そこには、戦争における勝者と敗者(捕虜)、 300人以上の「テロ加担者」の死とひとりのCIA要員の死の対比、悽惨だったであろう鎮圧作戦の現場を撮影しようとするジャーナリストに「撃つぞ!」と脅す米軍兵士など、戦争と戦場をめぐるいくつもの重要な問題が孕まれていたと思われる。
当時マザリシャリフに入っていたジャーナリストは相当な数に上っていたはずだが、詳細な報道はなされていない。米軍の報道管制が厳重をきわめたことも考えられるが、一連の報道姿勢から見ると、(現場にいた個々の記者の思いはともかく)制度としてのジャーナリズムの価値観が如実に現われていたのだと思われる。
朝日新聞朝刊に断続的に掲載されている「テロは世界を変えたか」は、世界各地のさまざまな声を伝えて貴重だ。報復戦争をめぐって社説がぶれ、社会面での戦争煽り報道が目立っただけに。
11月28日付ではチリの作家、アリエル・ドルフマンが「米国はなぜ嫌われるのか」を語っている。ドルフマンらしく、もうひとつの「 9・11」から語り始めているところに共感する。米国の支援を受けたチリの軍人ピノチェトらがアジェンデ社会主義政権を倒したクーデタのことである。
ラテンアメリカの人びとの多くは、この時以降なされた大量の殺人・行方不明・拷問の傷を記憶している。ニューヨークの事件が起こった日付である「11」という数字の形に、ツインタワーの形を重ね合わせて、かつての「11」を思い起すというのは、彼の地ではごく自然なあり方だった。
米国人が、他にも数多くの「 9・11」の悲劇があることを理解することが大事だと語るドルフマンの言葉は、容易には現実の米国社会に届かないだろうが、問題をそのような視角から語り続けることが重要だと思える。
12月11日付では、エジプト国立社会犯罪研究所顧問のアハメド・マグドゥーブが「アラブの足元にテロ原因ないか」と語っている。前半部でなされている米国批判は当然としても、彼は、アラブ諸国の政府がいずれも武力や不正な選挙で権力を握っており正統性を欠いていること、貧富のひどい格差をなくすためにも民主化が必要なこと、機会不均衡をもたらしているコネを根絶すること、海外投機に向けられているアラブの金を国内投資に向けるべきことなど、きわめて重要なことを内省的に語っている。
他にはごく最近では、12月15日付毎日新聞夕刊の古館伊知郎の「TV的職業病」の文章が光った。
今回は米国の政策にほぼ世界中がつき合わされているが、個人レベルでは疑問ももって当たり前だという古館は、「かくまう奴はぶった斬るっていうのじゃ、ますます戦争がヤクザの出入り化するじゃねえか」といい、ブッシュをそっくりそのまま真似してアラファトの官邸やガザ地区を爆撃しているイスラエルへの危惧を語っている。
米国にここまで付き合わされて、一向にストレスがたまった様子もないこの国も不思議だとする彼は、「もしかしたら我々日本人は、その反逆心の刃を自分の方に向けてしまう自虐性で、アメリカの逆鱗に触れる危険を回避しているのかもしれない」と自己省察する。
ここに引用した三者に見られる自己批評こそ、米国社会に決定的に欠けていることである。だが、ここにしか、この悪夢のような時代を乗り越えてゆく態度はないように思える。
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