前世紀をふりかえるとき、多くの人が、苦い気持ちで見るべきほどのことは見たという思いにかられる。著者も例外ではない。いや、社会主義に希望を託して生きてきた(いる)著者の場合は、幻滅はいっそう深いものがあると言うべきだろう。
それでも著者はエルンスト・ブロッホを引いて言う。「洞察的な真にオーソドックスな幻滅もまた、希望に属している」。
それが気休めの空語に終わることのないように、二〇世紀の経験のなかに、「もしかしたら有りえたかもしれない他の可能性、つまりもうひとつの二〇世紀を発見すること」、著者が、多様な主題を論じた本書で一貫して試みるのは、そのことである。
第一部「二〇世紀を読み直す」において、歴史はつねに「いま」から読み直されるべきだとする著者がもっともこだわるのは、歴史の再審というテーマである。「技術」「大衆」「政党代表制の崩壊」というキー概念を通して、著者は二〇世紀の危機を再審にかける。
私の関心と重ね合わせていうと、「他者を持たない自民族中心主義からの脱却」こそが歴史の再審の意義だとする点にもっとも共感をおぼえる。
この論点は、ダム造成のためにアイヌの土地を強制収用したことは違法だったが、ダムは完成しているので取り壊し原状復帰させることは公共の福祉に反するという「良識」に満ちた裁判所の判決に対して向けられる。
植民地支配と侵略戦争という、およそ世界の現状をもたらした決定的な要因に関しては、責任当事者は確かに「反省」と「謝罪」を繰り返すようにはなったが、原状を変えることは頑なに拒否するときの、常套の論理がここでは批判されている。
われわれの前に立ちはだかるのは、自虐ならぬ自慰史観というべき「自由主義史観」だけではない、「良識史観」もそうなのだ。「他者」を「公共」から排除する歴史観とのたたかいはまだまだ長い道をたどらなければならない、と著者は言いたげだ。
社会思想と社会運動史に広く通じた著者は、また文学批評家としての顔ももっている。埴谷雄高、中野重治、堀田善衛の「三人の作家たち」を論じた章が、私の心に深く残った。なかでも一〇年前に書かれたが未発表であった「堀田善衛の世界」は、このユニークな文学者の全体像を手際よく明かしていて、とても参考になった。
ほかに、書評をまとめた第三部、「党が諸悪の根源だ」とする著者の持論を展開した社会運動の回想などの文章を収めた第四部があり、著者の関心領域と目配りの広さが印象的だ。
著者によれば、本書に収められた文章はすべて、著者自身のホームページに掲載されているものだという。初出の雑誌からオンライン・メディアへ、さらにペーパー・メディアとしての本へという道行きに、著者は現在と未来のメディアの可能性を夢見ているようだ。私もその夢を共有する。
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