現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2002年の発言

◆イラク空爆の緊張が高まるなかで
キューバ危機に見る教訓
2002/12/28up

◆日朝会談以降を考える声特集
異論を許さない雰囲気に違和感
2002/12/28up


◆拉致被害者を「救う会」の悪扇動に抗する道は
名護屋城址・飯塚市歴史回廊を見る
2002/12/28up


◆あふれ出る「日本人の物語」の陰で、誰が、どのように排除されてゆくのか・「拉致」問題の深層
2002/12/26up


◆ふたたび「拉致」問題をめぐって
問題を追い続けた3人のインタビューを読む
2002/11/13up


◆「拉致」と「植民地」問題の間には……
産経式報道の洪水と、社会運動圏の沈黙の根拠を読む
2002/10/17up


◆「拉致」問題の深層
民族としての「朝鮮」が問題なのではない「国家」の本質が顕になったのだ
2002/10/17up

◆一年後の「九月一一日」と「テロ」
太田昌国氏に聞く
2002/9/28up


◆選ばれたる者の、倨傲と怯えの中に佇む米国
「 9・11」一周年報道を読む
2002/9/28up


◆書評 徐京植著『半難民の位置から:戦後責任論争と在日朝鮮人』
花崎皋平著『<共生>への触発:脱植民地・多文化・倫理をめぐって』 
2002/8/30up


◆外部への責任転嫁論と陰謀説の罷り通る中で
アラブ社会の自己批判の必要性を主張する文章を読む
2002/8/30up


◆「9・11」以後のアメリカについて
2002/8/4up


◆2002年上半期読書アンケート
「図書新聞」2002年8月3日号掲載 2002/8/4up


◆「老い」と「悪態」と「脳天気」
作家の、錯覚に満ちたサッカー論を読む  2002/8/4up


◆戦争行為をめぐるゴリラと人間の間
今年前半の考古学的発見報道などを読む
2002/7/12up


◆煽り報道の熱狂と、垣間見える世界の未来像の狭間で
ワールドカップ騒ぎの中の自分を読む
2002/6/15up


◆国境を越えてあふれでる膨大な人びとの群れ
「イスラエルの中国人の死」「瀋陽総領事館事件」を読む
2002/5/30up


◆書評:徐京植著『半難民の位置から』(影書房 2002年4月刊)
2002/5/30up


◆スキャンダル暴きに明け暮れて、すべて世はこともなし
鈴木宗男報道を再度読む
2002/4/15up


◆テロルーー「不気味な」アジテーションの根拠と無根拠

◆2001年12月25日、アジア女性資料センター主催
『カンダハール』主演女優ニルファー・パズイラさんを迎えての集いでの挨拶


◆スキャンダル騒ぎ=「宴の後」の恐ろしい光景

◆書評『世界がもし100人の村だったら』 池田香代子再話 ダグラス・ラミス対訳

◆人びとのこころに内面化する戦争=暴力・少年たちの路上生活者暴行・殺害事件報道を読む

◆他者の痛みの部所を突く、慢り高ぶる者の最低の悪意
「カンダハール発→グアンタナモ行」輸送機が孕む問題を読む


◆微かな希望の証し・2001年におけるマフマルバフの映像とテクスト

最新の発言
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1999年の発言
1998年の発言
1997年の発言

イラク空爆の緊張が高まるなかで
キューバ危機に見る教訓       
『週刊読書人』2002年11月29日掲載
太田昌国


 「もしわが国(米国)がキューバを攻撃したら、どうなっていただろう?」「われわれは消滅していただろう」。

二〇〇二年一〇月一一日から一三日にかけて、キューバの首都ハバナで開かれた「一〇月危機、四〇年後の政治的見解」会議において、マクナマラ米国防長官(当時)とカストロ首相の間で交わされた会話であるという。

コロンブス遠征隊到着以後の虐殺と疫病死で一世紀と経たぬうちに百万人いたと推定される先住民が絶滅し、「死の島」と化したキューバ島の運命を知る者には、二重に心騒めく問答である。

 今から四〇年前の一九六二年一〇月、世界が第三次世界戦争(「核戦争」という表現が多用されていた)の瀬戸際までいった記憶は、その時代を生きていた者には、忘れがたい恐怖感を伴って蘇ってくる。

ソ連がキューバに核ミサイル基地を設けたことを知った米国(ケネディ政権)が、ミサイルの即時撤去を要求する一方、キューバを海上封鎖することを通告した。

これが受け入れられなければ、米国によるキューバ空爆か侵攻が必至であり、最悪の場合には核戦争に至ると推測されたのである。ソ連(フルシチョフ首相)は最終的に譲歩し、ミサイルは撤去された。

世界戦争の危機は回避された。一〇月一六日から二八日までの、一三日間の出来事である。

後年、当時の司法長官ロバート・ケネディが回想録を『一三日間』と名づけたり、これをテーマに『13デイズ』(ロジャー・ドナルドソン監督、ケビン・コスナー主演)と題する映画がつくられたりした所以である。

 このカリブ海危機から三〇周年を迎える一九九二年までの五年間、米・ソ(露)・キューバの当事者たちが集まり、六二年の危機をふりかえる再検討会議を開いていた。

互いの意図・政策決定のプロセス・軍事的展開の実態を明らかにし、相互にどこに読み違えがあったのか、何を未来への教訓とするかなどを討論する会議である。

一〇年ぶりに開かれ、カストロとマクナマラが同席するものとしては二度目にあたる今回の会議でも、「ソ連潜水艦が米駆逐艦に対して核魚雷発射寸前であった」とか「カストロが、ソ連のミサイル配備は誤りだったことを認めた」などの新たな事実が明かされた。 

 資料上のことも付け加えるなら、米国の国家安全保障会議執行委員会の会議録音テープや重要文書がすでに解禁されており、マクナマラらの回顧録もある。CIAの『極秘キューバ・ミサイル危機文書』すら刊行されている(日本語訳はない)。

ソ連側でもグロムイコ外相(当時)やフルシチョフの回顧録に加え、ソ連崩壊以後はクレムリン文書の開示が始まった。重要なことは、当時は米ソによるいわば頭越し外交に翻弄されたキューバを、回顧する現段階においても当事者外に追いやってしまわないことである。

当時の国連大使カルロス・レチューガの回想録や、時期によって微妙なニュアンスの違いを示しているカストロ発言の真意、ソ連に対する怒りを顕にしたチェ・ゲバラの態度などを見極めることが重要な点となるだろう。

 ゲバラは当時書いている。「それは、原爆の犠牲となっても、その灰が新しい社会の礎となることを願った人民、自分たちに相談もなく核ロケットが撤去されるという協定に達した時に、やすらぎにほっと息をつくこともなく、休戦を喜びもしなかった人民の、身の毛もよだつような実例である」({ラテンアメリカ革命の戦略と戦術」一九六二年執筆)。

俗説に倣えば、これをゲバラの「好戦的な」立場の表明と読むことが可能かもしれない。

他方、キューバ革命の年、一九五九年に通商使節団長として来日したゲバラが、大使館と外務省が設定していた無名兵士墓地へ詣でることは「アジアで多数の人びとを殺した兵士の墓を詣でることになる」といって拒否して広島行きを希望し、原爆資料館を見て深い衝撃を受けていたという挿話の傍らに、上の発言をおいてみる。

ゲバラは核の恐ろしさを十二分に知っており、上の発言の力点はむしろ、キューバの主体を無視した地点で米ソの駆け引きと取り引きがなされたことに不満を表明する点にあったと捉えることも可能だ。

また小さな国にとっては、核を用いない、「通常」兵器による空爆や侵攻であっても十分に破壊的な結果を招くものであり、その意味では「核」を用いない攻撃・戦争には世界が関心を急速に失うこと自体への異議であった、とも。


 上に見たように、米国側はこの問題を「13日間」に限定した政治・外交・軍事上の駆け引きとして解釈しがちだ。

だが、物事にはつねに前史がある。今回の会議で、当時の大統領顧問でケネディ演説の原稿のほとんどを執筆していたセオドア ・ソレンセンは米国がキューバに対して実施したサボタージュ(破壊活動)に関して個人的に詫びた。

確かに、キューバ革命以後、アイゼンハワー=ケネディ両政権が持続した対キューバ敵視政策がどのようなものであったかを考慮の外におくことはできない。

米国資産の接収に対抗する外交関係の断絶、U2機による偵察飛行の継続、キューバ人亡命者を支援して潜入させ工場破壊・穀物への放火・輸出品汚染・反革命分子への物資供給を行なったこと、カストロに対するCIA主導の度重なる暗殺計画、きわめつきは六一年四月の亡命者部隊のキューバ侵攻作戦に対する全面的支援である。

これらとたたかっていた小国キューバは、傭兵軍の侵攻に失敗した米国が次回は自ら参戦して侵攻してくるだろうと考え、自衛策を講じた。そのひとつが、抑止力の均衡理論に基づく、ソ連のミサイル受け入れであったことに、東西冷戦体制下の小国が強いられた悲劇的な運命を見るべきだろう。

 今回のハバナ会議は、ブッシュ政権がイラクへの先制攻撃を公言する雰囲気の中で開催された。

ブッシュが「ケネディ大統領は力を誇示しキューバへの先制攻撃を望んだからこそ、危機を回避できた」と演説したことに触れて、マクナマラは「先制攻撃など考えていなかった」「大統領顧問の多くはキューバ攻撃を勧めたが、戦争回避を考える者もいた」と語り、暗にブッシュを批判した。

確かに、次第に明らかにされている事実からすると、キューバを埒外においたという限界はあるにせよ、米ソ両国は政治的犠牲を払ってでも対決を回避することに努力したというのが、真相のようだ。

現在の問題は、「大国が武力による脅しによって自国の意志を押し通そうとしないこと、強い国が弱い国々の利益を正当なものとして尊重し、恐怖感を与えないこと」を、キューバ危機の最大の教訓と見るフィリップ・ブレナーのような、米国内部からの声が、米国政府レベルでも、世界レベルでも生きていないことだ。

政策決定を行ないうる指導部にいたマクナマラらの「反省」は、いつも、あまりに遅くやってくる。

【参考文献】 

NHK取材班+阿南東也『十月の危機』(NHK出版、一九九二年)

八木勇『キューバ核ミサイル危機』(新日本出版社、一九九五年)

ロバート・マクナマラ『マクナマラ回顧録』(共同通信社、一九九七年)

Carlos Lechuga, In the Eye of the Storm, Ocean Press, 1995 

二〇〇二年一〇月一一日以降の「ニューヨーク・タイムズ」「ワシントン・ポスト」などの各紙。他多数。

 
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