一
昨年九月一一日、米国の経済・軍事中枢部が攻撃される事件が起こったとき、幾つかの感慨をもったが、なかでももっとも切実に思ったことは、米国がこの事態を自らの身の上にのみ起こった特別な悲劇と捉えることのないように、ということだった。
大統領のブッシュは事件直後から、そのように装おって「報復戦争」なるものを仕掛けようとしていただけに、米国の世論が、せめてそれに流されることのないように、と願ったのだ。
あの事態が悲劇的なものであることは事実であり、それによって行為主体の責任が厳しく問われるものであることに疑いはない。
だが米国以外の地域においては、他ならぬ米国が発動する戦争行為によって、そして米国の支援を受けた現地の政権・軍部ないしは何らかの組織によって、似たような(あるいはそれ以上の)悲劇が、何度も引き起こされてきた。
世界の近現代史をふりかえって、そうではないと断言する人がいるとすれば(事実、マスメディア自体も、そこで声高に発言する多くの人もそうなのだが)、それには歴史の真実をあえて見ない、ごまかしが必要だろう。
ニューヨークやワシントンの事件を媒介としてそのような内省の力が米国内部から湧き出てくること。そうすれば、チリの作家アリエル・ドルフマンが随所で語ったように、他の数多くの「九月一一日」と通底するものを米国の民衆は感じ取ることになるだろう。
チリの場合はまさしく一九七三年「九月一一日」に、米国の支援でピノチェトを筆頭とするチリ軍部がアジェンデ社会主義政権を打倒するクーデタを起こし、その弾圧によって長年のあいだに数知れぬ人びとが殺され、行方不明とされ、国外に追放されるきっかけとなったのであった。
チリの多くの人びとは当然にも、その辛い思い出と重ね合わせてニューヨークの事態を見ずにはおかれなかったが、このように世界各地域の民衆がそれぞれの「 9・11」を思い起しているときに、ひとり米国社会のみが、ようやくにして我が身に起こった「 9・11」を捉えて、自らこそが悲劇の専有者であるかのようにふるまうことは、歴史的事実からも、倫理からも、許されることではない。
むしろ、米国社会がいま感じている悲しみ・苦しみが世界的普遍性をもつこと、それをもたらす(もたらしてきた)根拠を探ること。
米国社会がそこへ向かえば、この悲劇は積極的な何事かを生み出すだろうと私は考えたのだ。
二
だが事態は、誰の目にも明らかなように、私の思いとは逆に進んだ。「困ったものだ」。
米国の政権や軍部に対する徹底的な不信は言うまでもないこととしても、「報復戦争」を阻止できない米国社会に対して、かつての私ならそう思って、舌打ちでもしただろう。だが、ペルシャ湾岸戦争の後に述懐したように、私はこの十年間、かつてない「親近感」をもって米国社会を、より厳密には白人内少数派の世界を見つめてきた。
それは、ペルシャ湾岸やカンボジアに自衛隊が派遣される事態を阻止し得なかった私たちの社会が、米国に比すれば小規模であるにせよ、政治・軍事のあり方として急速に米国型に近づいているという現状認識から生まれた。
戦後社会のその「変容」を阻止できなかった私たちは、本格的な少数派としてこの社会で生きるしかないのだろう。
近現代史のなかであれほどまでに身勝手な政治・経済・軍事上のふるまいを世界中で続けてきた米国内には、その動向に反対する人びとも一貫していた(いる)はずだが、その少数派の人たちはどんな思いで、どんな活動をしてきたのだろう。
かつてなら黒人やインディアンやチカーノなど帝国内部の被抑圧少数民族の「叛アメリカ史」の側面こそ重要だと一面的に捉えてきた米国史を、遅ればせながらもっと広く捉えなければと痛感したのだ。
「真実を知るのは、何とつらいことか!」 一九九一年、ワシントン市にあるスミソニアン協会の博物館群のひとつで「アメリカ化される西部」展が開かれた時に、来館者のひとりはそう記したという(白井洋子「アメリカ(合衆国)史の神話とインディアン」、比較史・比較歴史教育研究会編『黒船と日清戦争』、未来社、一九九六年、所収)。
コロンブスのアメリカ航海五〇〇周年を翌年に控えていることを意識したその展示は、米国史とアメリカ・インディアンの関わりを描いた美術作品を通して「栄光のフロンティア・スピリット=西部開拓史」を捉え返すという企画で、伝統的な歴史解釈に異議を唱えるものだったようだ。
守旧派から批判が起こり、論争もあって、巡回展示は突然中止されたが、その反応のひとつが、感想ノートに記された上記のことばである。
学校・社会・家庭教育のどこにおいても、そのような視点の提示をうけたことのない、したがって疑うべくもなかった米国史の真実が、先住民との関係で明らかにされたときに、ひとりの青年はそう呟くしかなかったのだろう。
「叛アメリカ史」は知るに値するが、「叛」の主体への心情的加担ではなく「真実を知るのは、何とつらいことか!」と言うしかない側に自らをおくのでなければならないと考えている私には、それは他人事のことばには聞こえない。
三
雑誌『プレイボーイ』二〇〇二年六月号に載った辺見庸とノーム・チョムスキーの対談は、その意味でもおもしろかった。
言語学者ノーム・チョムスキーは、上に触れた米国白人内少数派を象徴する人物であり、米国政府の外交政策に対する鋭い批判の文章を、ベトナム戦争以来ずっと書き続けている。
辺見は「 9・11」以降の米国では言論の自由をめぐる状況が危機的であり、かつてのベトナム反戦運動のような運動が起こっていないとの「思い込み」で質問を投げかけるが、チョムスキーはそれらにことごとく反論する。
闘争によって勝ち得られた米国の言論の自由は、おそらく世界一保証されている。政府の方針に対する異議申し立ての反対運動も、かつてないほど活発に行なわれている。
辺見は、外部から受けている印象とは違うと言って戸惑う。だが次第にチョムスキーの本意が明快になってくる。
米国の言論抑圧など、独裁国や軍事政権下の社会のそれに比べればなにほどのことでもない。知識人の「転向」など語るにも値しない。公民権・反戦・フェミニズム・労働などの諸運動がこの国の様相を変えてきたからだ。
ベトナム戦争の時だって、市民たちが反戦運動を作りだしたのであって、知識人の動きは遅れてついてきたのだ。
辺見が述懐するように、そこでは、外部世界の私たちが持ちがちな思い込みや常識のいくつかを突き崩すことが語られている。
米国支配層がもつ権力は確かに強大で、今回のように、徹底した愛国主義で国論をまとめているように見えるかもしれない。マスメディアも、外国のテロリストがばらまいたと言っていた炭疽菌が実は国立研究所から出たことがわかったとたんに報道を止めたように、支配層の利害に基づいて報道管理を厳重に行なっている。
だが、そんな社会にあっても、市民の粘り強い活動によってこそ変化は生み出されており、ベトナム反戦運動の高揚に懐かしさをおぼえるのではなく、現在の抗議・批判の運動を作り出している現実こそを重視すべきだ・・チョムスキーは、そのように語っているように思える。
五月二一日付けの「赤旗」は、米国の市民団体が「軍は最大の環境汚染者」だとの報告書をまとめたことを伝えている。
大気・原子力・飲用水などをめぐる環境保護法規が米軍施設では適用除外になっており、周辺住民・基地労働者などの健康破壊状況が悪化しているとし、国防総省こそが米国最大の環境汚染者と告発したという。
かつての私なら、「米国内の基地だけを問題にして」と切り捨てたかもしれない。本当にそうなら、その批判はなされても当然だが、大国における少数派の運動のあり方を身に染みてわかるいまは、そのような運動が外部世界と繋がる方法を積極的に考え、求めるほうがいいと、自らのこととして思うようになった。
先日も、来日した米国のキリスト者と討論する機会があった。「戦争と平和」の問題をめぐっては悪戦を余儀なくされている人びとだが、当方も「憲法九条と自衛隊の現在」をめぐる日本の状況を説明しながら、帝国内部でこのような立場にある者同士の連携から生まれるものを大事にしたいとあらためて思った。
|