きょうはこれから、映画『カンダハール』に出演したアフガニスタンの女性、ニルファー・パズィラさんが来られてお話されます。
私のきょうの役割は、まもなく日本でも公開されるイランのモフセン・マフマルバフさんが監督した映画『カンダハール』と、同じく彼が執筆して、私たちの現代企画室から刊行したばかりの著作『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』という、ふたつの表現が、現在の世界的な言論状況のなかでもつ意味について考えることだと思います。
「9・11」の事件以降、たくさんの言論が社会には溢れています。「たくさん」とは言いましたが、私の見るところ、傾向としてはひとつの方向に傾いた言論です。
すなわち、「9・11」という「凶悪なテロ」の首謀者を匿っている国に対する報復戦争は当然行なわれるべきであるという考え方であり、実際そのように形成された米国の世論と各国政治指導者の支持を背景に、米英軍によるアフガニスタン爆撃は、去る10月7日に始まり、きょうも続いています。
「9・11」の出来事をどう考えるべきかという問題も重要ですが、時間の制約上、「9・11」があった以上は報復戦争は現在のように行なわれてしかるべきだという考えは、論理的にも成立しえない、間違った考え方であるということを前提して話を進めます。
私は、インターネット上で交わされている意見や周囲の人びととの会話で語られていることを基盤に考えると、世論なるものが、これほどまでに一枚岩となって米国政府の軍事政策を支持しているとは、到底、思えません。
ただ、世界的にも、とりわけ日本では、マスメディアの報道姿勢がきわめて一方的であるために、まるで報復戦争が絶対正義であるかのように描き出されているのです。
「反テロ」と唱和しなければ人にあらず、という感じの雰囲気も作られていますが、それを言う国家自身が、自分に都合の悪い「テロ」のみを糾弾し、「テロ」を行使することが利益になる場合には自らこれを実行し、あるいは煽動し、資金的・軍事的に援助するという実例は枚挙にいとまがないのです。
米国だけが、なぜこれほどまでに身勝手で、独善的な論理でふるまうことができるのかということは、いまの世界が直面している重大な問題です。
さて、「キリスト教とイスラーム」、ひどい場合には「文明と野蛮」を対比的に持ち出して、今回の事態を解き明かそうとする類の報道が大量になされている只中に、マフマルバフのふたつの表現が現われます。
そのすべての表現方法に私が賛同できるわけではありませんが、きょうは見るべき点にのみ触れます。ニルファー・パズィラさんが後で語るでしょうが、映画『カンダハール』は、カナダに亡命していた彼女自身が監督に提案して出来上がった作品です。ターリバーン政権下のアフガニスタンでの撮影は無理で、結局アフガニスタンの国境に近いイランの村で撮影されました。
これからご覧になる方のことを考えて、物語は説明しません。強調すべきことは、映像に基づく報道を欠くことによって「イメージのない国」とマフマルバフ自身が規定しているアフガニスタンのいくつものイメージが、この映画から得られることです。
土や空の色、山や平地の風景、人びとの顔、衣服の形や色、ことばの響き、人間関係のあり方、ターリバーンが運営する神学校の様子――それらが示されます。
いままでは、「テロリスト」「タリバン」「オサマ・ビンラディン」「オマール師」が「アフガニスタン」の代名詞であるという、異常な事態でした。選択多様な情報が溢れているように見えて、実はそうではなかったのです。
アフガニスタンの人びとの顔が見えるということは、とくに重要なことだと思います。「9・11」悲劇の死者は、具体的な顔と名前と職業と家族・友人・知人を有する人間として報道されます。
悲劇は、それによって、いっそうの悲劇として人びとによって感じとられる。しかし、アフガニスタンで、米英軍の爆撃で死んでゆく非戦闘員やターリバーン兵は、名前も持たない、顔もない。
家族・友人などは、あろうはずはない。こんな一方的で、非対称的な報道が、情報操作的に行なわれているなかに、映画『ターリバーン』が登場すること自体に、ひとつの大きな意味があります。映画の内容的な意味合いは、観た人それぞれの心のなかで深められることになるでしょう。
さて、この映画は2001年初頭に完成しました。その直後の3月、「伝統や文化の価値を認めない、野蛮なターリバーンの愚行」として世界的に報じられたバーミヤンの仏像の破壊行為が起こります。
私も、このときの一面的な報道のあり方には疑問をもち、小さな文章を書きました。要するに、偶像崇拝を禁止していることを理由に仏像を破壊するのは愚かなことには違いないが、それが、アフガニスタンのターリバーンだからこそ行ない得た野蛮な行為だとするのは、違う。
勝利することに最大価値がおかれる戦争においては、文化財とは下位の価値しか持たない。「敵」の文化表現であれば、これを破壊することが、それを貶めるうえでも価値のあることになる。
バーミヤンの仏像破壊に驚愕してみせている欧米諸国が、自らの植民地支配の過程で行ない、いまも悔い改めていない他民族の文化財の破壊・掠奪行為と共通の次元で今回の仏像破壊を捉えるべきだとする考えを、私はそこで述べました(それは、http://www.shohyo.co.jp/gendai/20-21/2001/daibutu.htmlで読むことができます)。
マフマルバフさんも、仏像の破壊行為それ自体よりも、いままでアフガニスタンの飢餓にも飢饉にも旱魃にも無関心だった世界世論が、仏像の破壊に驚いて、反ターリバーンの声をすぐ挙げたという選択的な行為にこそ違和感をおぼえ、次のようなタイトルの文章を書きました。
「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」です。これも、長くはない文章そのもののを皆さんが読まれることを期待して、中途半端な引用を避けます。
マフマルバフさんは、アフガニスタンの隣国で、大きな国であるイランの人です。その意味では、私たちと同じように、アフガニスタンの外部の人間です。
しかし、彼はこの文章で、単なる情報の伝達でもない、メディアの報道でもない、いわば苦しむ人間に寄り添い、少しでも内在的に問題を抉り出すことに力を注いでいます。その感性のあり方が、人の心をうつ文章になったのだと思います。
最後に繰り返し述べます。マフマルバフさんの映像と文章のいずれも、まるごと受け入れる必要は、もちろん、ありません。批判点も疑問点もあるのは当たり前のことです。
ただ、この一面的な情報があふれている世界で、もしこのふたつの表現に出会うことがなかったならば、私たちがいる世界は、思想的にはるかに貧しい状況におかれていたことでしょう。たとえ少数派であっても、ひとりの人間が確信する考えを他者に伝えることの意味は、ここに生まれます。
米国主導の愚かな「報復」戦争に、世界のどの国の首脳よりもいち早く全面的な同意を示し、軍事行動を支援する自衛隊の派遣にまで踏み込む首相をもつ私たちは、自分がおかれている位置を上のように捉えることが大事だと思います。
ニルファー・パズィラさんが来られました。彼女に発言の席を譲ります。
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