九州に行く機会を捉えて、長いこと行きたいと思っていた名護屋城址を訪ねた。
佐賀県鎮西町にある。(「西を鎮める」というこの剥き出しの名称は、古来九州全体の異称とされてきたとはいえ、司馬遼太郎の『街道をゆく11:肥前の諸街道』によれば、この町名は町村合併によって1956年に新たに名づけられたという)。
福岡から西に向かって車で一時間ほど、佐賀県は唐津湾に至るあたり、海岸線は複雑に入り組んで、大小の入江が多い。
玄海の沖には島々も見える。中国からの人びとを乗せた密航船を手引きする者にとっては、格好の入港地となるものらしい。
事実、唐津港には今年釣り人によって「偶然に」見つかった密航船が海上保安庁の管理下「立ち入り禁止」の札を付けて、係留されていた。
そこを過ぎて東松浦半島を北へ向かい、イカ漁で有名な呼子市外で、ひときわ内陸に食い込んだ入江に架かる橋を越えると、そこが鎮西町である。この町の、標高90メートルの小高い丘の上に名護屋城址はある。
天守台跡に立って北西を見ると、玄界灘が広がる。晴れた日には見えるという壱岐までは海路40Km、壱岐から対馬までが48Km、対馬から朝鮮半島までは60kmという位置にある。「天下統一」を果たした翌年の1591年、豊臣秀吉は名護屋城の築城令を発した。
「明国征服」の軍事拠点とするためである。
全域17万平方メートルに及ぶ、当時としては大阪城に次ぐ規模の城郭は、肥後の小西行長と加藤清正、豊前の黒田長政らの大名を監督として、わずか5ヵ月間で基本部分が築城された。
いまに残るのは所々の石垣のみだが、その規模から見ても、驚くべきスピードである。
労働力の動員、採石・運搬・石切・石積み・鍛冶などの技術、財政負担ーーどれをとっても、統一された「天下」を挙げて侵略へと向かうときのエネルギーのすさまじさが実感される。
1592年(文禄元年、コロンブスのアメリカ大陸到着の百年後!)ここから16万の兵力が朝鮮に侵略する。天守台から見下ろす鎮西の町の随所には、全国から召集された120 もの大名の陣屋ができており、予備軍16万がなお待機していたと言われている。
1597年(慶長 2年)、秀吉は14万の兵力を再度朝鮮へ送る。そして、二度にわたるこの侵略戦争がどんな結果となったかを、的確な視点で明かしているのが、城址のそばに立つ佐賀県立名護屋城博物館である。
1993年に開館したこの博物館の展示方法は、ふたつの国にまたがる歴史問題に関わる展示として、見るべき到達点を示していると思える。
それは秀吉の2度におよぶ挙兵を明確に侵略戦争と位置づけ、侵略兵がどのような行為を朝鮮で行なったか、それがどんな災厄を朝鮮民衆のうえにもたらしたかをはっきりと語っているからである。
どんな資料に基づいて、何を語り継ぐべきかということについて、企画者に迷いはなく、明快である。
現在の日本列島と朝鮮半島が陸続きであった時代以来の交流史も的確に示し、秀吉の時代を経て江戸時代になってからの朝鮮通信使が果たした役割や、対馬藩の朱子学者・雨森芳州(「州」の字にサンズイを加えてください)が唱えた「誠信外交」の説明もなされているから、これらの穏やかな交流関係史の時代に挟まれた秀吉の時代の戦争が、いかに異常なものであったかが浮かび上がる。
日朝首脳会談以降の2ヵ月半もの間、北朝鮮による「拉致」問題をめぐって、異論を許さないかのような、異常な雰囲気が醸成されている只中に、ここを訪れただけに、こころが落ち着くものを感じた。
展示方法に関わる仕事は、県民の支持を背景に学芸員が行なったにせよ、県立博物館である以上は知事(自民党)の強靭な意志も大きくはたらいたと地元の人から聞いた。
中央では容易にはできないことも、地域レベルでは可能になるということの、ひとつの証左であると思われる。
年度ごとの特別展示では「日韓交流の窓:釜山・ 山・慶尚南道 歴史と風土の旅」(2000年)、「海洋文化のクロスロード:済州道の歴史と風土」(2002年)などが開かれてきている。
図録でしか見ていないが、楽しい。日韓の間での学芸員の相互交流も行なわれているようだ。いずれ北朝鮮の研究者もここに加わる時代もくるだろう。繰り返して言うが、地域での自律・自立的な越境する試みが、国家レベルの不能性を突破していることが示唆するところは大きい。
この旅では、福岡県飯塚市にも行った。朝鮮半島との歩みを描く「歴史回廊」が先月末に完成したと、産経新聞のウエッブサイトで見たからだ。市郊外の霊園の一角にそれはあった。
2000年12月、そこには在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼建立実行委員会の手によって、強制連行され無縁仏となった人びとの遺骨を納める「無窮花堂」が建立されていた。
今回はそのまわりの壁面に、日本と朝鮮の関わりを描いた18枚の伊万里焼の陶磁パネルが取り付けられたのだ。
私が好きな、大陸側から日本列島を望む地図も、そこにはあった。無窮花堂建立まで7年、歴史回廊落慶までにさらに2年ーー地元の人びとによる地道な試みは、歴史認識の深化に貢献するだろう。
同じころ、北の北海道からも、見逃すわけにはいかないニュースが届いた。
戦前、戦中に強制連行された朝鮮人と見られる多数の遺骨と名簿が西本願寺札幌別院で見つかったというものである。
名簿には 101人の氏名・死亡月日が書かれている。だが遺骨は、保管の途中で他人の遺骨と一緒にする「合葬」にされ、誰の遺骨か不明になっているという。
合葬が1997年まで行なわれていたことが、大きな波紋を呼んでいる。
「北朝鮮の拉致被害者の遺骨や墓地に対する非人道的な扱いに対し、非難が噴出している」が、「わが身も正さなければならない」と北海道新聞社説は言う(11月24日付)。
「北朝鮮との交渉で説得力を持つためにも、札幌別院や朝鮮人労働者の徴用先だった企業はもとより、政府も誠心誠意、身元の確認や遺骨の返還に努力する必要がある」「これ以上、戦後補償問題を放置していては日本人の人権意識が問われる」。
いまなら何を言っても許されると考えてふるまう、拉致被害者「救う会」「議連」「家族会」の世論操作を突き崩す力は、ここに触れたような動きのなかに、確実に存在している。
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