政府の方針とマスメディアが行なっている報道の主流に対して、世の中のあちらこちらで、ちょっと違うんじゃないだろうかという声が、密やかにではあれ、私語(ルビ:ささや)かれている。北朝鮮による「拉致」問題をめぐって、である。
大事件の時は、多かれ少なかれそのようなことになるが、今回ほどそれが感じられることはなかった。
疑問や批判の声がメディア上では密やかなものでしかないということは、ひとつの立場からの報道のみがあふれでていて、異論を許さない雰囲気がつくられていることを意味する。
「拉致」それ自体は論外である。北朝鮮の民衆を長いこと恐怖支配の下に押さえつけてきた金王朝世襲体制ならば、対外的にもどんなことでもやるだろうと私は考えてきたが、予想が当たっておぼえるのは哀しみでしかない。
全体として見れば、北朝鮮指導部に対する革新派の態度はきわめて無批判的であり、あるいはあいまいだった。金体制とどう向き合い、どう捉えてきたか、何を語ってきたかは、私たちが検証すべき重要な論点である。
日本が植民地支配に対する謝罪も補償も行なっていないのに、「北」を批判することはできないと考える人もいる。
金世襲体制に北朝鮮民衆を代表させることはないと私は考える。
国家権力をもつものは、いつでも、どこでも、「国家」の名において平気で犯罪を犯す。植民地支配・強制連行・侵略戦争・効率的な殺人兵器の開発と使用と販売・死刑、そして拉致。枚挙にいとまがない。
その意味では、「国家」を肯定するどのような思想も、いま起きているこの現実を、未来を向かって変えてゆく力を持たない。
私たちがいま、この社会の雰囲気に異様なものを感じるのは、北朝鮮批判がそのまま日本社会の肯定・美化につながっているからである。
善悪や美醜が、それほどはっきりと分け隔てられるものではないことを日常生活で知っているからこそ感じている違和感を手放したくない。
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