出版の世界で仕事をしていても、ある本が百万部も売れるということがどういうことなのか、実感としては少しも理解できない。
現在の人口からすれば、百数十人にひとりが買う計算になるのだから、その現実感のなさは無理からぬことだと思える。現実感がないというよりも、その集中度が恐ろしくも思える。最近でいえば、『世界がもし100人の村だ ったら』(マガジンハウス刊)がその種のベストセラーになっている。
電子民話(ネット・フォークロア)と呼ばれているこの「お話」は、世界の人口を実際の63億人から、仮に100人に縮小してみたら、地域人口構成比、男女比率、各宗教の信者数、富の偏在などが どんな数字となって「化けるか」を物語る。
どの数字も2桁か1桁となって、現実感覚がある。想像力が及ぶ範囲、のようにも思える。「わかりやすい」こと、このうえない。
ところで、『月刊オルタ』2002年3月号(アジア太平洋資料センター刊)にも書いたが 、この「わかりやすさ」は、何かを犠牲にして成り立っていると私は思う。
全体を100に 設定したら、コンマ以下限りなく零が続くような少数民族や小国、総じて少数派が切り捨てられることは、誰にも見えやすいことだ。
問題を数値比例の単純化にのみ還元しては、構造を見えなくするという批判も、当然にも成り立つ。物事を単純化することによって見えてくるものがあることは否定できないが、解決すべき物事は常に複雑怪奇な構造をもつことを忘れるわけにはいかない。
野暮な批判かなと思いつつも、この本があまりに「感動の物語」として伝播していくさまを見ると、自分を取り巻く社会全体の問題として、いくらかは制御をかけたくなる。
「わかりやすさ」を尊ぶ傾向は、この社会に充満している。鈴木宗男なる男をめぐってこの一ヵ月以上ものあいだ繰り広げられている騒ぎを見て、つくづくそう思う。
鈴木をめぐって次々と明らかになっている事態は、たしかに異常だ。鈴木のふるまい・言動も、外務省を筆頭とする関係省庁の官僚たちの、鈴木に対する態度も。自ら認めるごとく「古いタイプの政治家」である鈴木は、戦後自民党のなかでも最も典型的な地元利益誘導型の人間としてふるまった。
だが、彼の「明敏さ」は、それだけに終わらなかったことだ。政治的な最高指導部やエリート官僚によって日本外交の基軸と見做されている対米外交はおろか、二次的に重要な対欧州・対アジア外交にも入り込むだけの「エリート性」も「人望」も自分には欠けていると見た鈴木は、ソ連体制崩壊で価値観が揺らぐロシアと、国連加盟国数が多く、日本からのODA(政府開発援助)予算もかなり見込まれるアフリカ諸国へ個人的に食い込む道を選んだ。
前者は、北方諸島問題で地元=北海道、とりわけ道東地域住民の利害と密接に絡み合って、選挙民の気持ちをひきつけることができる。後者は、国連安保理常任理事国入りをめざす票獲得運動に効果が大きく、外務省エリート官僚の気を牽く。もちろん、いずれも、動き方によっては、政治家個人および「援助」活動に参画する企業の経済的利益の問題ともからんでくる。
その過程で鈴木が何を言い、どうふるまったかが、いま大きな問題とされている。それは、ほとんどスキャンダルにひとしい内容だ。人物としても、どこか滑稽で、面相もふくめて悪役にふさわしい。
他人のスキャンダルは、その不幸と同じく、「蜜の味がする」。テレビ・新聞・週刊誌が、おもしろおかしく、これを叩く。野党書記長は「疑惑のデパート、疑惑の総合百貨店=鈴木宗男」と、声を張り上げる。
ああ、またか、と私は思う。いつの頃からだろう、野党も、マスメディアも、そしてひどいときには私たちもまた、政府・自民党を政策論争で追い詰めるのではなく、個々の有力政治家のスキャンダルを追及することに明け暮れるようになったのは。
政治不信・経済不況など現実的な根拠をもって人びとの心に鬱積している不満は、この「絵に描いたような」悪役追及の過程で、わずかなりとも解き放たれる。カタルシスが得られるのだ。解放感は「わずかなりとも」と書いたが、報道の誇大性によって、それは万事が解決したかのように現象する。
たしかに、スキャンダルは「わかりやすい」。場合によっては、それを追及することも必要だろう。だが、政策論争を放棄してのスキャンダル追及の陰で、根本的な事態が人知れず進行してゆく。そもそも、今回の問題の出発点には、「アフガニスタン復興支援国際会議」への参加を予定していたNGO(非政府組織)が外務省によって出席を拒否されたということがあった。
鈴木はその措置に関わっているという報道が、この異常に興奮したニュース展開にまで至っている。アフガニスタンの廃墟を作り出している勢力が、自らの戦争責任を棚上げにして「復興」を語ることの欺瞞性それ自体は、問われることもない。
会議が「成功裏に」終わって一カ月半のいま、米英軍がアフガニスタン、カナダ、フランス、ドイツ、デンマーク、オーストラリア、ノールウェイなどの軍隊などと共に、なおアフガニスタン爆撃と地上作戦を続行していることが、あの「復興支援」とどう関係しているのかを問うこともない。
アラビア海に展開する自衛艦五隻が、米軍の戦闘艦や補給艦に給油を行なって三ヵ月を経たことの意味が、現実に行われている爆撃との関係で問われることもない。その間に来日した米国大統領が展開した「反テロ」「日米同盟の強化」「悪の枢軸」論などに対して、日本の首相が少しの異論も唱えず実質的に承認したことの重大性も不問に付されている。
スキャンダル騒ぎという宴の後に出来上がっている、恐るべき政治・社会の光景を思う。
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