アラブ政治の研究者で、アラブ・欧米の双方のメディアに寄稿するというマームーン・ファンディーの議論を教えてくれたのは、アジア経済研究所研究員で、イスラーム政治思想史を専攻する池内恵の「アラブを読む:拒絶と反駁の中に埋もれる自己批判」という文章である(『論座』 9月号)。
ファンディーは、「 9・11」直後に、「しかし、と言う勿れ」というコラムを執筆し、「テロはいけない」と言いながらも必ずそのあとに「しかし……」と続け、米国に責任を転嫁するきらいのある(と、ファンディーが判断する)アラブ世界において主流をなす論調を戒めたという。
だが、その種の論議はアラブ世界に溢れ、ファンディーはやがて「ビン・ラーキン団」と題するコラムを書いたらしい。
「テロは悪い」と言いつつ「しかし(ラーキン)」を連発するアラブ知識人を、「ビン・ラーディン」(「ラーディン家の子息」の意)をもじって「ビン・ラーキン団」と形容して、痛烈に風刺したのだという。「〈しかし〉一族の子息たち」とでも言うのだろうか。
池内は、そこで、アラブ世界は自らが抱える苦難を常にイスラエルと米国など外部勢力の責任に帰して自分を「犠牲者」として捉えてきたが、 9・11事件でアラブ世界の一勢力が「加害者」となり、その対処を外部から求められるに至ったときにどう対応しているかを問題としている。
外部への責任転嫁論と陰謀説が罷り通るなかで、共感をもってアラブ世界を研究しているらしい池内が一条の光を見いだしているのが、ファンディーのような自己批評的な言説である。
池内は先に『現代アラブの社会思想:終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書、2002年 1月)を刊行している。知識人の思想書から、街角のキオスクで売られている際物出版物、テレビ番組からヒットソングに至るまでの言説を渉猟し、現代アラブ世界の時代精神を切り取ろうとしたと自負するこの書で、池内が強調するのも、アラブ世界が知的に極端な閉塞状況にあり、世界認識の視座が狭隘化しているという点である。
その例証として1996年に「シオニズムの宗教的論拠を否定し、ホロコーストの存在を疑問視し、ユダヤ・ロビーによるフランス政治への影響を問題にした」著作を発表した元フランス共産党員ロジェ・ガロディ(日本語版は『偽イスラエル政治神話』、れんが書房新社、1998)が熱狂的にアラブ世界で受け入れられていく状況を、実際の見聞に基づいて描く導入部は興味深い。
すべては「イスラームと反イスラームの戦い」として解釈され、「イスラエルとそれに支配された米国の陰謀の発見とそれへの対抗」への関心が異様に突出しているという、現代アラブ世界の思想状況の一端を伝えているからである。
私は、十年前のペルシャ湾岸戦争の際に、秘密警察の手で独裁体制を確立し、クルド民族の闘争を残忍な方法で弾圧し、対イラン戦争で民衆に多大な犠牲を強いた独裁者=イラクのフセインが「横暴きわまりない米国と対決しているという、ただそれだけのことで、被抑圧者たちの英雄であるかのように自ら振る舞い、寄る辺なきアラブ民衆はその彼に、はかない希望を託している」愚劣な構図に触れたことがある(「ガッサン・カナファーニーに戻って:湾岸戦争への一視点」「インパクション」68号)。
たまたまPFLP(パレスチナ人民解放戦線)の情勢分析を読んで、すべてを知り尽くしているはずのPFLPがその構図をぼかし、明快な形でフセイン批判を行なわず、米国との矛盾を主要課題にしてしか語ろうとしないことが、アラブ・パレスチナの闘争主体が本来もち得る力を殺ぐのではないかという思いが、そこにはあった。
「 9・11」以降の状況においても、私自身には、同じような思いがある。そこにはほんとうは無視できない/無視すべきではない「環境要因」があるのだが、米国やイスラエルの役割については、あえて触れず、ビン・ラーディンなる人物が形成された過程にも、ターリバーン政権やアル・カーイダ組織の成立過程にも目を瞑るとする。
そのとき、アラブ世界は、 9・11攻撃を行なう青年たちを生み出した背景、歓待と友愛の精神に欠ける非寛容なイスラーム原理主義の台頭を前にしたアラブ社会の無力性……など、内在的に抉り出さなければならない多数の問題に直面している自らに出会うはずなのだ。
それらを直截に議論することが、アラブ・パレスチナ社会の転生のためには必要不可欠なことだと思える。日本社会の中で、解決が容易ではない多くの問題に直面している私は、アラブ世界の思想状況を指して「〈しかし〉一族の子息たち」などと揶揄的に呼ぶ場所に自分をおくつもりはないが、池内や(池内が紹介しているかぎりで知る)ファンディーの主張には聞くべき点が多いと考えるのは、こうして、「敵」と対峙するいま/ここにある「主体」のあり方の問題に関わっているからである。
池内の文章が掲載されている「論座」には、「日本で徹底討論する:戦争の効力とテロ抑制の道順」と題する大澤真幸と橋爪大三郎の対談もある。橋爪は、このかん、米国の対アフガニスタン戦争を徹底して擁護する言動を展開してきた。
ここでも次のように語っている。「この作戦は、アフガニスタンの人民を攻撃しているわけではない。あくまでもタリバーン政権を目標にし、軍事目標に限定して、制服の軍人が攻撃を行っている。
そして周辺諸国や同盟国が反対しないように、支持を取りつける手続きを踏んでいる」。「国際法としてテロに対抗して戦争を起こしていいという先例になったわけですから、その意味では成功ですね。
日本にとっては、外国が日本にテロ攻撃を仕掛けたら自衛戦争で対抗していいというコロラリー(推論系列)が得られた。セキュリティーのために、よかったんじゃないですか」。新刊の『この先の日本国へ』(勁草書房)においても橋爪は、上で触れた「環境要因」をすべて挙げたうえで、自覚的に米国主導の戦争を支持している。若いころ自分はマルクス主義者であった、などと思わせぶりに回顧しながら。
核兵器も含めた対テロ「先制攻撃」の可能性を公言する米国国防総省報告や、国費で生活が保障されている国立大学教授・橋爪の恥知らずな言動を見聞きすると、この文章で書いたことと矛盾することには、「われは知る、テロリストの かなしき、かなしき心を」と謳った啄木の真意が、心情的にはこころに沁みてきてしまう。
そこを踏み止まり、アラブ世界でも、米国社会でも、日本社会でも、それぞれの社会に生きる者が、自己批評・自己批判を基軸に、自己中心主義に陥らない道を探らなければならないことが明らかなのだが、それにしても、現代世界を制圧している欧米中心主義の傲慢な力を目前にすると、そう並列して自己責任を問うことに躊躇の気持ちが残ることは、隠しようのない事実ではある。
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