一九九九年に、奇妙な論争があった。「奇妙」というのは、論争の中身に関してではない。論争がたどった過程のことだ。
花崎皋平が、みすず書房の月刊誌「みすず」の同年五月号、六月号に『「脱植民地化」と「共生」の課題』上・下を発表した。この論文は、加藤典洋が『敗戦後論』において行なった戦争責任・戦後責任を再考する視点を批判的に捉えたうえで、その責任を担うべき主体のあり方を、「脱植民地化」固有の課題の清算に正面から向き合ってこなかったと(花崎が言う)自らの課題と結びつけようという意欲的なものだった。
五月号の「上」においては、戦後過程初期において、自らが侵略と植民地支配についての歴史認識をいかに欠いていたかを検証するために、朝鮮戦争期の日記の一部がわざわざ公開されていた。
公表を前提としないで書かれた若書きの自分の日記をあえて他人の目に晒すという花崎の方法の意味が理解できず(はっきり言えば、論理より情緒への傾きをそこに読み取り)、見てはいけないものを見てしまったという「後ろめたさ」を、読者である私は感じた。
深刻な問題は六月号の「下」にあった。そこで花崎は、戦争責任と植民地支配責任の問題に関わる、徐京植の他者批判の方法について触れ、それがコミュニケーション・モードのあり方として一方的な他者糾弾型であり、対話の可能性を閉じるものだと批判した。
花崎が発言している場所は、私にとって決して縁遠いものではない。ささやかなものであるとしても、私もまた花崎と同じく、アイヌ、在日朝鮮人・中国人など異民族・少数民族との関係において、歴史的に支配民族側に属する私(たち)は自己変革の立場で考え行動すべきであるとする場所に、自らをおいてきた。
そして、いまとなっては一六年も前の一九八六年に、私は「運動の論理の中で相まみえるために」という小さな文章を書いた。
それは、他民族に対する抑圧と差別の歴史への無自覚さにおいて日本人は救いがたいという批判の正しさを一定認めつつ、そのような批判が行なわれるときに言葉も発することのないままに黙り込むことを止めたが、それは、状況や運動の中で人間は可変的であり、抑圧者と非抑圧者を固定的に捉える発想ではダメだから、とする内容のものだった。末尾には、その課題の困難さをあらためて自覚する言葉をおいた。
困難な課題だが、「糾弾」を前に口を閉ざすことはやめようと決意したのだ。それは、社会運動の現場での経験に基づく、私なりに切実な問題だった。その思いは、いまも変っていない。その限りで、花崎が本当に言いたいことは私の了解の範囲にあった。
だが、徐京植の発言に差し挟みたいとする花崎の異見は、戦後日本国家の性格規定の問題にせよ、有限である個人の責任を問う論理の問題にせよ、私が日頃から知る花崎の論理的な詰めを欠いていた。
前者では、自己責任解除の論理に帰結する考え方が表明されていた。後者では、厳しい批判の言葉を前にした加害者側の受け止め方を、数少ない例で示したうえで、それに基づいて徐批判を展開していた。
花崎が引用する徐の激しい日本人批判の言葉は、私の理解で言えば、所与の社会にある少数派が多数派に対して行なう必然的な批判方法としての切迫感をもつものだった。
一九五〇年代後半の時代状況の中で吉本隆明が行なった文学者の戦争責任追求の方法や、一九九〇年代の思想・社会状況の中で金静美が公然化した日本社会に普遍的な歴史意識に対する批判の方法が、どんなに厳しい言葉に満ちていたにしても、それをも契機に問題の本質を考え抜く人びとが(批判された側にも、論議に注目した読者の側にも)輩出したように、一般的に言っても、批判的(花崎が言う糾弾的)な言葉の激しさが対話の可能性を常に断ち切るわけではない。
コミュニケーション・モードなる言葉は相互浸透的に理解されるべきもので、一方の、他方に対する物言いだけが対象となるものではない。
しかも徐の発言は、党派的組織を背景にしてはおらず、個の責任においてなされている。
どう考えても、花崎が規定する糾弾型も対話型も、コミュニケーションの方法と
しては等価であるとしか言えない。
花崎の批判に対して徐京植は「みすず」同年九月号に「あなたはどの場所に座っているのか?:花崎皋平氏への抗弁」と題する反論を寄せた。
花崎の論理展開に大きな疑問を抱いていた私は、徐の反批判にほぼ同感しつつ、しかし私自身が熱心な読者であるふたりの間に生じている亀裂は、自分に無縁なものとは思わないこと、存在論的には私は徐ではなく花崎がいる場所に位置していることを最低限の拠り所にすべきことを考えていた。
そして(私もそのひとりであった)読者の側からすれば、深刻な問題性を孕む、この重要な論争は、当然にも同じ雑誌の上で続けられるだろうと考えた。
だが、いっこうにその動きはなかった。ふたりが、双方の限られた関係者を交えて討論をしているということを、風の便りで何度か聞いた。
公の雑誌で始まった論議が、限られた人の輪の中でそのような内向する形態をとっているらしいことに、私は違和感をおぼえた。
こうして二年半あまり経った二〇〇二年三月、花崎は『〈共生〉への触発:脱植民地・多文化・倫理』と題する論文集を出版した。版元は、問題の雑誌の出版社、みすず書房であった。
それには、上に触れた初出の文章は収録されず、徐の批判を部分的に受け入れ、全面的に改稿したという論文が収められた。同じ月、徐京植も『半難民の位置から:戦後責任論争と在日朝鮮人』を出版した(影書房)。
徐の花崎批判の文章は、初出のままの形で(ただし、論争の経過に関する、徐京植の位置からの説明と、花崎による徐批判の主要な論点が引用の形で付け加えられて)収められた。
二年半の経過のなかで水面下に潜行していた論争は、ふたたび人目に触れるものとなった。
私がこれから指摘することは、すでに中野敏男が「自己反省的主体の隘路:花崎皋平と徐京植との「論争」をめぐって」(『現代思想』二〇〇二年六月号)において、基本的に同意できる(という以上の、私には気がつかなかった視点も含めた、示唆的な)分析視角で提起している。屋上屋を重ねることになるが、私なりの言葉遣いで行なってみる。
花崎は、徐の問いかけに逐一答えるのではなく、徐の批判の意味を受け止めたうえで「苦い思いを味わいつつ」書き改め、「読者という公衆の前に意見を提供して、相違点について公共に判断を仰ぐことにしたい」という方法を選んだ。
「お詫び」や「撤回」という表現が何度か出てくる。しかし、論争の過程で生まれた文章に即して応答するのではなく、相手からの批判のうち認めるべき点のみを取り入れて、きっかけとなった自分の文章を書き直すという方法は、問答の決定的なすれ違いを生み出しているように思える。
しかも、花崎は、お詫びや撤回をした後で、問いかける徐の思想的立場を知るために調べ直したという、他の著書における徐の発言まで取り出して、徐の問いかけに孕まれていると花崎が判断している問題性を衝く。
それは「二〇世紀の社会主義・共産主義運動、近くは一九七〇年代以後の新左翼運動の総括とかかわる」論点だと花崎は言う。
徐の言葉である「反帝国主義闘争と脱植民地化を推し進め、第三世界人の全面的な尊厳の確立と人間的解放を実現する」という考え方を、花崎は「『戦争と革命』の理論がもたらした惨禍をふたたびくり返さない運動の総括に立った思想による方向づけが必要だ」とする立場から見つめ直す。
「反帝国主義、反植民地主義闘争の大義に立脚する立場」と「正義の主張を教義化する思想方法とはつながりやすい」という結論が導かれ、それはそのまま徐に対する新たな批判となるという論理構造である。
続けて、花崎自身が経験した共産党や新左翼運動の負の体験が語られ、異論をもつ者を背教者と決めつけた風潮、査問、除籍、唯一の正しい答えを担う者による非同調者への攻撃、血の清算を主張する者による爆弾闘争や内ゲバへの突入――などへと例証は及ぶのだが、いったいどこまでが徐の具体的な発言であり、そのどこをめがけて花崎が問題提起しているのかが見えなくなるのである。
花崎はまた、その前段でこうも言う。徐の問いかけには「あらかじめ一つの正しい答えが予定されている」以上、「問題はコミュニケーション・モードではなく思想方法にある」と。こうして、当初設定されたはずの問題には解答が与えられないままに、次々と問題設定の乗り移りが行なわれる。
くり返すが、私は花崎の問題意識から遠い場所にいるのではない。対抗暴力が孕んでいた問題を自覚するところから、ゲバラに象徴されるゲリラ闘争や「革命的暴力」一般の問題についての私なりのふりかえりは始まっているから、花崎のいる場所に近いとすら言える。
だが、花崎が引用している箇所で、徐がそのようなふりかえり方をしていないのは、そこで主要に論じるべきことが別のことがらであったからだろう。
花崎が徐の主張をかなり強引とも言える形で自分の文脈に引きずり込み、その地点から批判することはお門違いでしかない。したがって、問答は成立しない。
真に必要とされる場所を違えて論議は進むのだから、かえって対立はねじれ、深刻化する。
私が一九八六年に書いた「運動の論理の中で相まみえるために」は隙だらけの、不十分な文章であった、と今にして思う。
批判すべき相手の名指しをしない、一般論であったから、花崎の文章との違いは際立っているが、仮に当時ひとりの「徐京植」がいて、もし今回花崎に対してなされたような批判の言葉が私に突きつけられたとしたら、私はどう応答できただろうか。
ありうべき花崎=徐論争は、その程度には私自身にとっても切実な意味合いをもっている。
他にも触れるべき点が多いふたりの新著であるにもかかわらず、結局この論争にのみこだわってこの文章を終えるのは、そのためである。
|