著者が一九九七年からごく最近に至る間に発表した著述をまとめた論文集である。
表題に見られるように、著者は在日朝鮮人を「半難民」と規定する。それは比喩的なものではない。
植民地支配に始まり、その後の状況の変化にもかかわらず現在まで続く日本政府の政策が在日朝鮮人に強制している法的地位を捉えて、歴史的に導かれているものだ。この自己規定の苦さが、まず読者の胸に迫る。
副題がいう「戦後責任論争と在日朝鮮人」が示すところも明快だ。日本国を被告として、従軍「慰安婦」に対する謝罪と補償を求める訴訟が被害者自身の手によって起こされて以降、日本社会はどう反応しているか。
「自由主義史観」派は責任そのものを拒絶しているとして、加藤典洋『敗戦後論』はアジアの被害者の訴えと日本右派の反攻との板挟みとなった中間勢力が自己正当化する論理だとして、著者の徹底的な批判の対象となる。
著者が訝るのは、「日本人としての責任」を問われる時に、心ある人びとすらが、この問いはナショナリズムへの服属だとして疑念や反論をしばしば提起することだ。
国民(主権者)であることによって生じる政治的責任が問われている時に、国家ないし民族への帰属意識を観念的に否定しても意味をなさない。
「日本国民であること」がどれほど特権的なものであるかに無自覚な日本人多数派の所論に、著者の苛立ちは深い。評者も思わずわが身をふりかえる。
著者の論じ方は「糾弾」型で、対話の可能性を閉ざすと批判した花崎皋平に反論した文章もある。
花崎の徐批判に深い違和感を覚えてきた評者は、著者の反論に同感する。だが、著者は、日本の近現代史を貫いて形成されてきた、多数派たる日本人と少数派との間の断絶を、花崎の立論の根に見ている。
他人事だと済ますわけにはいかないと、ここでもわが身をふりかえる。
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