現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2002年の発言

◆イラク空爆の緊張が高まるなかで
キューバ危機に見る教訓
2002/12/28up


◆日朝会談以降を考える声特集
異論を許さない雰囲気に違和感
2002/12/28up


◆拉致被害者を「救う会」の悪扇動に抗する道は
名護屋城址・飯塚市歴史回廊を見る
2002/12/28up


◆あふれ出る「日本人の物語」の陰で、誰が、どのように排除されてゆくのか・「拉致」問題の深層
2002/12/26up

◆ふたたび「拉致」問題をめぐって
問題を追い続けた3人のインタビューを読む
2002/11/13up


◆「拉致」と「植民地」問題の間には……
産経式報道の洪水と、社会運動圏の沈黙の根拠を読む
2002/10/17up


◆「拉致」問題の深層
民族としての「朝鮮」が問題なのではない「国家」の本質が顕になったのだ
2002/10/17up

◆一年後の「九月一一日」と「テロ」
太田昌国氏に聞く
2002/9/28up


◆選ばれたる者の、倨傲と怯えの中に佇む米国
「 9・11」一周年報道を読む
2002/9/28up


◆書評 徐京植著『半難民の位置から:戦後責任論争と在日朝鮮人』
花崎皋平著『<共生>への触発:脱植民地・多文化・倫理をめぐって』 
2002/8/30up


◆外部への責任転嫁論と陰謀説の罷り通る中で
アラブ社会の自己批判の必要性を主張する文章を読む
2002/8/30up


◆「9・11」以後のアメリカについて
2002/8/4up


◆2002年上半期読書アンケート
「図書新聞」2002年8月3日号掲載 2002/8/4up


◆「老い」と「悪態」と「脳天気」
作家の、錯覚に満ちたサッカー論を読む  2002/8/4up


◆戦争行為をめぐるゴリラと人間の間
今年前半の考古学的発見報道などを読む
2002/7/12up


◆煽り報道の熱狂と、垣間見える世界の未来像の狭間で
ワールドカップ騒ぎの中の自分を読む
2002/6/15up


◆国境を越えてあふれでる膨大な人びとの群れ
「イスラエルの中国人の死」「瀋陽総領事館事件」を読む
2002/5/30up


◆書評:徐京植著『半難民の位置から』(影書房 2002年4月刊)
2002/5/30up


◆スキャンダル暴きに明け暮れて、すべて世はこともなし
鈴木宗男報道を再度読む
2002/4/15up


◆テロルーー「不気味な」アジテーションの根拠と無根拠

◆2001年12月25日、アジア女性資料センター主催
『カンダハール』主演女優ニルファー・パズイラさんを迎えての集いでの挨拶


◆スキャンダル騒ぎ=「宴の後」の恐ろしい光景

◆書評『世界がもし100人の村だったら』 池田香代子再話 ダグラス・ラミス対訳

◆人びとのこころに内面化する戦争=暴力・少年たちの路上生活者暴行・殺害事件報道を読む

◆他者の痛みの部所を突く、慢り高ぶる者の最低の悪意
「カンダハール発→グアンタナモ行」輸送機が孕む問題を読む


◆微かな希望の証し・2001年におけるマフマルバフの映像とテクスト

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あふれ出る「日本人の物語」の陰で、誰が、どのように排除されてゆくのか
「拉致」問題の深層       
「インパクション」第133号(2002年11月刊)
太田昌国


 私は、九月一七日の朝日首脳会談から三週間後、それに関わるふたつの小さな文章を書いた。

ひとつは、「『拉致』問題の深層:民族としての朝鮮が問題なのではない、『国家』の本質が顕わになったのだ」(第X期・反天皇制運動連絡会機関誌「PUNCH!」二四号、二〇〇二年一〇月)、ふたつ目は「『拉致』と『植民地支配』の間には……産経式報道の洪水と、社会運動の沈黙の根拠を読む」(派兵チェック編集委員会「派兵CHECK]第一二一号、二〇〇二年一〇月)である。

 そこで私が重視したのは、言葉を少し補って言うが、次の二点だった。

 (一)日本人「拉致」事件を含めて金日成=金正日体制が内外でなしてきたことの真実が明らかになれば、世界が凍りつくような事態になることは、今までに積み重ねられてきた資料・証言に基づけば明らかであった。

だが、日本の左翼・進歩派・市民派言論の大多数は、北朝鮮の抑圧体制が孕む深刻な問題性を見て見ぬふりをしてきた。

日韓民衆連帯・日朝国交回復・戦後補償・在日朝鮮人の権利獲得などの活動分野で、朝鮮と日本の関係を歴史的に総括し、未来に向けた新たな関係を築こうとしてきた私たち総体が、(北朝鮮指導部の専制を批判してきた者も含めて)今回そのツケを支払わなければならないことになるだろう。


 (二)同時に、双方の国家犯罪を相殺するという意味合いにおいてではなく、日本が朝鮮を植民地支配した時代の強制連行という名の「拉致」その他の行為に関して今日に至る五七年間ものあいだ謝罪し賠償する誠意も示さず、国交正常化に向けての努力すら怠ってきた現状のままで、「国家」を挙げて、マスメディア報道を挙げて、「拉致」問題に関する北朝鮮の責任をのみをいうことは、歴史的な正当性を欠いている。

ふたつの問題は別個のものであり、個別に責任が追求されてしかるべき事態であるが、双方が、自分が攻めの立場に立ち得る一個の問題のみを特化することは、両国関係のヨリ良い関係に寄与しないだろう。

 以下、このふたつの問題に関わるいくつかの視点から、いま少し詳しく私の考えを述べてみる。

ただし、上のふたつの文章は、一〇月一五日以前、つまり「拉致」されて二四年間を北朝鮮で暮らしていた五人の生存者が帰国する直前に書かれた。

いまこの文章を書いているのは一一月上旬であり、この三週間のあいだ、この国には五人の帰国者をめぐって「日本人の物語」があふれている。最後には、新たな問題として、このことにも触れなければならないだろう。


                 (一)


 在日朝鮮人・関貴星が書いた『楽園の夢破れて』と題する本が、古本屋の店頭に山となって積まれていたのは一九六二年〜六三年のことである。

そのころ私は、高校時代までの自分を呪縛していた対「ソ連=社会主義」幻想から抜け出て、思想態度としては「反スターリン主義」的左派の立場を確立しようとしていた時期だった。

だから、新興社会主義国=北朝鮮指導部の、スターリニスト的体質を暴露しているらしいその本には、すぐとびついて読んだ。

「八・一五朝鮮解放十五周年慶祝訪朝日朝協会使節団」メンバーとして、わずか三週間足らずしか北朝鮮に滞在しなかった関貴星は、喧伝されていた「地上の楽園=朝鮮民主主義人民共和国」への夢がその短期間に無惨に破れ、裏切られたという思いをかかえて打ちのめされてゆく。

著者のその心情が、荒削りのまま書き著わされている、憤怒の書であった。


 その初版本はすでに私の手元を離れて久しいが、一九九七年に亜紀書房から復刻された版本を読み返しながら、この本の意味を考えてみる。

在日朝鮮人の北朝鮮への帰国運動が開始されて数年しか経たない、四〇年前に発行されたこの本ですでに、その後さまざまな書物を通して解き明かされることになる北朝鮮の基本構造はほぼ触れられていると思える。

つまり、まず著者たちを迎えるのは、解放十五周年式典なのだが、金日成の演説に加えて目を奪うのは二時間にわたって繰り広げられる、例の「パレード」である。だが著者が感動するのはここまでで、翌日からの三週間というもの、彼は混乱・懊悩・自己嫌悪に苛まれる。

著者たちは当然にも、先に帰国している友人・知人との面会を希望するが、「職場が変わった」「どこにいるかわからない」などとかわされて、許されない。

ホテルに監禁状態にされたまま、ピョンヤンの街を自由に歩くこともできない。出かけようとすると、工作員に引き戻される。

ホテルに訪ねてくる知人は、工作員に追い返される。招待客である自分たちには、毎食豪華な酒食のもてなしがなされるのに、垣間見えたホテルの従業員の食事は驚くほど粗末だった。


 まれに見かける民衆の生活ぶりにも、著者は胸塞がれる思いをする。荷車に積まれた松丸太にくい下がって、素手で丸太の皮を剥ぐ腰の曲がった老婆を見かける。燃料不足なのだろう。

頭には荷物を、背中には赤ん坊を背負った身なりの貧しそうな女が、炎天の街路をアカシアの折れ枝を引きずって歩く。これも燃料にするのだろう。


 ただ単に「貧しさ」をいうのなら、私が物心ついた時代の敗戦直後=一九五〇年代の日本社会にも、日常的に目に入る貧しさの光景はあった。

時代的にさして違いのない、しかも植民地支配からの解放後一五年、朝鮮戦争停戦から七年後の一九六〇年の北朝鮮で、至るところに貧しさを実感させる光景があっても奇異なことではない。

著者はただ、北朝鮮式「社会主義」建設をめぐって聞かされてきた大仰な宣伝と、偽りのない現実とのあまりの落差を敏感に感じとり、あえて触れずにはおられなかったのだろう。

この記述は、一九六〇年に書かれていようと、二〇〇二年に書かれていようと、何の不思議もないところが痛ましく思える。


 さて、同じ訪朝団メンバーには、評論家・寺尾五郎、群馬地評議長・田辺誠の名が見える。

晩年、安藤昌益研究に打ち込むことになる寺尾は、日朝協会本部常任理事として一九五八年にはじめて北朝鮮を訪ね、『三八度線の北』(一九五九年、新日本出版社)という見聞記をすでに書いていた。

これは、いま読み返してみて、読者も赤面せずにはいられない、北朝鮮賛美一色の本である。

消費物資の質量などをめぐって、日本の爛熟ぶりを批判的に捉え、北朝鮮の清貧さを際立たせてその精神的な優位性をいうなどというありきたりの方法は、そうそう説得的なものとして展開できるものではない。

しかも、北朝鮮の現在の精神的な優位性は、ちかい将来物質面でも日本を凌駕するだろうという結論が控えているのだから、何を基準にして比較するのかという方法論自体を寺尾は欠いていることになる。

在日朝鮮人をはじめ多くの読者を得ることになる本だけに、幻想を駆り立てたことの罪は深い。

寺尾は、関貴星と同行した二度目の旅行に際しても『朝鮮 その北と南』(一九六一年、新日本出版社)を書いている。

関の『楽園の夢破れて』が刊行される直前のことである。関は在日朝鮮人であり、寺尾は日本人であるという位置のちがいはあるが、ほぼ同じ体験をしたのだろうと考えると、ふたつの書の落差は大きい。

関が書くところによれば、国内旅行の列車の中で寺尾は帰国者の三人の青年に取り囲まれ、あなたの本を信頼して帰国したのに、北朝鮮の実情はあなたが書いたのとは全然反対だ、だまされて一生を棒に振ったぼくらのことをどうしてくれる、と責め寄られたという。

寺尾の報告書でもこのことには触れているが、帰国者の中で愚連隊になった者たちに因縁をつけられたとの描写になっており、寺尾はついに問題の所在に気づくことはなかった、あるいは気づかぬふりをしたようである。


 もうひとりの訪問団員・田辺誠は、三〇年後の一九九〇年九月、社会党副委員長として自民党の金丸信と共に北朝鮮を訪問し、金日成とも会見して、いわゆる三党宣言(自由民主党、日本社会党、朝鮮労働党)を発表する人物のひとりとなる(その「意味」については、いずれ準備する予定の別稿で触れたい)。


 関貴星と寺尾の本にいささか詳しく触れたのは、一九六〇年前後という早い時期に北朝鮮を訪問し、見聞記を著わしたふたりの著書の対照的な意味をふりかえるため、である。

帰還運動開始直後に書かれた関貴星の本が左翼・進歩派によってもっと真剣に読まれ、ソ連におけるスターリン批判直後に出された寺尾の本がもっと厳しく読まれて批判の対象とされたならば、私たち総体の北朝鮮認識の出発点は、ずいぶんと異なったものになり得ただろう。

だが、「反共」出版物には見向きもしないという頑な態度は、昔も今も変わらず左翼・進歩派の大多数を縛る、つまらぬ規範である。その裏側には、現実としての社会主義体制に対する無批判的な礼賛姿勢か、資本主義体制に比較するなら相対的にましではないかという先験的な了解と、自己の立場の絶対的な正義性に関わる優越感が貼りついていて、容易には剥がれない。

 「反スターリン主義」の立場から北朝鮮のことを知らなくてはならないと考えた私は、それからもしばらくの間は、関連する本を読み続けた。

朝鮮民主主義人民共和国科学院歴史研究所が編纂した『朝鮮近代革命運動史』(一九六四年、新日本出版社)や『金日成著作集 一〜六巻』(一九七〇〜七二年、未来社)などが記憶に残っているが、それらを貫く叙述の非歴史性・非論理性・非科学性などには大きな驚きを感じた。

金日成らがどんなに社会主義者を自称しようとも、問題の本質は「社会主義」とも「革命」とも無縁なのではないか、「反スターリン主義」の立場からの北朝鮮指導部批判は無効であり、アジア的専制主義の一形態として考えるほかないのではないかというのが、私が当時さしあたって行き着いた結論だった。

 私自身はこうして北朝鮮への関心をしばらくのあいだ実質的に失った。再び甦るのは一九八〇年代に入ってからである。七〇年代から八〇年代にかけて、韓国では在日朝鮮人留学生などが北朝鮮のスパイだったとして逮捕される事件が頻発した。

現大統領・金大中が野党指導者だったころには、韓国中央情報部(KCIA)によって東京から拉致され、ソウルに連行されて監禁状態におかれるという事件も起こった。日本でも作品が知られている詩人・文学者が、その反政府的な言動・作品によって逮捕されるという事件も相次いだ。八〇年には忘れることのできない光州民衆蜂起も起こった。

日本では、それらの民衆運動への弾圧に抗議し、被逮捕者に連帯し救援しようとする活動が活発に行なわれた。その抗議・連帯・救援の論理に共感をもった私は、デモ・集会・抗議署名などの活動の末端に参加していた。

 八〇年代なかばになった頃からだったろうか、ふたつの疑問が私の心に浮かび始めた。それらの運動でつねに語られるのは「韓国軍事政権の暗黒支配」である。もちろん、異論はない。

だが、何かが足りない。私自身が「軍事政権」「暗黒」「弾圧」などのキーワードで、すべてがわかったという気持ちになっている。ところで、韓国社会は、その常套句だけでは捉えきれない変貌を遂げているのではないか。

それを実感するためには、八〇年代初頭に来日したときに会ったことのある作家・黄皙暎の作品が、私の場合は導きの糸となった。一九七二年に書かれた「駱駝の目玉」(中上健次編、安宇植訳『韓国現代短篇小説』所収、新潮社、一九八五年)では、彼はベトナムからの韓国帰還兵の精神的・肉体的傷痕を描いている。

戦場における勇猛な戦いで名を馳せ「ひと儲けした」帰還兵たちは、帰りついた祖国で深刻な疎外感に苛まれる。

ベトナム民衆の戦いは、韓国が民族統一を追求するうえで参照すべき、弱小民族の自主的な解放闘争であることを知りながら、派遣兵は「最強の人殺し軍団」ともてはやされながらベトナム民衆を殺戮した。そのことを祖国の人びとは薄々知っており、そのような視線を感じて帰還兵の心もまた疼くのである。

韓国軍のベトナム派兵を一九七二年の段階でこのような視点で描く成熟ぶりに、私は驚いた。軍事独裁政権下で、そのような意識が公然化し、それが表現されるはずもないという先入観に囚われていたからである。


 黄皙暎はまた、一九八八年にも注目すべき短篇を書く。「熱愛」(岩波書店『世界』一九八八年八月号掲載)である。

韓国が日本市場をも席捲する東アジア新興工業経済圏のトップランナーとして疾駆しはじめたころ、「軍事政権の本質を継承したままの」新体制下の韓国の人びとのなかには、「物質的には豊かになったが、しだいに愛を失って生きているいわゆる新中産階級」が確固として誕生しつつあったことが描かれていた。これが、歴代の軍事政権下に生まれてきていた、ひとつの生活実態なのか!

 いずれも、私たちが縛られてきた固定的な観念では捉えきれない新しい現象である。当時の韓国を分析する際の視点であった「開発独裁」の「独裁」の側面でのみ私(たち)は捉えていたが、「開発」が韓国社会にもたらしている変貌の大きさを無視することはできないことに、遅れ馳せながら気づいたのだ。

 それはまた同時に、私にとっては北朝鮮への関心が甦ってくることを意味した。(韓国民主化闘争に連帯しようとする)私たちのなかでの、韓国への関心の熱烈さと、北朝鮮への関心の薄さは、なんなのだろう? 私はしばらく関心を失っていた北朝鮮に関する本を探してみた。一九八〇年以降の一〇年間で、重要なもののみ挙げると、次のような基本書が発行されていた。


 林誠宏『裏切られた革命:金日成主義批判序説』(創世記、一九八〇年)
 林隠『北朝鮮王朝成立秘史:金日成正伝』(自由社、一九八二年)
 金元祚『凍土の共和国:北朝鮮幻滅紀行』(亜紀書房、一九八四年)
 崔銀姫+申相玉『闇からの谺:北朝鮮の内幕』(池田書店、一九八八年)
 李佑泓『どん底の共和国:北朝鮮不作の構造』(亜紀書房、一九八九年)
 李佑泓『暗愚の共和国:北朝鮮工業の奇怪』(亜紀書房、一九九〇年)
 張明秀『裏切られた楽土』(講談社、一九九一年)……というように。


 それぞれの書についてどこまで信じるかは別として、これらの書からは、『楽園の夢破れて』同様、とうてい無視できない北朝鮮の現実が見えてきた。


 この歳月の間には、一九八三年一〇月のラングーン事件、一九八七年一一月の大韓航空機爆破事件が起こっている。ラングーン事件の北朝鮮犯行説には当初は半信半疑だった私も、次第に状況証拠が明らかになってきて、韓国側のいうとおりなのだろうと思うようになった。

大韓航空機爆破事件は、逮捕された金賢姫の自白どおりに、金正日の指令に基づく事件だろうと最初から確信し、私は公表する文章でもそのように書き始めた[金賢姫の詳しい告白は、その後『いま、女として:金賢姫全告白』上・下(文芸春秋、一九九一年)としてまとめられた]。


 金賢姫は自分の日本語教師「李恩恵」が日本人であって、散歩中の日本の海岸から拉致されて北朝鮮に来た、と語っていたとも明らかにした。

その頃、国会や一部のメディアで問題にされ始めた日本人「拉致」事件についても、すべてがそうかは不明にしても、一部は北朝鮮工作員が行なったことなのだろうと私は思った。


 北朝鮮指導部はいまだに、自分たちの社会が独自の自主思想に基づく「社会主義」の国だと言い張っていたが、先に触れたように私はそれが「社会主義」とも「革命」とも縁も所縁もない体制だとは思った。世襲が公言されている以上、王制ではないか。

天皇制なる醜悪なるシステムを廃絶できないでいる社会に住む私は、そう考えていた。

だが、仮に、北朝鮮の金日成=金正日の世襲体制が、一貫してそれを擁護していた井上周八や関寛治や鎌倉孝夫のいうように、「反帝・自主と社会主義を懸命に追求する」ものだと、無理にでも、仮定してみよう。

革命を通して理想主義的な社会を展望している運動主体にしても、自己確信の強いあまり対立セクト・メンバーを「拉致」し「監禁」し「暴行・拷問」を加え、時に死に至らしめるなどということは、私(たち)が生きてきた同時代の新左翼運動の中でも、無念にも、頻繁なくらい行なわれてきた現実であった。

こうして、革命や社会主義をめざす運動は、稚いころいだく憧憬(ロマンティシズム)をもってしては、耐えがたいまでの実態を伴っていた(いる)という試練に、ひとは直面する。

帝政ロシア期のネチャーエフ事件やドストエフスキーが『悪霊』で描いた世界が、自分たちのまえに現前するのだ。

井上・関・鎌倉たちの世代であれば、ソ連でも中国でもカンボジアでも日本でも、その種の、恐ろしくも哀しく、腹立たしい歴史的実例があったことを数多く学ぶこともできただろう。

北朝鮮指導部の専制体制の中に、そのような現実を透視できず、一定程度信頼しうる証言が出揃った段階でなお、爆破は北朝鮮の犯行ではない、「拉致」はしていないとして、終始一貫擁護してきたその姿勢は、驚くべきことだと言わなければならない。

金日成=金正日体制の路線上のツケを、それに無批判的に追従した井上らのツケを、そして私たちもまた、それらの愚かな言動を徹底的に批判し尽くすことができなかったツケを、これから支払うことになるのである。

 あえて付け加えるなら、私は、過剰な自己確信・自己正当化の意識を〈組織的に〉共有する場所を選ばず、無権力の・ひとりの無党派であろうと決めた、決して少なくはない同時代の人間たちのひとりだ。

その場所からはすべてを適確に見渡すことができ、出処進退をまちがうこともなく、有効な政治的・社会的活動が可能だなどと言えるはずはないのだが、資本主義体制であれ社会主義を標榜する体制であれ、国家権力の恣意性・横暴・非道に自らが同伴することを拒否し、むしろそれを監視し抑止しうる立場のひとつだとは考えている。

「拉致」を選びとった金正日らの自己絶対化の極致というベき行為と、金正日らがなす言動に対する一部日本人左翼・進歩派・市民派の無批判的な同伴性には、〈党派性〉の病がもっとも無惨な形で現われているように思える。


                  (二)


 「九月一七日」の直後から、冒頭に触れた(二)にちかい立場は、マスメディアに登場した数は決して多いとはいえないが、さまざまに表明されてきた。それらの主張をいくつか見聞きしながら、その主張を説得的に展開するのは、けっこう難しいものだという感じを受けた。



 今回の「拉致」問題は、この社会においては、次のような基本構造をもっている。

幾人もの日本人の拉致が北朝鮮によって行なわれたものであると早くから断定し、被害者家族と共に、出版、署名運動、マスメディアや日本・米国両政府への働きかけなどを通して問題の社会化に努めてきた主力は、メディアとしての産経グループや「文春」「新潮」の週刊誌、小学館の「SAPIO」と文庫書籍、そしてそれらを舞台として大量に執筆活動を展開した現代コリア研究所のメンバーである。

これらの人びとは多くの場合、この一〇年間で急速に様変わりを遂げている日本社会の動き│「危機管理」体制の強化、自衛隊の海外派兵、有事立法制定、九条を軸とした憲法の改訂、新しい歴史教科書づくり│などの積極的な推進者である。

 他方、(いささか大まかな括り方になるが)当初は「拉致」報道に消極的で、いくらか事態が明示化された段階でもそれが北朝鮮によるものであることを否定し、もしくは疑問を提示し、あるいは断定を避けて及び腰ないし曖昧な態度に終始して、結果的に事実の解明にほぼ有効な働きができなかったのは、まずは朝日・NHKなどの大メディアである[この事実が、これら二メディアの焦りを導き、「拉致」の事実が一定明らかになった段階以降は、すべてのメディアが、過剰で一方的な横並び報道を行なう結果となっている]。

加えて、岩波「世界」、旧社会党としての社民党、共産党、市民派、左翼諸派などであり、これらは(大メディアとしての朝日・NHKを除いて)上に触れた日本社会の様変わりに異議を唱えてきている。


 「拉致」事件の事実の解明と責任追求に関する限り、前者が正しく、後者が間違っていた、あるいは不十分であったこと。それが、誰の目にも明らかな、今日の基本的構図である。

このことは、「拉致」事件に限られることなく、すべての問題にまで及んで、この社会を根底から変える力を発揮するかもしれない。もちろん、それは、私(たち)が好ましいとは思わない方向へ、である。私(たち)は、待ち受ける課題がどんなに困難でも、ここが私(たち)の出発点だと覚悟するしか、ない。

 問題は重層的である。金正日は「拉致」事件について謝罪し、責任者を処罰したと語った。

曰く「数十年の敵対関係があるが、誠に忌まわしい。七〇〜八〇年代初めまで、特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走ってこういうことを行なった。特殊機関で日本語の学習ができるようにするためと、日本人の身分を利用して南に入るためだと思う」と。

白々しい言い草だ。先に挙げた『闇からの谺』と題する手記を残した韓国女優・崔銀姫が香港で拉致され、北朝鮮に連行されたのは一九七八年一月で、それは前年末一一月の横田めぐみ失踪と、李恩恵のことだと推定されている田口八重子失踪(七八年五月)との間に挟まれた時期である。

香港沖から崔銀姫を乗せた快速艇が北朝鮮・南浦港の桟橋に着いたとき、出迎えた男は「ようこそ、よくいらっしゃいました。崔先生、わたしが金正日です」と語りかけ手を差し伸べたと、崔銀姫は嫌悪感も顕わに手記に書き残している。

写真も残っているこの「出迎え」のエピソードは、当時次々と行なわれていた北朝鮮特務機関による拉致作戦の中枢にいた人物が誰かを物語っていよう。

金日成の神格化が行なわれる一九六〇年代後半以降、世襲的継承者=金正日が占めてきた政治的な地位からいっても、一連の「拉致」事件を決定し指示しうる人物は、金正日以外にいなかったことは自明のことだと思われる。

金正日の「謝罪のことば」は、まるで「玉音放送」後の天皇裕仁のように、自己の主導の下で/自己の名において行なわれた重大な犯罪に関していくつかの逃げ道を用意しながら、たち現われたヨリ強大な相手との談合で自己の延命を図ろうというのが、その真意なのだろう。

 金正日を絶対的な権力者とする一握りの北朝鮮指導部の卑劣な犯罪の本質を思えば、私たちは、この間よく見聞きする「拉致を許すことはできない。しかし、同時に日本は植民地支配のことを忘れてはならない」という文脈でものごとを語ってはいけないだろう、と私には思える。この「しかし」は、意味内容的に逆接の役割を果たすことができない。

「拉致」は、北朝鮮二〇〇〇万民衆の与り知らぬ地点で、金正日専制体制が実行した。

その体制を支えているのも民衆である、とはありうる厳しい評価だが、金日成=金正日の鉄壁の独裁体制は、反抗と抵抗のすべての可能性を恐怖支配によって未然に摘み取ってきたのであろう。

実際、民衆はかくまで無力なのか、と嘆息せざるを得ないほど、独裁権力が思うがままに力を揮う現実は、世界史のいずれかの時期に、地球上の何処かの地域に点在している。

北朝鮮の場合、二〇〇二年の今日に至る五〇年余ものあいだ、そのような体制が持続してきたのである。私たちは、「大きくない出来事を口実に」とか「不正常な関係にある中で生じた」などという表現で「拉致」問題の軽量化を図ろうとする金正日が、南北朝鮮民衆総体の中に紛れ込んで逃亡することを許すべきではない。

上の表現は、数千万人の朝鮮人に対する植民地支配を引き合いに出すことで、自らの犯罪を隠蔽して金正日らが逃亡することを助ける役割を果たしかねない。

 そう考える私は、在日朝鮮人が表明しているいくつかの見解に違和感をもつ。詩人・金時鐘は「(金総書記の発言に)暗澹たる思いだ。同じ民族として本当に恥ずかしい」「(強制連行のことで、北朝鮮にも言い分があるだろうと考えていたが)もう言える筋合いではなくなった。帳消ししてあまりある。戦前の日本と朝鮮半島の関係に、まず日本人が謙虚になってほしいという思いも吹っ飛んだ」と述べている(毎日新聞二〇〇二年九月一八日付け朝刊)。

歴史家・姜在彦も同じ紙面で「かつて朝鮮総連で活動した者として、また血を分けた同族として、本当に恥ずかしく思う」と語る。真摯な思いなのだろう。また金正日の「拉致」認知発言に対して、直接の「拉致」被害者や家族だけに留まることのない、日本社会全体の反応を考えての発言なのだろう。

真意がわかるだけに、深い哀しみをもって私はそれらの言葉を読む。この過剰で、濃密な民族主義はなんなのだろう? 

民族を相対化したところでの発想はできないものだろうか。金時鐘の発想の根には、おそらく、「「拉致」をしたという北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国への非難だけは為にする中傷として、大いに反発もし否定もしてきた私だった」(産経新聞二〇〇二年一〇月四日付け)という悔いがあるのだろう。

 或る特定の民族であるがゆえに、「拉致」をなしたり、なさなかったりするのではない。

どの「民族」であるにせよ、それが形成する社会の、或る特定の時代の支配体制の下で、「拉致」「虐殺」「侵略戦争」「植民地支配」「死刑」などの国家犯罪が「国家」の名においてなされるのだ。

金日成=金正日体制は、過剰な民族主義を煽りたて、それを十二分に利用することで、あの鉄の独裁体制を確立しえたのではないかとうたがう私は、そう思う。

「日本民族である限りそんなことをするはずがない」という発想をどんな場合もまったく持たない私には、その書を愛読してきた詩人と歴史家に、そう問いかけたい気持ちが残る。


 また『獄中一九年』の著者・徐勝は「「拉致」の事実を認め公式に謝罪した金正日総書記の「率直」さにも驚かされた。かつて民族全体が最大の被害を被り、「謝罪」を受けるべき日本に対して、「謝罪」を表明した屈辱と無念はいかほどであっただろうか。全く想像を絶する「率直」さである」と書く(「「率直」と「譲歩」を和解と平和のバネに」「世界」二〇〇二年一一月号掲載)。


 ここでもまた、「民族」が過剰な論理のように思える。金正日の謝罪発言が、仮に個人的には「屈辱」と「無念」な思いを込めてなされたものであるとしても、彼は自らが責任をとるほかはない政治的・経済的・軍事的・社会的・倫理的な失敗と愚行の果てに、これを乗り切るためにはいまこの発言が必要だと打算して、それを行なったのである。

従来強硬に主張してきた植民地支配に関わる賠償請求権を放棄して「無償資金協力」や「低金利の長期借款供与」などの「経済協力」を受けるに甘んじるという「譲歩」を行なえば、たとえ「拉致」を告白しても、日本との外交交渉は成立するだろうと金正日は読んだのである。

金正日の冷静な計算だと捉えるべきところを、「屈辱」「無念」と表現するのは、「民族的」情念が過多ではないだろうか。

徐勝の捉え方にあっては、「拉致」に関わる金正日の責任の問題と、「植民地支配」に関わって「謝罪」を受けるべき朝鮮民族全体の問題が、錯綜して持ち出されているように思える。

ふたつのことがらが、互換あるいは相殺が可能かもしれないという主張に聞こえるような論理的な隙を、私たちは見せるべきではないだろう。

出すぎたことかもしれないが、あえて踏み込んで言えば、現在の北朝鮮の指導者に「(朝鮮)民族全体」が体現されているかのような言動を、少なくとも私たち日本社会に位置する者は避けなければならないだろう。私はそう思う。


 さて、最後に、冒頭に述べた、あふれ出る「日本人の物語」に触れよう。

この問題の重層的な複雑さは、先に触れたように、「拉致」事件をめぐって、北朝鮮指導部および日本政府・諸政党やマスメディアの対応の責任を問うてもっとも発言し活動してきたのが、「産経」「文春」「小学館」メディアとそこを主要な表現の場として活用してきた人びとであり、彼らは、近代日本の植民地支配と侵略戦争の責任を否定し、被害者の戦後補償要求に敵対してきた人びとであることに現われている。

私は「産経」紙や「正論」や「諸君!」などの粗雑誌を「愛読」して一〇数年経つので、これらの新聞・雑誌の表現スタイルにはかなり慣れているほうだと思うが、「拉致」問題を特集している連日の産経紙や雑誌の最新一二月号は、さすが、いつにもましてテンションが高い。彼らは「勝利」したのだから、意気軒昂である。


 たとえば、言う。(類似の言動が多いので、逐一出典は示さないが)「拉致と植民地支配問題は相殺されない」「拉致は平時の国家犯罪、植民地支配は合法的な協定の問題」「強制連行があったとしても、それは当時の法律に基づく労働上の徴用であり、他国の主権を正面から侵害し他国民を恣意的に頭から袋をかぶせて拉致するのとは全く異なる話」「(植民地支配という)歴史的問題と、平時にもかかわらず現在進行中のテロを並列させるのは見当違い」「台湾、朝鮮の出身者は当時は日本人だった。

悪法といえども法である。日本国民として、彼らも徴用令に背けなかった」「植民地支配はもう五十年前に終わっている」……などというように。

比較するな、同列視するな、と言いつつ、中西輝政なる国立大学教授のように「日本統治下における北朝鮮の住民の方が、現在の金正日体制下よりはるかに幸せな暮らしをしていたということです。

少なくとも餓死しないだけの食糧がありました。平壌宣言では『過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えた』と書いていますが、『多大の損害と苦痛を与えた』のは、日本ではなく金日成・金正日政権の方です」などと、(情けないまでに)非歴史的かつ非論理的な比較をして〈圧政〉の優劣を民族主義的に競う者すら出ている(「諸君!」一二月号、西村真悟との対談「目醒めよ、日本! 金正日の罠」)。


 ごまかされてはいけない。「拉致」と「植民地支配」の違いを言うのが、問題の本質ではない。並びたてて、優劣を競うようなことではない。これらふたつの国家犯罪は、それぞれの固有の場で、裁かれなければならない。


 だが、「それぞれの固有の場で」といっても、ふたつの問題のリアリティの差は歴然として、ある。「拉致」被害者の家族の苦悩と悲しみと怒りが、九月一七日から一〇月一五日まで集中的に私たちの耳目に焼き付けられる。

一〇月一五日以降は、直接的な被害者の、日に日にニュアンスを変えていく表情と言葉が、その人自身を通して、あるいは親・兄・妹などの解釈を通して、伝えられていく。

私(たち)は、その「体験」の重さを前に言葉もなく、ただただその表情と言葉を記憶にとどめる。他方、「植民地支配」は、被害者の表情も心も日々伝えられることのない、歴史的な過去だ。

痕跡は直接的な形で、また間接的な形で姿をとどめているが、ひとがそれと気づくことは稀だ。すでにこの世を去ったひとも多い。そして、いつものように、加害者は忘れやすい。あるいは忘れたがる。「五十年前に終わっている」ことだ、と言葉の暴力で封印されてゆく。


 情報量の差は圧倒的だ。


 親子の対面、故郷への帰還、親戚一同の歓迎会、クラス会、恩師との対面、卒業証書授与、婚姻届け、免許証復活、懐かしの温泉行……ひそやかに、私的な形で行なわれることには何の不思議もない、誰も異論を唱えることもありえない、微笑ましくさえあることがらが、日々マスメディアのカメラとマイクを前に披露されて、ひとつの社会的な空気が作り上げられていく。

本人の意志に基づいて、もっとひっそりと、時間をかけて……とひとは思うのがふつうだろうが、その声は聞こえない。被害者本人の意志とは離れた地点で、何かの力が動いている、とひとは感じとる。

自分たちこそ、この問題の解決に力を尽くし、一定の成果を挙げたと思う人びとが、現在の社会的・政治的雰囲気を利用して、蠢いている。

目に見えぬ圧力か雰囲気を感じて、マスコミはそれを言えない、あるいは言わないのだ。

異論を許さぬ、この不自由な空気。帰国者五人はこのまま日本に滞在し、「真実」を知らないままに北朝鮮に残っている子どもたちや米国人の夫を、いきなり呼び寄せるほうがいいという政府方針も、突然のように、どこかでお膳立てされる。いまなら何を言っても構わない、許されると思う人びと。この雰囲気では、ちょっと言えないな、と黙りこくる人びと。

こうして、政府の外交方針は揺らぎ、ぐらつき、他方すべては「日本人の物語」として完結していくのが最高の幸せなのだ、とする雰囲気づくりは着々とすすんでゆく……。


 あふれ出る「日本人の物語」の陰で、誰が、どのように排除されてゆくのか。

 私たちの現実批判は、ここに視点を定めて、さらに深く掘り進めなければならない。
            (文中、すべての敬称を省略しました)



[太田昌国(おおたまさくに)一九四三年生まれ。第三世界研究。著書に『鏡の中の帝国』『千の日と夜の記憶』『〈異世界・同時代〉乱反射』『ペルー人質事件」解読のための21章』『日本ナショナリズム解体新書』『「ゲバラを脱神話化する」』(以上現代企画室)などがある。]

 
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