2001年、モフセン・マフマルバフはふたつのアフガニスタン論を発表した。ひとつは映画で、ひとつはテクストで。これらは、米英軍によるアフガニスタン攻撃という、思いがけない現実の出来事のなかで、特別な意味を帯びることになった。
『カンダハール』という映画では、ターリバーン政権下の現代アフガニスタンを描き、社会習俗・衣裳・登場人物の会話などを通して、この社会の歴史的奥行きにも触れている。
「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という文章では、ターリバーン政権によるバーミヤンの仏像の破壊という2001年の出来事を独自の視点で解釈して、アフガニスタンの社会構造と歴史過程の全体像を簡潔に示している。
映画とテクストというふたつの表現方法は見事なまでに一体化し、目前に展開するアフガニスタンの悲劇を解読する一方法を、世界中の人びとに提供した。
マフマルバフは、アフガニスタンの人びとを苦しめている内戦・飢餓・餓死・旱魃などの現実に、世界が無知であり無関心を決め込んでいること、そしてこの現実を前にした隣人である自分もまたなすすべもなく無力であることに、同時代人としての苦悩を感じている。
私たちも、苦しみのなかにあるアフガニスタンの人びとの頭上に、人を殺傷するという意味において精巧をきわめた爆弾が大量に落とされるという現実を前に、やはり無力感に苛まれながら、その映画とテクストを参照している。
私は、この間マスメディアの中で流された対照的な映像を思い出す。ターリバーン政権の崩壊後に、アフガニスタンの要衝には米英軍兵士が地上展開している。重装備したその姿は「文明」そのもののように見える。他方、敗残兵としてのターリバーン兵はボロボロの衣服をまとい表情もやつれていて、伝統的に描かれてきた「野蛮」の姿に酷似している。
ターリバーン部隊の壊走が始まると、残存兵と最高指導者が潜んでいるかもしれない洞窟の捜査状況が報道される。「捕捉」「捕獲」「殺す」「殺戮」「生きていても死んでいても捕える」などという言葉が、当たり前の顔つきでニュース報道のなかで使われる。
目標の洞窟入り口までコンピューターで誘導され、奥深く内部に入った段階で爆発し、効果的に人を殺すという新型気化爆弾の高性能ぶりが、こともなげに報道される。
これは、「9・11」事件直後に開発が手懸けられた兵器だという。確かに痛ましい悲劇である「9・11ニューヨーク」事件は「野蛮な」イスラーム原理主義者によって引き起こされたが、それに「報復」するために開発される兵器は、「文明」の粋を集めているという価値観が、そこにはある。
21世紀初頭の現代に、「文明」と「野蛮」がここまで対照的に描きだされる映像と言葉を見聞きするとは、予想だにしなかった。
米国のふるまいと言葉遣いの傲慢さを見ていると、二百数十年に及ぶ米国建国史に刻まれてきたいくつもの歴史的な出来事を思い出す。先住民族インディアンに対する征服戦争、カリフォルニア、テキサスなどのメキシコ領土の戦争による取得、フィリピン、プエルトリコなどの植民地化、ハワイの併合――これらの膨張政策は、19世紀半ばからこの国で唱えられている「神によって与えられたこの大陸にわれわれが拡大するという明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」なる精神的な基盤の上に成立している。
この天命を実現できるのは、世界各地に派遣している軍事力によって、である。
米国が自信に満ちているのは、経済的な繁栄は軍事力を行使してでも獲得すべきだとする物質主義にも、ほかの国が持たない天命をわれわれは授かっているとする精神主義にも、何の迷いもないからである。
これは、他の地域の人間からすれば、迷惑この上ない「使命感」なのだが、政治・経済・軍事・社会・文化的影響力など、どの面でも圧倒的な力を有して世界に君臨する超大国は、自らの実際の姿を映しだす鏡を持たない。
米国社会の人びとが、他者の悲しみや痛みを理解するような次元へと、転生を遂げること。「9・11ニューヨーク」は、別な名称をもって世界各地の各時代に存在すること、それには米国の対外政策が大きく関与していることを知ること。
そうなるまでには、まだ長い時間が必要なのだろう。だが、待ってはいられない。
人それぞれが、独自の方法で、自分と無数の他者が共いる世界の来し方・現在・未来をふりかえる表現を見いださなければならない。
想像してみるといい。 9月11日のニューヨークでの出来事を報じる過剰なまでの情報のなかに、マフマルバフのこのふたつの表現が介入しなかった場合を。私たちは、内容的にきわめて一方的で、貧しい情報によりいっそう取り囲まれて、身動きがとれなくなっていたかもしれない。
もしこの世界が破滅に行き着くことなく永らえることができたとして、後世の人びとは、マフマルバフの映像とテクストを通して、2001年という危機の時代の本質を捉えることができるだろう。それは、微かな希望の証しなのだ。
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