社会時評を連載している「派兵チェック」で、柄にもなく、ワールドカップに触れた。
「サポーター」なる、この世でもっとも不快な連中に対する嫌悪感から、私はサッカーについては食わず嫌いだったのだが、サッカーの世界的普及の過程に孕まれるドラマ、ナショナル・チーム選手の脱「ネイション」状況、第三世界における大衆的なサッカー人気の背景ーーなどには無視できないものがあるという思いもあって、ワールドカップが始まったことを機にいくつかのゲームを見てみると、なかなかに面白い。
スポーツ・イベントに対する原則的な批判と、ゲームそのものの否定すべくもない面白さの狭間で、私はしばらく右往左往するかもしれないという趣旨の、我ながらはなはだ腰の定まらぬ文章であった。
すぐに匿名の読者から手紙が舞い込み、どこぞのスポーツ紙誌にでも載せる程度の、精神の弛緩した文章であるとの批判を受けた。
私はその批判を甘受し、いっそのこと「ナンバー」でも何でもいいがどこぞのスポーツ紙誌から、高い稿料の原稿依頼でもこないかななどと、起こり得ぬことを夢想して鶴首していたら、何あろう本誌編集部が「文学界」八月号の特集「作家・文学者のみたワールドカップ」を論評せよ、という。
あてが外れたこと、かくまでか、と思うような顛末だが、仕方がない、高い稿料を受け取るどころか九〇〇円もの身銭をきって、久しぶりに「文学界」を買い求めた。(うーむ、どうも「表現」の弛緩状況は、私の内面において続き、なお進化ないし深化しているようだ)。
目次を見て真っ先に目についたのは、特集そのものではなく、「嘘は如何にして大きくなるか」と題する金石範の評論だった。気になってすぐ読み始めると、先年「世界」誌上で行なわれた、韓国籍取得問題や軍事政権下の韓国への秘密旅行問題をめぐる金石範/李恢成論争の続きである。
金石範にしてみれば、思いがけない場所で再開された李による金批判に驚いて、論争再開へと至ったものらしい。
読者の側からすれば、心を寄せてきたふたりの文学者が、こんな水準で悪罵を投げつけ合うものか、と思うほどに、先年の論争は読むに堪えぬ、後味の悪いものだった。
それが同じ水準で再開されていることを知って、心が重くなる。晩年を迎えたと言ってもいいこのふたりの作家からは、聞いておきたい別なテーマと表現があるはずだと読者のほうが思ってみても、ご本人たちはけっこうまじめにこの「論争」に賭けているらしい。このすれ違いが哀しい。
そういえば、晩年の埴谷雄高も、吉本隆明との間で「コム・デ・ギャルソン」論争を行なったが、あの吉本批判の論理水準も、埴谷のものとは思えぬものだった、などとの思い出も浮かぶ。
さて「サッカー特集」である。読んでみたが、割りと脳天気な作家たちの文章が続く。
なかでも、いくつになったか知らぬが、庄野潤三の文章の幼さには絶句する。「日本サッカーはよくやった。私たちは日本をたたえたい。決勝トーナメントに残るという大仕事をやってくれたのである。万々歳だ」。
言葉のセンスもバカみたい、と思わず金井美恵子風の物言いになってしまう。全編こうして、日本が勝ってうれしいだの、スポーツ好きの子どもや孫の、他人にはどうでもいいエピソードで綴った文章を読むと、「老い」の残酷さを思う。
同時に、谷崎や川端の老い方のほうがずっとましだ、と思わぬ彼方へ感慨は飛翔する。
老いといえば、最近「老い」に関する著述を次々と出している吉本隆明も「トルコ戦に負けて考えたこと」と題するインタビューを受けている。
ここ数年の吉本の表現は、ほとんどの場合、インタビュー構成によってなされている。
私は、この間の吉本のさまざまなテーマにわたる発言についていくつもの批判的な観点をもって見てきたが、なお見られる「発想のひらめき」に惹かれて、その発言を万遍なく読み続けているほうだと思う。だが、「日本がトルコに負けて、がっくり興味を失っちゃいましたね」と始まるこのインタビューには惹かれるものが少なかった。
わずかに吉本らしい点が出ているのは、以下の問題だろう。w杯におけるアフリカ・チームの活躍に触れて、『アフリカ的段階について:史観の拡張』と題する彼の一九九八年の著作(春秋社)で展開した見解なのだが、『歴史哲学』におけるヘーゲルのように世界史からアフリカを除外するような史観ではもはややっていけない、「アフリカ的段階」の国や地域のやり方から学ぶことが多いはずだと強調している点である。
それが、サッカーから、文学・芸術・経済のあり方にまで及んでしまうところが、「世界普遍性」をめざす吉本らしいところだと言えるが、だが、この点を突き詰めるなら、当然にも吉本/辺見庸対談が消費資本主義の評価をめぐって対決した地点(『夜と女と毛沢東』所収「身体と言語」、文芸春秋、一九九七年)にまで立ち戻っていかなければならないだろう。
保坂和志の文章は、自己批評の部分だけにわずかな救いがある。『「小説家だから」というような理由でW杯について原稿料をもらう文章を書いていると、「W杯は戦争ではない」けれど、「W杯について書くことは戦争について書くことと同じだ」ということがよくわかる。
もしも、これからさき戦争が起こったとしても、新聞の文化面とか社会面で文学者たちが書く文章は、W杯についてみんなが書いている今回の文章程度のものなのだ』。村上龍や島田雅彦や星野智幸を筆頭にして、たしかに作家にはサッカー好きが見受けられるが、それにしても、ことさらに作家・文学者にW杯に関する文章の寄稿を求める「文学界」誌の今回の特集を知って私が最初に思ったことも、保坂がここで言うこととほぼ同じだった。
関川夏央も書いているが、短文で、どうということもないが、決勝戦のスタンドで天皇・皇后と並ぶ金大中大統領の表情に触れて、「苦い表情だ。この人にはユーモアがない。
大統領になりたいという希望以外に政治目標がなかったことと並んで、彼の欠点である」と書くところに、並みの民主化論者にはない「悪意」が見て取れて、感心する。関川がふだん展開している日本社会論・韓国/北朝鮮論とは、私はおおいに意見を異にするが、一般的に、悪意みなぎる人物論からは学ぶところが多い。
悪意といえば、さて、異彩を放つのは、車谷長吉の悪態である
私は、車谷の創作集『金輪際』(文芸春秋、一九九九年)の帯に編集者がつけた惹句「私小説の酷と毒。人を呪い殺すべく丑の刻参りの釘を打つ、悪鬼羅刹と化した車谷長吉の執念」に感心した者だが、さすが『塩壷の匙』や『赤目四十八瀧心中未遂』の作家であり、最近では『銭金について』(朝日新聞社、二〇〇二年)と題するそのものズバリの本で、実名をあげてさまざまな有名・無名の人びとを斬り捲っている作家だけのことはある。
私が嫌いではない中田英寿までをも「この男は実に凶暴そうな、人相の悪い人である。なぜこういう男を広告・宣伝に使うのか。無論、これぐらい凶暴そうな人でなければ、相手チームと戦う闘志は湧いて来ないのかもしれないが」などと書くところは、車谷が自認する性悪さが浮かび出ていて、迫力がある。
「日本負けろ、と願わずにはいられない」とするところは、私と同じで、私も性悪さの一部を共有しているのだろうか。いやいや、車谷の私小説に見られる悪態のかぎりには、とても及ぶものではありません、と仰ぎ見るばかりである。
|