この本の広告が「一〇〇万部突破」を謳っている。千部を売るにも汲々とする本ばかりを出している身からすれば、驚くと同時に羨ましくもある数字である。
バターだかチーズだかが溶けたり消えたりした昨年の便乗本騒動を思い出し、出るぞ、と思っていたら、『日本村100人の仲間たち』という本が早くも出た。
「もし、日本が100人の村だったら…?!」と帯に言う小細工が可笑しい。そして、内容的にパロディにもなり得ていない本が、書店では元祖本の横に山のように積まれ、これまた売れているらしいことが、この国の文化・社会状況の底の浅さを露呈しているようで、さびしくも、みじめだ。
あらためて元祖本の真価が問われるところだ。時代にふさわしく、インターネットの上で生まれた民話であることは、よく知られていよう。誰かが書いた小さなエッセイが、共感か感動かを呼び、次から次へと世界中の人びとが形づくるネット海を漂流しはじめた。
世界を100人から成るものとして見つめ直すと、民族構成・男女の比率・各宗教の信者数・富の偏在などの数値がきわめて分かりやすいものとなり、世界がいままでとはまったく違って見えるという点に着目した物語である。
「世界には63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう。61人がアジア人です。13人がアフリカ人、13人が南北アメリカ人、12人がヨーロッパ人、あとは南太平洋地域の人です……すべての富のうち6人が59%をもっていて、みんなアメリカ合衆国の人です」などと続く。
文字面を読むだけなら、読み終えるのに数分間とかからない。それでいて、絶望的なまでの貧富の格差や、生れながらにして地域ごとに画然たる差が生じてしまう不平等性などにも触れているから、米国ひとり勝ちのグローバル経済への警鐘とも読める。何となくわかった気持ちにさせてくれる。
昨年の「9月11日」の事件以降の状況のなかで、この「お伽話」がネット上をいっそう加速して駆け巡り、ついには本になって人びとのこころを捉えている理由は、客観的には納得できるようにも思える。
だが、「感動的なお話」にはむくむくと警戒心が頭をもたげてくる天の邪鬼の私としては、ここではあえて意地悪な問題提起をしておくべきだろう。63億人を100人に縮めて発想してはじめて物事がわかりやすく見えるという風潮は、現代人の精神的な疲弊状況の正直な反映である。
戦争・差別・環境などをめぐる問題の複雑さに耐えかねた精神が、問題の構造を、わかりやすい、実感できる数値で示されたときに、単純に反応しただけのことである。わかりやすさに溺れたことの代償は、複雑さからの逃避であることを、人は知らない。
この風潮は、人間がもつ抽象力と分析力と問題解決力に対する侮蔑である。100人の村とは、原始共産制の社会も想定しうる牧歌的な数字だが、現実には人類史は、その後「家族・私有財産・国家」を生み出し、そのそれぞれの重荷と苦闘しているものとして63億人の現代人が存在しているにもかかわらず……などというように。
さて、「まだ間にあう」という希望のメッセージを最後に発している本書がいうとおりに、地球がいましばらく生き長らえることができたとして、50年後か100年後の世界で、次のような電子民話(ネット・フォークロア)が駆け巡っているかもしれないなどと夢想するとは、私はつくづく底意地が悪い人間なのだろう。
「日本では、この本を百数十人にひとりの人が買いました。数分間で読める本なので、おそらくその99%に近い人びとが読んだことでしょう。でもそれから10年経っても、50年経っても、世界の貧富の差も地域的な不平等さも縮まることはなく、現在に至りました。単純な善意は複雑な悪意に負けるのです。もう間にあいません。遅すぎます。
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