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緊急特別インタビュー
「批判精神なき頽廃状況を撃つ:自爆テロと『無限の正義』作戦の意味するもの
聞き手:米田綱路(図書新聞編集) |
「図書新聞」2001年10月6日号掲載 |
太田昌国 |
--まず、太田さんは今回の事態をどう見ておられますか。
太田 九月一一日の事態については、夜一〇時前に入った第一報から明け方までテレビをつけっぱなしで見る、という出会いになりました。
その後も関連情報はあふれているように見えますが、アメリカ合州国は明らかに報道管制を敷いていると思います。「容疑者」特定の問題については、次々と逮捕しつつある人びとをオサマ・ビンラーディン氏と結び付ける根拠について米国側は全然説明しないまま、ほぼ彼らを「標的」に据えて「戦争」や「報復」を煽っている。
ピッツバーグ郊外に墜落したユナイテッド航空機については、直後の現場映像(写真)が出ていない。ハイジャックを察知した米軍機による撃墜の可能性があるように思えます。
二四日になって報道されたことですが、事件後VOA(アメリカの声)放送はアフガニスタンのタリバーン政権最高指導者モハマド・オマール師との電話会見に成功したが、放送直前にこの情報を得た国務省は、「税金で成り立っている放送がテロ容疑者を匿う勢力の宣伝に使われるのは不適切だ」と圧力をかけ、放送は中止されたという。このように、報道管制の下で、私たちからすれば、真相はいまだ薮の中、としか言えないことが多々ある。そのことを前提にしてお話しします。
今回の事態をめぐっては、行為の主体による声明も「宣戦布告」もなされていない。いかなる主体が、どんな目的をもって行なった行為であるのか、私たちはそれを、推測・想像するしかありません。
米ソ冷戦構造が崩れて以降の十年間の過程で折々に感じたことですが、そのときどきの暴力的な行動を、仮に何の価値判断もなく「テロリズム」と名づけるとして、いったいこの行為によって何を実現しようとしているか、どんな未来や新しい社会をつくろうとしているのかが見えづらい出来事が目につくようになってきたと思います。その極限的な形態が、今回の事態だと思います。
いままでであれば、民族解放闘争や革命運動などの運動形態で位置づけ、それを拒絶するにせよ賛成するにせよ、私たちは何らかの判断基準をもつことができた。
しかし、一九六〇〜七〇年代のベトナム民衆の抵抗戦争に典型的に見られたような、あるいはいくつもの地域の解放ゲリラ闘争に見られたような、暴力それ自体が孕む倫理性を、今回の行為に見ることはできない。二〇人前後といわれる実行者たちは、五、六〇〇〇人ともいわれる人びとを巻き込んで死んでいったのですが、そこに私は、途方もない、底無しのニヒリズムを感じます。
象徴的な側面で捉える見方ができないわけではない。行為者たちは、WTC(世界貿易センター)とペンタゴン(国防総省)を狙い、それを実現しているわけですから,一方では世界を制覇している経済活動の象徴としてのWTC、他方では世界を制圧している軍事的な管制塔としてのペンタゴンというように、意識的に選びとられた「標的」だと言える。
そこにメッセージ性を読み取ることは不可能ではないかもしれない。しかし、繰り返し言いますが、それは「解放」の理念も倫理も欠いたメッセージでしか、ない。
WTCビルに経済的グローバリゼーションの象徴を見ること自体には根拠がある。しかし、グローバリゼーションの現象の仕方は重層的で、行為者たちが「その罪、万死に価する」と捉えたのかもしれない、世界の金融市場を勝手気侭に操作している経済エリートだけが働いていたわけではない。
生じていると見られる五、六〇〇〇人の死者のなかには、ビルの保全員や掃除人として、あるいはレストランの従業員として働いていた、「第三世界」からの移民労働者がおおぜいいた。
たとえばホンジュラスとメキシコのそれぞれ五〇〇人、コロンビア三〇〇人、チリ二五〇人、トルコ一三一人、フィリピンとロシアがそれぞれ一一七人など、八十数カ国以上の国々から来たさまざまな国籍の人びとが行方不明になっているという。これも、良い悪いは別として、労働力移動を必然化させたグローバリゼーションのひとつの現象形態です。
そういう場所が攻撃目標になりうると考える、あまりに単純化した論理は、私から見れば、政治・社会的な解放思想ではなく、自分が選択する行為が「善であるか悪であるか」という思いを超越した地点ではじめて可能になる、世界の終末を願う心理の反映だと思える。オウム真理教の一部の人びとが確信をもって遂行した行為のときにも感じましたが、このような世界終末思想をどういうふうに捉えるかは、現代の文明観に関わる大きな問題だと思います。
さて、この行為に直面した米国の大統領・ブッシュは「これは単なるテロを超えた戦争行為である」という言い方を一貫して行なっていて、「仮想敵」としてのビンラディン氏を匿っていると米国が規定しているアフガニスタン・タリバーン政権攻撃に向けた米軍の展開が早い段階で始まっています。
しかしこれは、やはりあまりにも飛躍があって、とにかくいまの段階では、九月一一日の朝になされたいくつかの行為が孤立してあるだけで、それにいままでの国家間戦争の概念を応用して「戦争」と規定することは、国際法から言ってもまったく不可能だろうと思うんですね。
私は国際法に明るくはないが、今回米国が試みようとしている「復仇」としての武力行使は国連決議が禁止していることを、藤田久一氏らの専門家がわかりやすく説明している(九月二〇日付「毎日新聞」夕刊)。
ですから、ブッシュにとっては、これは「犯罪」ではなく「戦争」でなければならないのですね。これは国家総動員を実現するために、敢えて使っているブッシュのレトリックでしょう。しかも、米国社会は「一時の激情に駆られて」それを許容し、たとえば下院議会は四二〇対一で、彼らのいう「武力行使」容認決議を行なって予算措置も講じたわけです。
そのほか、星条旗が至るところに翻り、「イマージン」など戦意高揚を妨げる曲の「自粛」も始まっているというのですから、一見、米国社会は一丸となって、ブッシュの政策を支持しているように見える。
ここで生まれるのが次の問題だと思います。世界の現状が政治的・経済的・社会的に深い矛盾を抱えたものとして存在している以上、どんな悲劇的な出来事からでも、歴史的な過程と現代社会の存立構造に孕まれる問題を引き出すことが、未来へ向かうかぼそい道です。
ハイジャック機を操って巨大ビルに激突するという信じがたい行為に、先ほど言ったように、文明論的な課題(世上よく言われるような、異なる文明同士のたたかい、という意味合いで言うのではありません)を見てとると同時に、米国には、なぜこれほどまでに自国が憎まれるのかというふりかえりが必要だと思います。
米国社会はいま、深い悲しみに包まれているわけですが、あえて言えば、多くの場合ほかならぬ米国が他の地域で作り出してきた政治・経済・軍事的なふるまいによって、その地に生きる人びとに与えた「悲しみ」と、自分たちがいま感じている「悲しみ」との共通性を感じ取ることができるかどうかに、未来に向けた米国社会の可能性/不可能性はかかっているように思うのです。
このような意見に対しては、今回のテロ行為自体に真っ向から対峙していないとか、問題のすり替えであるという批判があることを知っています。私はその考えに同意しません。
これから展開しようとする軍事作戦に「高貴な鷲」だの「無限の正義」などという呼称を与えて疑わない社会が、「建国」以来どんな歴史をたどってきたのかというふりかえりは、今回の事態に限らず現代世界が抱える課題を考え抜くときに、避けることはできません。
インディアンに対する征服戦争、メキシコに戦争を仕掛けてカリフォルニア・テキサス・ネバダ・ユタ・アリゾナ・ニューメキシコを割譲させた「講和」、ハワイ占領、パナマ分離独立の煽動、スペインからの自力による独立をまじかに控えた段階でのフィリピン・グアム・プエルトリコおよびキューバの実質的な併合ーーなどの「事業」を、米国は、二〇世紀における「宿敵」ソ連邦の成立以前の、同世紀初頭までには、ほぼ終えていました。
したがってこれを支えたのは、共産主義に対する対抗イデオロギーではありません。
米国国家の膨張は「神によって与えられた明白な天命」だとする、一九世紀半ば以降の支配イデオロギーです。その「明白な天命」に従って膨張を続ける米国の支配下にあって、深い「悲しみ」を強いられて生きた他地域の人びとは、数知れません。
二〇世紀になってからの事例は、ここで挙げるまでもないでしょう。米国社会が、「人のふり見てわがふり直せ」という、俗な世間智を学ぶことができるならば、今回の事態は、悲劇の果てに生み出すべき結果を産んだ、と後世の評価を得るかもしれません。
日本の場合には、首相・小泉がいち早く「米国が発動する報復措置に対する全面的な支持」を明らかにしました。それを具体化しなければならないがために、非常に焦って、立法機関としてはすでに形骸化している国会の論議すら経ずに、新しい法律をつくって自衛隊の活動範囲を一挙に拡大し、米軍の展開を支援するということを米国に「公約」するところまで行ってしまった。
小泉は就任以来、検定教科書の問題にしても靖国神社参拝の問題にしても、近隣諸国との良好な関係をつくりだす課題には少しも熱意のない、逆に敵対的な発言を繰り返してきましたが、とにかく事態の本質がまったく見えないままに、ただ信念らしきものを断定的な短い言葉で繰り返す。
それが分かりやすいからと、彼は大衆的な人気を得ていったわけですが、私はかねがね、『論座』一〇月号における吉本隆明氏の肯定的な評価と違って、小泉の政治哲学の欠如や現実上の政策提起の貧しさと粗雑さは、相当なものだと考えていました。今回の事態に関するこの一〇日間の発言でも、何を問われても具体的な答えのできないまま、ただ「米国支持」だけを断言している。
しかし、断言の根拠は、すでに見たように、いかにも脆いものでしかありません。
――「文明対非文明」、「文明対野蛮」、「民主主義国家対ならず者」といった二項対立的なスローガンを連呼することで、起っている事態を単純化して対立の構図を描こうとする傾向に拍車がかかっています。
それは逆に、事態が不透明であり「戦争」する相手が見えにくいがゆえに、逆に、いっそう事態を単純化して、「元凶ビンラディンを処罰する」というかたちで問題の焦点化をし、「戦争」へと乗り切ろうと焦っています。しかも、限られた情報源に集中しアメリカの政策に翼賛化して、マスメディアはそうした構図をますます増幅している状況ですね。
しかも日本は新法を作ってまで、それにのめり込んでいこうとしています。「国際貢献」イデオロギーに塗り込められ、湾岸戦争のとき一三〇億ドルにものぼる経済支援をしながら世界からは「汗を流さない日本」というレッテルを貼られた苦い経験からか、拙速なほどに、今回の出来事をめぐる情報を収集する努力を怠り、自衛隊に中東湾岸地域で「情報収集」させるという倒錯がまかり通っています。
アメリカから湾岸地域に「日本の旗を見せろ」といわれたことへの強迫観念からか、非常にものごとを単純化したまま、高い内閣支持率をバックにして一気に派兵を推し進め、行けることろまで行って既成事実化を図ろうとする。こうした危険な政治状況、そして民間機がビルに突っ込んでいく強烈なイメージと単純化された事態の構図のなかで、社会は一元化されているように見えます。
ジャーナリストや地域研究者、軍事アナリストたちは、それぞれの専門を振りかざしアメリカや日本の「国益」を代弁するかのようなことしかいわず、事態の本質を見極めようとする言論がほとんど聞こえてこない。そうした、悪循環的なまずさに加速的に陥っていくように思えるのですが。
太田 ペルーの作家、マリオ・バルガス=リョサは一九八一年、『世界終末戦争』という優れた小説を書きました(新潮社刊)。
一九世紀末、近代国家への飛躍を遂げようとするブラジルにあって、それまで辺境に押しやられてきた民が、急に国家の枠組みの中に包摂しようとする「近代」に対して、絶望的な終末戦争を戦った史実に基づいた物語です。単純に言えば、〈野蛮〉と〈文明〉の対立を図式化したテーマと言えるが、カヌードスの信徒団に混在する多様な人間像が描かれていて、物語が膨らみを帯びているばかりではない。
〈文明〉側にも、カヌードスの民を司るのは理性とは異なるものだが、狂気と呼ぶのは不当で、信仰とか迷信とか呼んでは漠然としすぎると捉える、最良の他者認識の入り口に立つ人物がいることが描かれる。
つまり、〈野蛮〉と〈文明〉は、固定化されたものとしては描かれていない。両者は、他者を認識し合う。少なくとも、その契機が描かれる。私は、リョサの現実の政治思想はつまらないと思いますが、さすがこの小説は複雑な構造をよく描ききっていると思い、単純明快にすぎる二項対立の論議を目にするといつも思い出す、想世界の作品です。
現実に戻りますが、ブッシュにしても、またブッシュを支持しているNATOの首脳達にしても、そしてもちろん小泉もそうですが、なぜ世界政治のトップ・リーダーには、いつの世にあっても、こういう質の悪い、想像力を欠いた連中が集まるのでしょうか。つくづく嫌気がさしますね。
ロシアや中国も例外ではありません。就任以来、米国一国の「孤立主義」を気取っていたブッシュが、今回の事態を利用して、世界各国の支持を取り付けようとする動きなどについては、たとえ同レベルの政治家にしても、せめてそのご都合主義を批判するくらいは、当然のことでしょうに。
ましてや、私たちは、九月二〇日、上下両院合同会議で行なわれたブッシュ演説を見聞きしました。
「米国人は戦争というものを知っていた」「米国人は戦争の痛みを知っていた」「一日にして世界は変わった。自由そのものが攻撃にさらされている」「すべての国はわれわれの味方になるのかテロリストの側につくのか、どちらかを選ばなければならない」「これは米国だけでなく世界の戦い、文明の戦いだ」「今回のテロがわが国に与えた傷を忘れない。国民の自由と安全に向けた戦いで妥協しない」。
これらの言葉のあまりの嘘・偽りと居直り、要するに「わがふり直さずに」「人のふりのみ言い募る」姿勢は明らかで、いまさら私が言うまでもありません。
今回の事件の三日前には、南アフリカ・ダーバンで開かれていた国連の「人種主義に反対する世界会議」が閉幕しました。激しい対立に満ちた論議が展開され、パレスチナ問題をめぐる討議が自らに不利になると、米国とイスラエルは退場しました。
しかしここでは、奴隷制や植民地支配の責任・賠償問題が、とにもかくにも議題になったのです。現ローマ法王も、数年前から、十字軍の遠征やアメリカ大陸の征服と先住民族の奴隷化に関する、キリスト者側からの「反省」の気持ちを表明するようになりました。
必要とあれば、歴史を五世紀でも一〇世紀でも遡って過去を「総括」し、現在の相互関係のために捉え返すというのが、人類が次第に到達しつつある水準です。現在の社会・経済関係にまで結果を引きずっている歴史的過去の問題は、「現代人に直接関係ない」と一蹴するわけにはいかなくなると私は考えています。
こんな時代になっても、ブッシュは、テロに対する「十字軍」を公言するのです。アミン・マアルーフの『アラブが見た十字軍』という重要な本が出版されて一〇年を優に越えましたが(シラクが読めるフランス語原書版一九八三年、ブッシュでも読める英語版一九八四年、小泉でも読める日本語版一九八六年リブロポート刊)、それだえkに、いまだに「十字軍」をこのように用いる表現それ自体が驚くべき時代錯誤だ、と言わなければなりません。
宗教のレベルに問題を引き入れる「挑発」とも言えます。ダーバンカギをせめても支えていた問題意識の片鱗も見ることができないのです。「仮想敵」にされているビンラーディン氏には、「<十字軍>への<聖戦>」を煽るうえで好都合なものになるでしょう。
こうして、一見対決しているかに見える両者は、もちつもたれつの関係です。
政治家たちの、目を蔽うばかりの低水準の言動を補強しているのが、これに無批判的なマスメディアの圧倒的な力ですね。あの事件から一週間くらい経ってからでしょうか、次第に事態が見えてくるようになったときに、テレビや新聞のようなマスメディアでも、米国内の反戦的な動きを伝える人が出てきた。
「報復戦争はすべきではない。テロは確かに痛ましく、許すわけにはいかないけれども、だからといって、なぜ一気に戦争になるんだ」と公園で討論したり、集会やデモをし、インターネットに意見を流したりなどという、いろいろな動きを伝えようとするジャーナリストが、少数ながら、いる。
その対極に、NHKのワシントン総局長に典型的なように、ブッシュが記者会見や議会で話したことを、きわめて情緒的な形で繰り返し、「こういうアメリカの問いに対して、日本はどう答えるのか」などと、決まり文句のように言うジャーナリストが、多数派として、いる。
これは湾岸戦争の頃から目立ってきたことだと思うのですが、ソ連の崩壊がもたらした一つの大きな社会現象がある。ソ連がなぜ無惨な崩壊を遂げたかということは別途考えるべき問題で、いま触れることはできませんが、それまで体制批判的な立場で、あるいは柔軟なリベラル派の立場で行動・発言してきた人びとが自信を喪失し、発言も控え、自分の立場をなしくずし的に変えていく画期になった。一方、左翼/社会主義を批判してきた側にとってみれば、自分たちが戦ってきた相手が惨めな敗北をしていったことで、ますます居丈高になっていった。
この一〇年間は、日本的に見ても世界規模で考えても、この過程が始まり、深化した時期だったと思います。マスメディアの言論状況はここで一元化し、支配的な言論に対する批判的な言論やまっとうな異論が聞かれなくなった。それが、今回のメディア報道のなかで、いっそうはっきりしてきました。
テレビに登場する軍事評論家やコメンテーターなるものは、ペルシャ湾岸戦争のときもそうでしたが、自爆決行者と米国によって作り出されている「現実」をなぞって解説するだけで、なぜこういう事態が起るのか、こうした事態を防ぐためには、あるいは戦争に拡大しないためにはどんな人間的な努力が可能なのかという問いを発する人がほとんどいませんね。「テロ」をめぐる文明論がない。
世界貿易センタービルとペンタゴンに突撃し炎上させた人たちの行為を楯に取って、ブッシュが推し進めようとする戦争策動をそのまま図式化して、現実に近未来に実現するであろう戦争をあれこれ「予測」する。これをもたらしている現実に対する批判精神を失ったところで展開されている予想ゲームでしょう。
現実に対する批判精神の衰弱というのは、もう非常に恐ろしいところまで来ています。 私がこれと対照的だと思うのは、この一〇年間に高スピードで私たちの日常生活に入り込んできているインターネット上で展開されている呼びかけや意見だと思います。日本国内においても、米国を含めた世界規模で見ても、今回の事態を受けての意見の交換がかなりの量で行なわれているわけですね。
そのなかでは、マスメディアの影響力を断ち切って自分の頭で考えて、どう思うかを真剣に書き込んでいる人びとがおおぜいいます。ところが、マスメディアの報道だけを見ていると、米国社会では「ビンラーディンをやっつけるためにトマホークを飛ばせ」「パキスタンの了解が得られたんだから、地上軍を投入してタリバーンを殲滅しろ」といった意見が、あたかも全面的に飛び交っているかのように思えてしまう。
日本社会でも「自衛隊は残念ならが武器を補給できないけれども、とにかく自衛隊をインド洋まで派遣して、輸送業務ならいくらだってできるじゃないか」というような意見が充満しているように見える。
米国が言う「無限の正義」に満ちた「テロに対する戦争」が、現実にアフガニスタンを戦場として展開されたならば、長年にわたる戦争とタリバーンによる抑圧支配の下で呻吟する人びとがさらにどれほど傷つくかということも考えずに、これに単純に翼賛する議論が、世界中にあふれているように見える。けれどもインターネット上では、こうした動きに対して非常に厳しい批判と警戒心をこめた共同声明や個人の心情/思いの表明が数多くなされている。
インターネットを通じての交流だから、それは易々と国境を超える。しかも、その思いは、インターネットの世界を抜け出て、反戦集会や街頭での反戦デモという具体的な形をとりつつある。
マスメディアの報道が、こうした草の根の人びとの気持ちをきちっと報道していくならば、いまの世界と日本の世論状況はずいぶん変わると私は思いますね。インターネットの力にすべてを託すのはもちろん幻想ですが、そこを見ていると、マスメディアで流される主流の意見とは異なる考えをもつ人が層をなして、存在する。世界でも日本でも、そうなんだということが言えるように思います。
私がここで述べている考えは、マスメディア上ではほとんど見聞できないが、インターネットの世界ではめずらしくもない、ごくふつうに行き交っている考えです。ですから、これはもう時間の競争になるでしょうけれども、そうした声が、どれほど現実的な力へと転化して、ブッシュが呼号する戦争を阻止し得るか、愚かな小泉が、「旗を見せろ!」とか言う米国首脳の恫喝を唯々諾々と呑み込んで、米軍の展開地域にまで自衛隊を派遣するという、目論まれている戦後史の大転換をどう阻止することができるのか。私たちが直面するのは、この問題だということになります。
――日本も「対テロ」と称して、「自衛隊は原子力発電所や国家などの国家的重要施設を守れるのか」「守れないなら自衛隊法を改正する」といった議論に抵抗もなくエスカレートしています。そして、「報復」「正義の戦争」が振り回す威勢のいい言葉は、攻撃される国や地域においてもっとも被害を被る草の根の人たちに対する想像力を失わせます。
衝撃的な映像の向こうで、命を奪われた世界貿易センタービルなどで働く人々を悼む気持ちと同様に、その同じ広がりをもつ想像力が、そうした草の根の人たちに届かねばならないと思うのです。
いま日本では、「国際貢献」「後方支援」あるいは「周辺事態」「有事」といった抽象的な単語に、人殺しに他ならない戦争へのイメージが回収され無害化されしまうような言論状態を生み出しているように思います。
この貧困さをこそ、恐ろしいと考えるところにまで立ち戻らねばならないと思うのです。「日本人にも犠牲者が出た」「日本は当事者に他ならず、責任ある行動をとらなければ国際社会で取り残される」といったかたちで軍事化へ向かう論理の回路を断たなければいけないのではないか、そのことを痛感します。
太田 私はこの事件が起こる直前に、「湾岸戦争から一〇年」を特集した雑誌『外交フォーラム』の九月号を読んでいました(都市出版株式会社刊)。湾岸戦争のとき外務省北米局北米第一課長であった岡本行夫氏などが書いています。
当時の外務官僚の古傷になっているのは、湾岸戦争における「恥かしい思い」ですね。つまり日本は、結局はキャッシュ・ディスペンサーであり、一三〇億円の軍資金は出したけれども軍事的貢献をしなかったことで、ずいぶん軽く見られ、肩身の狭い思いをした、という。次にこんな事態が起るときには、どう恥かしい思いをしないかということが、外務官僚の最大の関心事なわけですね。
じゃあどうするかといえば、まずは日本社会の平和ボケをなくす。
次に、行政の縦割りと権限意識をなくす。最後に、危機対応の法整備を行なう、ということになる。岡本氏が目の敵にしているのは、厳密な法解釈で「憲法の番人」を標榜する内閣法制局です。そんな妨害は、首相の政治決断で乗り切ればよい、という主張になる。
岡本氏は米国の「強引さ」「身勝手さ」にも触れている。だが、当時の日本の在り方を見る視線は、唯一米国からのものです。米国政府に認められた/認められなかった/助けてくれなかった、などという思いです。湾岸戦争のときの当事国は多数存在しました。
米国だけではない。イラク、クウェートだけでもない。他にも中東諸国は数多くあり、なかには多国籍軍に参加した国もあれば、反米の一点でフセインに共感したり支持したりした国もある。
為政者たちの、いわくありげな態度とは別に、自分たちの土地に産出する天然資源が自らの手の届かぬところで〈国際取引〉される現実を眺めるだけのこの地の民衆がいる。
民衆の生活を蔑ろにした、このような力関係に基づいた国際政治・経済の在り方が、その地における社会的に不安定な情況を生み出しているのかもしれないという内省は、大国の為政者にはどんな場合にも、微塵も見られない。
「不穏な」情勢になったら、軍事介入して収拾すればよい、としか考えない。従って、「テロ」や「暴動」と、それを鎮圧するために発動される「国家テロ」の関連性についての問題意識すら生まれない。
岡本氏の議論も、その枠内のものですね。だから、米国をしか見ていない。アラブ地域の民衆の思いを考えてみるどころか、アラブ諸国の政治指導部の複雑な思惑すら視野に入らない。対米外交だけで「外交」が成り立つものだと、意図的な誤解をしている。
日米安保体制を固守することに全力を注いできたエリート外務官僚の責任は重大ですね。冷戦終結後の一〇年間を見ても、何も新しいものを創り出してはいない。彼らにとっては、戦後五六年が相も変わらずのっぺらぼうのまま続いているだけです。
もし、上のような視点でアラブ地域全体の社会・政治・経済の在り方を重層的に捉える方法をもつなら、湾岸戦争のときでも、米軍の戦費を調達するなどというのとは違う、この地域の将来的な安定に寄与しうる関わり方を見いだし得たはずです。
一旦緩急の際は軍事介入すればよいとする米国のカウボーイ外交しか念頭にないから、岡本氏らは、「軍事的な参加」ができない日本の憲法上の制約を呪い、肩身の狭い思いをすると曲解するのです。
今回の事態についても、「日本人も二四人が行方不明になっている。だから、日本も当事者である」という人たちがいる。
この程度の当事者意識から生まれるのは、よってきたる由縁を顧みることもないままに、ブッシュのひとりよがりな「反テロ」キャンペーンに乗って、自衛隊の海外派兵の規模を拡大するという、軍事的な道筋だけです。現代史において、「国家テロ」の発動をもっとも迅速に行なってきたふたつの突出した国ーー米国とイスラエルにおいて、なぜ、いわゆる「テロ」行為が多く見られるのか、と冷静に見つめることこそが、いま必要なのです。
政治家や官僚ばかりではない。マスメディアに登場する研究者や言論人なるものも、これらをいっさい問題にせずに、石油が絡んでいるから日本は当事者であるとか、犠牲者のなかに日本人がいるから日本は当事者であるとか、世界が一丸となってテロに立ち向かおうとしているのだから日本だけが外れるわけにはいかない、と言う。
しかし、世界が一丸となって見えるときには、そこから少し身を引いて冷静にものを見るのが、何らかの問題を考えようとする人間の当たり前の態度でしょう。
世界中が一丸となること自体、それはおかしいという考えが湧いてこずに、どうして、そこに合流しようと焦るのか。
ましてや、一緒になろうとする相手は、京都議定書やダーバンでの世界人種差別会議などさまざまなところで「我が道を行く」「一人でやるんだ」と言ってきた米国のブッシュ政権です。
ところが、今回のような事態が起ったら、「世界のみんなと相談する」「世界中がみんな我々に味方しているんだ」というような、そんな見え透いたかたちで態度を急変させる。
民衆レベルで生じた甚大な犠牲を、あたかも「国難」であるかのように言って問題をすり替える傲慢な大国の政治指導者に、いったいどんな信頼がおけるのか。そう考えるのが、当たり前すぎる判断だと私は思います。
ところが、マスメディアのなかの言論がただ一つの流れしかなくなってしまった時代において、登場する人間たちには、批判的な精神がかけらも見られない。この退廃を、私はなにより痛感しますね。(了)
(インタビュー日=九月二一日夕、加筆・訂正=九月二四日夕)
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