ラテンアメリカの優れたノンフィクションについて語るというのが、ここで与えられているテーマである。
五世紀有余前、「コロンブスの大航海」と「地理上の発見」によって、この広大な大陸が否応なく直面した「ヨーロッパとの出会い」以降の重層的な歴史の歩みを思えば、「大航海時代叢書」(第T期、第U期、エキストラ・シリーズ、岩波書店)に収録されているラテンアメリカ地域に関わる文書をまず挙げたくなる。
ここに収められたクロニスタ(年代記作家)たちの文書は、「新大陸」の風土と先住民族に接したときの彼らの驚き・感慨を率直に語っていて、異文化同士の出会いを語る稀有な記録として興味深い。
だが、この出会いは、ヨーロッパ人が先住民族のうえに揮った大虐殺・集団的性暴力・奴隷化・土地の収奪などの大きな悲劇を孕むものであり、だからこの時代の出来事を指して「征服」(ルビ・コンキスタ)という呼称が成立している。
そこで、征服隊に付き添ったカトリック僧、バルトロメー・デ・ラス・カサスのように、キリスト者たちが異教徒に対して行なう暴虐を内部告発した、同時代の証言としての重要な文書も生まれたのである(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫、『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』現代企画室)。
「スペインの栄光」にしがみつく人びとが、四世紀半を経たいまも、スペインの顔に泥を塗る書として、あらゆる種類の罵詈雑言を投げつけていることから、往時のノンフィクションたる本書の破壊力のすさまじさが知れる。
現代の諸問題を考えるに当たっても、一六世紀に書かれたこれらの記録が決定的な重要性をもつことを強調したうえで、現代に生まれたいくつかの重要な作品に触れてみよう。
一、ガブリエル・ガルシア=マルケス
コロンビアの作家、ガルシア=マルケス(一九二八〜)といえば、『百年の孤独』(新潮社)や『族長の秋』(集英社)などの、いわゆる魔術的レアリスムを駆使した壮大なフィクション作品を思い浮かべる人が、当然にも多いだろう。だが、若い日々を新聞記者として暮した彼は、ノンフィクションの分野でも並々ならぬ力量を発揮する。
『誘拐』(角川春樹事務所、一九九七年)は、コロンビアの麻薬密輸組織と政府当局が繰り広げる要人誘拐やテロの応酬のもようを描いた作品だ。元来は、実際に誘拐された女性と解放のために尽力した夫とが、その経緯を話すので本にまとめないかとマルケスにもちかけたことから始まった仕事だった。
草稿はかなりできた。だが、その段階でマルケスが考えたのは、同時期にコロンビアで起こっていた他の九件の誘拐事件も視野におさめなければ全貌は見えないのではないか、ということだった。
そこで、他の当事者にも可能な限りインタビューを行ない、構成も変えて、三年の歳月を費やして成った作品だという。
こうして、誘拐された人びとの監禁生活を物語の軸にしながら、彼(女)らを解放しようとする近親者と、有利な取引を模索する麻薬マフィアの側との駆け引きの過程が描かれていくのだが、すると総計十件の誘拐事件は個々に切り離されたものではなく、ひとつの誘拐団が、ひとつの目的のために、十人をひとかたまりの集団として誘拐したのだという、事態の奇異な全貌が明らかになる。巧みな仕掛けである。
マルケスはこの作品を、「罪のない人たち、罪のある人たち両方」のコロンビア人に捧げている。マルケスの作品の面白さを堪能するには、「前者を誘拐された人びと、後者を誘拐団」と単純に解釈しないことが大事だと思える。
善悪に関わることであっても、物事も人間も、複雑に入り組んでいて、善悪が明快に区分けできるほど簡明ではない。そのことをこの物語を通して、考え、楽しみ、悲しむ世界に彼は誘う。
マルケスの異能ぶりは、新聞記者時代に日常的に書いていた記事が、後年集成されて一冊の本となり、それが読者をして、けっこう読ませてしまうところにも表われる。
『ジャーナリズム作品集』(現代企画室、一九九一年)や『幸福な無名時代』(筑摩書房、一九九一年)などが、その種の作品だ。
南米の村や港町や首都で起こった四〇年以上も前のありふれた事件や政治的な激動を、生き生きとした主人公のいるひとつの物語にして書いていたこの時期に、マルケスはおそらくジャーナリストから物語作家へと転生するきっかけを掴んでいたのだろう。
二、ドミティーラとリゴベルタ・メンチュウ
冒頭で触れた「征服」が遺した傷口でもあるが、ラテンアメリカでは現在に至るも識字率が低い。厳格に組み立てられた階層社会で、植民者の末裔である白人は、人口構成上は少数派だが、政治・経済・社会・文化的には他の階層が太刀打ちできぬ実権をふるう。
下層の人びと、とりわけ先住民族=インディオは、人間存在それ自体としての価値が否定されてきた。独自の言語も、衣装も、生活・習慣も禁止された期間があった。当然、「表現」からは切り離され、遠ざけられた空間に、人びとは生きてきた。
だが、時代は変わり、止むに止まれぬ「表現」が生まれる。無文字社会であったから、口承の伝統がある。
そこで、現代においてこの地域に生まれるノンフィクションは、外国人か、知的に上昇し研究者かジャーナリストになった(主として)白人が、どこか抜きん出た点をもつ下層の庶民から「聞き書き」するという形をとる場合が多い。
こうして生まれたノンフィクションの快作とも言うべき作品が、ボリビアのドミティーラ(一九三七〜)の『私にも話させて:アンデスの鉱山に生きる人々の物語』(現代企画室、一九八四年)とグアテマラのリゴベルタ・メンチュウ(一九五七?〜)の『私の名はリゴベルタ・メンチュウ:マヤ=キチェ族インディオ女性の記録』(新潮社、一九八七年)である。語りべは、ふたりとも女性である。
ボリビアには鉱山が多い。新大陸を「征服」したヨーロッパ人は、ここの鉱山から掘り出した銀を筆頭とする鉱物資源をヨーロッパに持ち込んで、資本主義勃興の礎を築いた。
その鉱山地帯でドミティーラは生まれた。この本は、幼いころから家計を助ける労働に明け暮れし、鉱夫と結婚してからはいつのまにか鉱山主婦会のリーダーになっていたひとりの女性の半生を語っている。
ボリビアで彼女はしかるべき顕著な役割を果たしていたのだろうが、そのことが国内だけに封鎖されている限り、彼女の発言が世界的な注目を浴びることはない。
彼女の発言が注目されたのは、一九七五年メキシコで開かれた国際婦人年会議のときだ。国連主催のその会議には、各国政府の公式代表団も先進諸国のフェミニズム運動の担い手も参加している。
ドミティーラのような第三世界の視点で見れば、政府代表団はもとより、産業社会の先進的フェミニストの感覚にもついていけない。
いてもたってもいられなくなった彼女は、それらを批判する火を吹くような演説をする。彼女の語りに注目したブラジルのジャーナリストがその後聞き書きをして、この本は成立する。信州・木曽弁を翻訳の文体とするという大胆な試みも成功して、異例とも言える民衆的な表現を獲得した本だと言える。
メンチュウが生まれたのは、中米グアテマラだ。マヤ系民族の人口が多かったこの地域は、いまも人口の半分以上が先住民族だ。
軍事政権が猛威をふるった一九六〇〜八〇年代、反体制ゲリラを掃討するための政府軍の軍事作戦の過程で、メンチュウらが生きる先住民の村々はひどい弾圧をうける。焼き打ち、拷問、虐殺。彼女はそのもっとも深刻な犠牲者のひとりだ。
そこで先住民の権利を確立するための農民運動への関わりを語るのが本書の後半部分で、現実の世界が抱える問題の重さが胸に迫る。
しかし、本書はそれだけに終わらない。彼女の生い立ちを語る前半部では、先住民の村の生活の在り方が描かれる。子どもの誕生に伴う儀式、分身霊、自然や母なる大地を一体化した日常生活、結婚や教育のあり方、死の儀礼ーーそれらが淡々と語られてゆく。
この部分こそが魅力的だ。メンチュウは若くして、一九九二年ノーベル平和賞を受けた。それは奇しくも、コロンブスの大航海から五百年目の年だった。
世界各地に植民地を作り出すことで可能になった「ヨーロッパ近代」確立の過程で、先住者たちがどう生きざるを得なかったか。人類社会はもはや、この問題のふりかえり(内省)なくして立ち行かないことを意義づけた出来事だった。
三、エルネスト・チェ・ゲバラ
ノンフィクションを語る場に、エルネスト・チェ・ゲバラ(一九二八〜一九六七)の名前を持ち出すと、訝しく思われる方もいるかもしれない。アルゼンチンに生まれ、放浪の旅の末にたどり着いたメキシコで、同地に亡命中のフィデル・カストロと出会い、独裁政権打倒のゲリラに加わってキューバへ向かってしまった、あの彼である。革命後のキューバで要職に就きながら、新たな戦いの地を求めて出国、ついにボリビアでのゲリラ戦で死亡した事実も有名だ。
そのチェ・ゲバラはなかなか筆のたつ著述家だ。キューバにいた五、六年間には経済学関係の論文や人間論など、社会主義社会建設に関わる重要な論文を書いた。だが、喘息を病み、幼いころから家にいて読書に親しんだ文学的な経験が生きるのは、数多くある旅日記や野戦日記においてだ。
医学生のころ、彼は友人とふたりで、モーターバイクに乗って南米旅行に出かける。金もない、計画もずさんな無鉄砲旅行だ。
船倉のトイレに隠れて密航し、野宿し、バイクが壊れてからはヒッチハイクし、いかだでアマゾンを下るといった旅行を、人の好意にすがり、医学生であることを信用状にしてふるまう。
そのとき彼がつけていた日記は『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』(現代企画室、一九九七年)として一冊の本となっている。若者らしく、けっこうでたらめなところもある点が面白い。文章もよく、豊かな感性がうかがえる。
この旅行から帰国して医師資格を得たゲバラは再び南米の旅に出る。旅先から両親をはじめとする家族と親友に手紙を書き続ける。
このときメキシコでカストロに出会うのだが、キューバ行きを密かに心に決めた後も、彼は家族には「どこそこの研究者になる、大学講師の声がかかっている、医者になる」などと書き送りながら、実はゲリラになるための軍事訓練を受けている。
これも『チェ・ゲバラ AMERICA放浪書簡集』(現代企画室、二 〇 〇一年)として刊行されており、ただ単に当時の若者の精神風景を明かすに終わるこ となく、一九五〇年代のラテンアメリカの現実を撃つ時代的表現たり得ている。相手へのからかい、当て擦り、皮肉をまじえた日常的な表現の背後に、ユーモア溢れる深い愛情が感じられる。
後年たどった、波乱に満ちた、激しい人生を知るだけに、読後の味わいも深い。
その後も彼は、キューバ解放闘争の過程を『革命の回想』(筑摩書房、一九七一年ほか)として記録し、アフリカ・コンゴ解放闘争での、心潰れるような失敗の記録を『革命戦争の道程:コンゴ編』(現代企画室、二〇〇二年刊予定)として書き残し、終焉の地となったボリビアでも『ゲバラ日記』(角川文庫、一九六九年ほか)を綴っていた。
彼はこうして、驚くような「記録魔」だったと思えるほどだが、そのお陰で私たちはいま、公正で平等な人間社会のあり方を求めてたゆみなく戦った「二〇世紀の小さな隊長」(一九六五年、両親に宛てた別れの手紙での表現)がたどった人生を、ほかならぬ彼自身の筆を通して知ることができるのである。
自ら遺したこれらの日記と野戦日記は、彼のたどった人生への賛否を超えて、かけがえのないヒューマン・ドキュメントとなっていると言えるだろう。
【テーマの関係上、私が企画者・編集者あるいは翻訳者として関わっている書物を数多く挙げざるを得なかったことをお断りしておきたい。】
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