この六年間、死刑囚が獄中で行なう「表現」に触れている。
「死刑囚表現展」の運営と選考に私自身が携わっているからである。
書、絵画、俳句、短歌、詩、エッセイ、フィクションおよびノンフィクションの中長編――何かにつけて制限の多い獄中にあって、さまざまに工夫を凝らした表現が届けられる。ここでは、ノンフィクションの作品に孕まれている問題に限って、いう。
自らが関わった事件をふり返り、犯罪の様態を含めて詳しく書き込んだ作品が送られてくることがある。
なぜ、あのような残虐な行為に、自分が手を染めたのか。悔恨は深い――そのような作品もある。
書かれてあることの「真実性」如何は、肝心な箇所での表現方法や全体的な筆致から判断するしかないが、それにしても、犯行の構成要素のひとつでも欠けていたなら!、と思わせられることがある。
犯罪の多くは、「必然性」によってではなく「偶然性」によって引き起こされると思われるほどに、あれか/これかの要件をひとつでも欠いていたなら、この人があの、目を背けずにはいられないような犯罪に走ることはなかったろうに、と思われるのである。
さらに印象的なことは、多くの死刑囚が「部分冤罪」を訴えていることである。
被害者は当然にも身を避けたり抵抗したりするわけだから行為それ自体の順序、絞殺などの手による行為の場合の被害者との位置関係、凶器の用い方、共犯者がいる場合にはそれぞれの「役割分担」、主導性と随伴性――いくつもの問題をめぐって、死刑囚は、警察・検察の取調べ段階で取られた調書では、自分の行為・役割・意図などが捻じ曲げられて表現されているという不満をもっている。
結果的に被害者を死に至らしめたとしても、それがいかなる経緯でなされたかということは「情状」問題に大きく関わってくることであり、また誰にせよ、自分がなした行為が曲げて解釈されることには耐えがたいものを感じるだろう。
加害者が自らの罪を軽減するために自分に都合のよい形で自己主張している、という捉え方は当然にもあり得る。
その点は、けっこう、用いられている言葉や文体によって推し量ることができるものだという感想はあるが、いずれにせよ、決定的な根拠にはなり得ない。
このことを前提にしたうえで、警察・検察段階での取調べの様態と調書の作られ方には、あまりにも深刻な問題が孕まれているということは強調しておきたい。
自分が関わった事件を記述する死刑囚の多くは、取調べ段階で、警察・検察が描いた通りのシナリオに嫌々ながら引きずり込まれていく心理を語っている。
そのシナリオをどんなに否定しても、怒鳴られ、こずかれ、蹴られ、殴打され、彼らのシナリオを認めなければ長時間の取調べが続いて、自暴自棄になるのだ。
あるいは、これを認めれば罪が軽くなるという甘言を信じたり、裁判で真実を話せば分かってくれるだろうと絶望感の底で思ったりしてしまうのだ。
このことは、警察・検察が犯し、それに無批判的に追随した裁判所によって引き起こされたいくつもの冤罪事件によって、夙に明らかになっていたことだ。
最近の例でいえば、足利事件の菅谷さんに過酷な半生を強いた責任は、警察・検察・裁判所の「共犯」にあったという、隠しようもない事実を思い起こせば十分だろう。
加えて、警察・検察は持てる権限と人員を最大限に活用していくつもの証拠物件を得ていくが、仮にそのうちのひとつが、自らが描いたシナリオを覆す場合には隠蔽してしまい、被告も弁護人もその存在を知らないままに裁判が進行して判決にまで至ってしまうというのが、日本の刑事司法の現実なのだ。
大阪地検特捜部の主任検事による押収物改竄事件は大きく報道され、当然にも、世間の関心を集めている。それ自体は、もちろん、許しがたいことだが、「正義の味方」=検察内部に、突然のように、異形の者が立ち現われたわけではない。
国家権力を背景にしてその権限を行使することに――巷の「愚民」からは隔絶した特権的なその地位に――「蜜の味」を感じてきた検察が、「国策捜査」ではない一般事犯においても日常普段に行なってきたことが、誰の目にも明白な形で明るみに出た、に過ぎない。
「大阪地検のエース」「割り屋」の前田某には、吉田修一の『悪人』が小説でも映画でも評判になっていることに因んで、このさい洗いざらい検察内部の悪行のすべてを暴露してせめてもの罪償いをしてもらいたいものだが、他方「愚民」である私たちには、検察「トップ」の巨悪だけに目くらましされることなく、警察・検察・裁判所が抱える構造的な問題にこそ目を向けるべきだという課題が課せられているのだと言える。(10月2日記)
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