(一)
池田浩士の編訳によって「ドイツ・ナチズム文学集成」全一三巻の刊行が、二〇〇一年九月に始まった(柏書房)。
第一巻には、ヨーゼフ・ゲッペルスの『ミヒャエル――日記が語るあるドイツ的運命』とハンス・ハインツ・エーヴェルスの『ホルスト・ヴェッセル――あるドイツ的運命』の二作品が収められた。
四六判・二段組で、五〇〇頁を超える大部な本を手にしながら、そして巻末には、いかにもこの著者らしい、緻密な訳註と周到な解説が付されているのを目にしながら、池田を駆り立てているこの「情熱」の根拠が瞬時には理解できずに、戸惑った。
収録作品の選定はほぼ終わっているのだろうが、それぞれの巻に関わって、翻訳し、丁寧な訳註を付し、長文の解説を書くという仕事を、まだ一二巻も続けなければならない!
私の戸惑いの理由は、こういうものである。池田は、ドイツ・ナチズムに深い共感を抱いているのではない。
むしろ、逆に、それが果たした歴史的犯罪を批判し、憎み、克服しなければならないと考える立場の人である。それは、初期の仕事、『ファシズムと文学――ヒトラーを支えた作家たち』(白水社、一九七八年)や『抵抗者たち――反ナチス運動の記録』(TBSブリタニカ、一九八〇年。新版、軌跡社、一九九一年)などでなされている。
その人が、いままでもやってきた批判的な批評によってその意図を実現しようとするのではなく、「ドイツ・ナチズム文学集成」なる一三巻もの翻訳・紹介の仕事を、ひとりで果たそうとしている。ミイラ取りがミイラになる(かもしれない)などという心配を、するのではない。
「そこまでの意味があるのだろうか」と、内容を知らないだけに単純に思っただけのことである。
だが、第一巻に収められたゲッペルスの日記を読んで、まずそのおもしろさに「惹かれ」た。内外を問わず、深みのある作品を遺した作家の、非公開を前提とした日記が、読み物としてめっぽうおもしろいことは、多くの人が経験していることだろう。
論理的に緻密な構成のもとに、厳格な文体で書かれた論文であれば、読み手がそれに賛成するか反対であるかは、比較的簡単に決まる。
抒情的・感性的な表現は、好き嫌いは生じるにせよ、一定の表現水準にあるものならば、読み手に想像力の幅が許容される。
共感と反発の狭間で、けっこう楽しみながら読むこともできる。それが、論理的にではなく、抒情的かつ断片的に書かれた、日記的あるいはアフォリズム的な表現がもちうる魅力であり、魔力である。
こともあろうに、ゲッペレスがなした表現に、私自身の心がそれほど否定的にではなく反応することに、驚きをおぼえながら、私はこの「日記」を読んだ。時代状況も異なり、現在の私の年齢は、そこにのめりこむことを私に許さない。
だが、二つの作品の位相は異なるにせよ、たとえば原口統三の『二〇歳(ルビ:はたち)のエチュード』に魅せられた年齢の時になら、ゲッペレスのこの表現は十分に心に染み込む余地があるかもしれない。
ところで、ゲッペルスのこの「日記」にはいくつかの仕掛けがあって、通常の日記ほど単純ではない。
池田によれば、「生涯をつうじて日記にこだわりつづけた」彼は、「自殺の直前にいたるまで書きつづけた厖大な日記によって、ナチズムの実態を明らかにするうえで欠かせない重要な資料を、後世に提供しているが」、「ただ単に日記を付けただけではなかった。日記体で書くことにこだわった」のである。
おびただしい脚色と虚構がほどこされた『ミヒャエル』は、本質的には、日記体の形による小説である。
そのように規定した後の池田の分析が、この作品をあえて「集成」に収めた根拠を物語るものになっている。
「一義的な反応を読者に許さないような、未決定の問題を、日記の書き手が提起するとき」に、この作品は「真価を発揮する」というように。未決定とは、日記の書き手であるミヒャエルが、第一次世界大戦に敗北して屈辱的なヴェルサイユ条約の下におかれた国=ドイツに生きる青年として、「二つの世界の間をさすらう旅人」であることから生じる態度である。
一方には、戦勝国に追従するばかりのヴァイマル共和国支配者に対する憎悪がある。
他方で、ミヒャエルは「金銭(貨幣)がすべてに優越するこの社会の仕組みと通念は廃絶されなければならない」という確信の持ち主でもある。
それは、当然にも、ソ連という形で当時すでに一つの現実的な勢力になっていた社会主義を予感する態度に繋がるはずのものであり、事実、ミヒャエルは「金銭に対する労働の勝利」を実践するために、もっとも苛酷な労働現場のひとつである炭鉱へと赴き、そこで事故死する。
読者をあらかじめ一義的なイデオロギーへと誘引しようとするのではない。
それは、読者が書き手と共に考え、苦悩することを可能にする、参加型の作品である。
この彷徨の状態が、池田によって、「未決定」と名づけられているのである。この分析方法が、私には刺激的で、示唆的だった。
以下に書くことは、池田の思いとは別なところにあるかもしれないが、それは、一九八〇年代半ば、埴谷雄高との論争の中で、多層的に重なった高度資本主義社会の「文化と観念の様態に対して、どこかに重心を置くことを拒否して、層ごとにおなじ重量で、非決定的に対応する」ことを主張した吉本隆明の「重層的な非決定」という概念をも私に思い出させて、時代と空間を超えた問題の広がりも感じとることができた。
ゲッペルスは、しかし、もちろん、単純な社会主義礼讃者には終わらない。この作品の執筆当時、すでにナチ党の首都大管区長として大衆煽動・宣伝の任務に着手していた彼は、以下の事実を知悉している。
すなわち、ヴェルサイユ条約下の屈辱感と共和国体制そのものに対する憎悪を抱えた広汎な民衆感情は、「ドイツは軍事的に敗北したのではなく、銃後で革命を起こした裏切り者たちによって背後から刺されたのだ、といういわゆる『匕首(ルビ:あいくち)伝説』によって、決定的に増幅させられた」。
「未決定」の後の「決定的」(!)。「裏切り者とは、とりもなおさず、マルクス主義者やアナーキストを中心とする社会主義者や共産主義者であり、そのかれらこそは(部分的には事実そうだったのだが)ユダヤ人にほかならないのだった」。
池田も指摘しているように、「青年は、老人よりもつねに正しい」という台詞も、この作品にはある。
老人支配に対する青年の叛逆の礼讃である。作品の主人公と共に、思想的にさまよい歩いた読者が(とりわけ、若い青年たちが)、それと意識せずに「ある新しい世界」に組織されていく作品として、『ミヒャエル』は文学的制覇を遂げているのであろう。
編訳者の周到な解説に導かれて「集成」第一巻を読み終えた私は、書かれてある思想内容への共感・非共感とは別な次元で、人を惹きつけるある種の「力」を感じとることとなった。池田は、この集成の続巻を、以下のようなテーマごとにまとめようとしている。
「英雄伝説の創生」「『第三帝国』への途上で」「植民地と戦争と」(この巻に私がもつ、とりわけの関心については、後に触れる)「『郷土』をめぐる戦い」「女性作家たちの『第三帝国』」「民族性としての神秘主義」「反共と反ユダヤ主義の精華」「屈従と抵抗の果てに」、そして短編小説集、詩・歌謡・行進歌、演劇・放送劇・映画シナリオ集……とリストは続く。
テーマ的には理解できるが、どんな内容の作品が現われるのかは、まったく予測もつかない。やはり大変な作業だな、と思いつつも、考えてみれば私も、その徹底性においては池田の作業には到底及ぶべくもないが、「敵」の作品がもつ意味を軽視したり、無視したりするのはよくないとは考えてきた。
その思いは、時期的には、日本において戦後左翼および進歩派の言論活動と運動状況に色濃く疲弊感が漂い始めた一九八〇年代後半から強まった。その傾向は、一九八九年から九一年にかけて、東欧・ソ連と続いた社会主義圏の体制崩壊によって加速した。
一群の人びとが立ち現われ、「左翼の失敗と敗北」をあざ笑い、「わが勝利の歌」を合唱し始めた。
典型的な例を一、二挙げると、「新しい教科書を作る会」であり、『ゴーマニズム宣言』でエイズ論を描き始めて以降の小林よしのりなどであろう。その歴史観と論理水準を「愚劣!」のひと言で片づける気持ちに、私はなれなかった。
それは、彼らの言説は、現代日本社会に漂う感情をどこかで掬い取っているからこそ、大衆的に受け入れられている側面があり、戦後過程で一定の位置を占めてきた左翼・進歩派に対する、ルサンチマンに満ちた大衆感情が無根拠だとはいえないと思えたからだ。左翼・進歩派が差し当たって「敗北」したことに疑いはない。
そのことに気づかず、「敵」から学ぶこともしないで、相変わらず己の理念と実践の正しさを確信するだけでは、いっそう無残な敗北が待っているだけだ、と私は考えていた。「ドイツ・ナチズム文学集成」にかける池田の含意を少しは理解できたか、と思ったのは、そんなことをふりかえった時だった。
(二)
それから三年を経て、池田の書き下ろしの新著『虚構のナチズム――「第三帝国」と表現』(人文書院、二〇〇四年)は刊行された。
「集成」の仕事を準備し、進行させながら、池田は、やはり、批判的批評の集大成をも書き継いでいたことを、この書で知ることができる。二つの仕事を切り離すことなく捉えること、そこにおいてこそ、この一連の作業に取り組む池田の真意を汲み取ることができる。
著者の問題意識は、「序章 ナチズムの現在」で明らかにされる。ドイツのナチズムは「アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所・絶滅収容所や、秘密国家警察(ルビ:ゲーシュターボ)、『アンネの日記』などとの関連で思い描かれる」ものとしてある。
それを取り囲む「著しいマイナス・イメージは、それ自体としてすでに衝撃的であり、時間の経過につれて忘れ去られていくという種類のものではない」。
その名によってなされた数々の無残な所業が、「一握りの狂信者(傍点)や特定の犯罪者集団(傍点)によって行なわれたのではなく、大多数の「国民」の合意によって、それどころか積極的な協力と参加によってなされた、という否定しがたい事実」こそ、このテーマが「依然として現実的(ルビ・アクチュアル)でありつづけさあせている根拠のひとつ、おそらくは最大のひとつにほかならない」。
それだけでは、ない。その時代に犯された「残虐行為の実情が明らかになったのちにさえ、少なからぬドイツ人が「あの時代は良かった」という実感をいだきつづけた」。
池田は、この「実感」には現実的な根拠があったことを跡づける。
ひとつには、日常の私的な生活実感において、「地位や身分の違いをわきまえることが絶えず問われた」ドイツ社会に生きる人びとが、ナチズムの時代には社会的平等感を得ることができたということ、ふたつめには、ヴェルサイユ条約によって屈辱感を持っていた人びとは、次々と「領土」を奪回し、ドイツをふたたび「大国」にしたヒトラーによって、生きがい・連帯感・誇りを与えられていたこと。これ、である。
こう論じたうえで、池田はいう。「にもかかわらず、生活の実感とそのなかでいだかれた生きがいの実感とのあいだには、じつは無限ともいえる大きな隔たりがあった」と。
では、ナチズムは、その隔たりにどう対処したのか? 隔たりを「直視させないこと、実態ではなく実感を現実といして体験させること」によって。
つまり、「実感の現実感(ルビ:リアリティ)」にこそ、ナチズムの本質的な力がある、と池田の論理は展開していく。
このあたりは、著者の問いかけを、読み手もまた反芻しなければ、容易には読み進めることができない論理構造になっていて、興味深かった。
池田の論理を補強する例証は絶え間なく挙げられていくが、「過去にたいして目を閉じるものは、ついには現在にたいして盲目になる」という一節を、ドイツ敗戦四〇周年時の国会演説に組み込んだヴァイツゼッカー大統領(当時)が、別な機会に行なっている言動を取り上げてその本質的な矛盾を突く箇所や、反ファシズムの教育実践を行なう教師たちのなかに、「学習過程それ自体が民主主義的な形態をとることによって説得力をもつ場合」にのみ「ファシズム的な暴力支配との有意義な対決が行なわれうる」と考える人がいて、かの女が試みた具体例が説明されている箇所などが、とくに印象に残った。
なぜなら、前者、すなわちヴァイツゼッカー発言は、「過去にたいして目を閉じる」保守党政治家が多い日本において、溜飲を下げるかのごとくに反響と共感をかち得てきたからである。
また、後者は、一九三〇年当時(すなわち、ヒトラーが政権を獲得する数年前)のドイツの総人口はおよそ六三〇〇万人だったが、国内のユダヤ人の数は五七万人足らずで、総人口に占める比率は〇・九パーセント弱でしかなかったこと、同時代の世界全体におけるユダヤ人総数は一七〇〇万人であったので、ナチ・ドイツが六〇〇万人のユダヤ人を殺戮したということは、全世界のユダヤ人の三人に一人を超えていたことを意味するという、今さらながらに、驚くべき事実を明るみに出してしまうからである。
「具体的な数値を一目見れば明らかであるはずの単純な事実と、自分の生活実感とのあいだの大きな隔たり」を直視しないという態度は、過去のことではない。池田は、安易なアナロジーに頼ることを慎重にも避けて、日本の歴史と現実に言及することには禁欲的だが、思わず、わが身に照らしてふりかえるよう誘われる箇所である。
「第一部 ドイツの受難と英霊神話の創生」は「レオ・シュラーゲターの衝撃」が、戯曲や論文のなかでいかに表現されたかを検証することから始まる。
一九二三年一月、ヴェルサイユ条約が定めた賠償責任を敗戦国ドイツが履行しないことに業を煮やしたフランスとベルギーはドイツ西端のルールに進駐し、ドイツにとって重要な石炭産地兼工業地帯を占領した。
その二ヵ月後、フランスがルールの石炭を本国へ輸送するのに利用していた幹線鉄道の線路が爆破された。
主犯としてフランス軍に逮捕され、軍事法廷で裁かれて銃殺された二八歳の青年が、レオ・シュラーゲターであった。
右翼諸勢力が彼を国民的英雄として「獲得」していく過程が、多様な目配りの中で描かれる。詳細は本書に譲るが、共産主義インターナショナル(コミンテルン)でドイツ共産主義運動の指導を担当していたカール・ラデックの戦略的な発言が意想外で、おもしろい。
続いて、第二の英霊神話が生まれる。一九二三年一一月、ナチ党はミュンヒェンでクーデタを試みる。
それは「ビヤホール一揆」と揶揄されるような茶番劇に終わったかに見えたが、この決起に参加したが故に逮捕され、釈放されたものの、「権力による弾圧と迫害のために生命を落とした」と仲間たちが解釈した老詩人、ディートリヒ・エッカルトである。
同じ事件で獄中にあったヒトラーは、『わが闘争』の冒頭で、ミュンヒェン蜂起に斃れた一六名の名前を列記しているが、「その最上のひとり」がエッカルトであるとして、彼を特別扱いしている。
エッカルトおよびその後継者たるアルフレート・ローゼンベルクの思想的根拠を探る諸章では、当該の時代の政治・社会・思想状況の中で、具体的にはバイエルン評議会(ルビ・レーテ)共和国やボルシェヴィズム思想との格闘を通して、反ユダヤ主義がせり上がってくる実態が活写されている。
一九三〇年の時代状況に触れた第一部の終章「死者たちも、ともに行進する」では重要なことを学んだ。ナチズムは「褐色のペスト」と呼ばれるほどに、そしてナチズムとその信奉者が「褐色」(ルビ:ブラウン)と形容されるように、着衣も戦闘帽も褐色ずくめであった。
一九三〇年一〇月一三日の国会開会式の当日、国民社会主義ドイツ労働者党の議員一〇七名は、その褐色の制服で本会議場に入り、一大センセーションを捲き起こした。
池田によれば、この褐色の制服は、もともと、ドイツ帝国の植民地のひとつ、ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア、ルワンダ、ブルンジ、モザンビーク北部)のドイツ軍守備隊の制服だったという。第一次世界大戦での敗北によってドイツがすべての海外植民地を失ってのち、不要になったその軍服をナチ党が買い入れてSA(突撃隊)の制服にしたのが、始まりだという。
ナチ党の暴力組織たる突撃隊の前身が形成されたのは、しかし、一九二〇年にまで遡るのだが、この武闘集団は、前年のバイエルン評議会共和国と戦った反革命軍事力――正規の国防軍部隊ではなく義勇軍団――の内部からこそ生まれた。
その中心には、大戦中のバイエルン近衛師団歩兵聯隊長だったフランツ・クサーファー・フォン・エップ将軍の「エップ義勇軍」がいた。池田はいう。
「「騎士」の称号を持つフォン・エップは、かつて一九〇四年から〇六年にかけて植民地の南西アフリカ(現在のナミビア)でドイツ軍守備隊の中隊長をしていた当時、先住民族のヘレーロ(バンツー族の一部族)およびコイ族(ホッテントットと蔑称された)の叛乱(傍点)を鎮圧して手腕を認められた経歴の持主でもあった」。
植民地戦争で「武勲」を挙げたフォン・エップは、その後本国に戻って、ナチ党中枢に駆け上がり、「第三帝国」崩壊時まで国会議員を勤めたという。
私は以前から、ユダヤ人虐殺(ホロコースト)への自己批判までは行き着く戦後ドイツの正統的な民衆意識が、その三〇〜四〇年前の、植民地、南西アフリカにおける虐殺犯罪への捉え返しまではたどり着かない点に、大きな疑問を感じていた(これは、同質の問題を日本社会において私たちが抱え込んでいる、という自己批評的な意識を前提としてこそ生まれる関心である)。
もちろん、例外はあって、ブレーメン大学が、国連ナミビア研修所社会教育部および解放組織である南西アフリカ人民機構(SWAPO)との共同プロジェクトの一環として、OUR NAMIBIA :ASocial Studies Textbook(日本語版『私たちのナミビア――ナミビア・プロジェクトによる社会科テキスト』、現代企画室、一九九〇年)を、ナミビアが独立することになる一九九〇年に向けて出版したことは、歴史の再解釈に関わる旧支配国側からの貴重な努力であった。
それにしても、ナミビア叛乱を鎮圧した手腕を認められた「エップ義勇軍」が本国に帰ってバイエルン革命を打倒する主力になった、という記述を読むと、そこには、歴史解釈上の重要な問題が潜んでいると思われる。
ドイツ思想史家の三島憲一は、かつて、このドイツ・ナミビア戦争(『わたしたちのナミビア』では、ナマ人およびヘレロ人と、ドイツとの戦いは、こう表現されている)に従軍したドイツ人、グスタフ・フレンセンが書き著した戦記物『ペーター・モール 南西アフリカを征く』の叙述方法を簡潔に紹介し、そこには「ドイツ・ファシズムの心性」が見られるとした(「稀書、奇書、危書、貴書」、『図書』一九九八年二月号、岩波書店)。
先住民叛乱を鎮圧するためにドイツ軍に参加した青年の心象風景は、次のように描かれる。「寒い深夜、歩哨に立つと、何代もかけて奥へ奥へと進んだ幌馬車隊の血統につながる誇りがこみ上げてくる。
できたてのドイツ植民地でアメリカ開拓の神話が蘇る。「神が我々に勝利を与えたのは、我々がより高貴だからで、黒人が悪いからではない。……これからも厳しく殺さねばならぬ。……高貴な思想と偉大な行為を通じて、将来に人類が宣教師のいうように、兄弟となるために」。とてつもない論理だが、これが受けた」。
三島が、アフリカ植民地におけるドイツ人のふるまいを「アメリカ開拓の神話」に準えたのは、不思議ではない。
一八九八年、カリブ海のプエルトリコを征服するために米国が派遣した軍艦の指揮を執るのは、その八年前の一八九〇年、スー人のシティング・ブルとその家族の皆殺し作戦を指示し、また、インディアンの聖地ウンデッド・ニーにおいて、スー人のビッグ・フット率いる三五〇名を虐殺した第七騎兵隊司令官、ネルソン・マイルズ将軍であった。
ドイツ軍のフォン・エップの場合は、植民地戦争における「武勲」を盾に本国の戦場へ、米国のネルソン・マイルズの場合は、「国内」叛乱鎮圧の「成功報酬」として米国初の海外征服へ、というように、流れは逆のようだが、いずれも、本国=植民地関係の決定的な時期を画する「事業」ではあった。
そこから導きうる歴史的な教訓は、深く普遍的なものであるように思われる。「ドイツ・ナチズム文学集成」第四巻の「植民地と戦争と」には、いかなる作品が収録されるのか。
植民地主義思想とナチズム思想の歴史的(無)関連性は、どのように解き明かされるのか。どんな反ナチズムの思想が、反植民地主義の思想的な射程をも持ちえていたのか――関心は切実で、一刻も早い刊行が望まれるところである。
(三)
紙数が尽きてきた。「第二部 文化政策の夢と悪夢」では、すでに触れたゲッペルスの『ミヒャエル』をはじめとして、より広汎に、戯曲、記録映画、美術などの表現を通して、いかにナチズム思想の浸透が図られたか、が展望される。
「第三部 主体の表現、参加の文化」では、「ティングシュピール」のように、著者がすでに随所で展開してきた「自発性」を重んじた「文化表現としてのナチズム」が、いっそう精緻に、批判的な分析の対象とされている。
印象的なことばは、いくつもある。曰く、「戦争と軍隊の悪を描くものが、反戦文学だったのではない。戦争と軍隊の悪を描かないものが、戦争体験讃美の文学だったのではない」。
また曰く、「ナチズムは、この感性的・肉体的な作品のなかで、主義思想の次元から、個々人の生活の実感とかかわる次元へと、内面化されたのである。
そして、これこそじつは、文学表現のもっとも本質的な、もっとも豊かな機能であるはずなのだ。この機能を生かすことにおいて、少なくともドイツのプロレタリア文学や反ファシズム文学は、ナチス文学に及ばなかったのである」。
さらに曰く「ちょうどそれと同じころ(一九三〇年代後半のこと――筆者)、過去の歴史に遡及する歴史小説や歴史劇が、第三帝国で、そして反ナチス陣営の亡命作家たちのあいだで、表現の主流となりつつあった。
それらの多くは、みずからのナチズムを問うことはなく、自らのスターリニズムの現在を問うことはなかった。
第三帝国にあっても反ナチス陣営にあっても、それらの作品は、歴史的過去によって自らの感性を問いなおすのではなく、歴史によってみずからの現在を正当化するものでしかなかったのである。
そこには、「第二革命」を希求する民族民衆(ルビ:フォルク)も、「永続革命」を目指す人民(ルビ:ナロード)も、もはやいなかった」。
ここには、池田が若いころから積み上げてきた幅広い研究の成果のすべてが、盛り込まれているように思われる。
世界プロレタリア文学運動の研究、大衆文学への関心、「海外進出文学」の分析、死刑制度への批判的な肉薄……。
そして「急激な破滅への過程がすでに始まっているいま、わずか数年の尺度で歩みを速くしてみても無益だと考える」という「あとがき」のことばが、長大な本書の書き下ろしと「ドイツ・ナチズム文学集成」全一三巻の刊行という、息の長い作業を支える信念を言い表していると思える。
最後にひとつ。ナチズムといえば、対極において思い出すのは、ナチズムが「敵」として対峙した共産主義が孕む問題である。
現在のところ、《ソ連篇》のみが日本語に翻訳されている Le Livre Noir du Communisme: Crimes,terreur etrepression, editions Robert laffont, S.A., Paris, 1997.(ステファヌ・クルトワとニコラ・ヴェルトほか著『共産主義黒書――犯罪・テロル・抑圧』、恵雅堂出版、二〇〇三年)は、この間わたしが、必要に応じては開く本の一冊である。
クルトワは「序文」で、「ナチズムと共産主義の皆殺しについての類似」を指摘し、「ナチスの犯罪の研究とくらべて、スターリンと共産主義のテロルの研究がはるかに遅れている」現実を訝っている。
そして、この本の帯には「なぜナチズムが断罪され共産主義はされないのか」という、宣伝の文句が踊っている。
私は、クルトワとヴェルトが本書で展開している論旨(傍点フル)のすべてに賛成するわけではないが、歴史的事実は見なければならない。
その意味で、ナチズムの全体像を、上に見てきたような深度で批判的に研究している池田も、そこから多大な意味を汲み取っている私のような人間も、クルトワたちの問いを逃れることはできないと思う。
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