現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2004年の発言

書評:池田浩士著『虚構のナチズム――「第三帝国」と表現』2004/12/20

ジャン・コルミエ=著『チェ・ゲバラ――革命を生きる』日本語版監修者序文2004/12/20

玄海灘の両岸で、いまだに彷徨う「骨」をめぐって2004/12/20

書評・酒井隆史『暴力の哲学』2004/11/30up

書評・ノーム・チョムスキー『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』2004/11/30up

敗戦直後の三好十郎の戯曲は何を語るか2004/11/30up

映画評・キューバに関わる映画2本を観て2004/11/30up

戦争に血道を上げる大国、連帯の精神でエイズをたたかう小国2004/11/30up

「9・11」への一視点――報復感情に左右されぬ河野義行氏の冷静な言動2004/9/16up

中曽根『自省録』と、アジアカップにおける反日スローガン2004/9/16up

多様化しはじめた「拉致事件」報道と解釈2004/9/16up

「先住民族との出会い」3題2004/7/9up

人びとの「錯覚」を誘発する情報操作2004/7/9up

どんな水準の文章で大衆意識は煽動されているか2004/6/6up

書評:金芝河著 金丙鎮訳『傷痕に咲いた花』(毎日新聞社、2004年刊)2004/4/30

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◆「人質」事件をめぐる状況の決定的変化 2004/4/16up

◆ラテンアメリカ現代史の中のキューバ映画 2004/4/13up

◆Books not Found (再刊されてほしい絶版本)三好十郎著『日本および日本人』2004/4/13up

◆先人の仕事を検証することの意味 2004/4/13up

◆ハイチ情勢を、歴史的・現在的に読む 2004/3/15up

◆出兵兵士を見送って打ち振られる日の丸の小旗の戦慄と衝撃
 2004/2/18up


◆サパティスタ運動の10年は何を物語るか 2004/2/14up

◆壊れゆく言葉――有事・戦時下の言論状況  2004/2/13up

◆言葉が死んだ時代に・・・ 2004/2/12up

◆『「拉致」異論』批判への短い応答 2004/2/12up

◆特集「どうなる?2004年 年を越す10の課題」の中の「日朝問題」
「政治」以前の言葉に縛られ、展望なく空費された15ヵ月
  2004/2/11up


◆書評『「水」戦争の世紀』  2004/2/11up

◆「現在」と「過去」を歴史に繋ぐ論理――国家犯罪をどう語るか 2004/2/9up

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壊れゆく言葉――有事・戦時下の言論状況
『情況』別冊「反派兵」2004年3月号)掲載
太田昌国

                   一

「給水などの支援活動を予定している」――自衛隊のクウェート到着、さらにはイラク到着を報道するNHKニュースにおいて、最初に「主な項目」を言う時にも、後に詳しく各項目ごとの内容を伝えるときにも、「自衛隊」という固有名詞の前には、必ずこの形容詞が添えられている。

日頃から、NHKに限らずニュース報道で使われる表現については、厳しく見聞きしているほうだと思うが、出兵した日本国軍を形容するために律儀なまでの頻度で用いられるこの文言に、現在の有事・戦時下の言論機関の姿勢が如実に現われている。

NHKの自発性に基づいてなのか、それとも政府・与党の意を受けたものなのかは、私にはわからない。

いずれにせよ、その形容句は、「自衛隊はイラクへ戦争に行くのではない」「(武器を携行するのは)正当防衛のためにだけだ」「テロ・盗賊への武器使用は戦闘ではない」などと言い続けてきた政府・与党からすれば、人びとがその線に沿って考えるように誘う、まことに得難い日々のレッスンの役割を果たしてくれよう。

対イラク戦争の「正当性」と「大義」を大胆に主張している米国からの強硬な圧力の下で、日本政府が国軍出兵に同意したというのは、この間の経緯を見ていれば、誰にも自明のことである。

先日亡くなった日本外務省職員二人の職務が、米英軍の占領行政と切っても切れない関係にあったように、出兵した自衛隊が、米英軍を主体とした対イラク戦争とそれに引き続く占領統治に加担する本質をもつことに疑いはない。

その現実に目をつむるのでなければ、日本国軍のイラク出兵問題を、上のように表現できるはずがない。

(二〇〇四年)一月九日、防衛庁長官・石破は、防衛庁記者クラブ加盟の報道機関に対して、イラクに派遣される自衛隊の取材・報道を自粛するよう要請した。


細目を述べた文章は、一応慇懃をよそおって「(お願い)」と題されてはいるが、「(報道が)防衛庁の円滑な業務遂行を阻害すると認められる場合は、爾後の取材をお断りする」との但し書きがある。

北朝鮮による日本人拉致報道をめぐって、被害者を「救う会」と家族会は、自らの意向に沿わない報道を行なったメディアを取材の場から締め出すと恫喝して、言論・報道を一元化することに成功したが、その「教訓」がすぐ応用されていると言える。

報道の自粛を「お願い」しているのは「(1)部隊、装備品、補給品等の数量」に始まり8項目が続くが、最後に「(9)その他、部隊等が定める事項」とくる。

往時の「大本営発表」なるものを、私は文献でしか知らない人間だが、この優しげな「お願い」が強面の「大本営発表」に等しいと捉えるべきことは、すぐにわかる。

これに対するマスメディアの反応を見るかぎり、「大本営発表」を「優しく強制されていること」への驚きも反発も怒りも、見られない。図に乗ったのであろう、一月一三日、防衛庁官房長・北原巌男は、同庁幹部や自衛隊幹部の定例記者会見を大幅に縮小する方針を示した。

副長官、官房長、陸海空の三幕僚長の定例会見を打ち切り、防衛庁長官、事務次官、統合幕僚会議議長の会見に絞るというのである。

防衛庁の記者会見が他省庁に比べて多い理由は、メディアの外にいる人間にも明快なことだ。

自衛隊は発足当初から、現行憲法九条との関連性を問われざるを得ない存在だった。

政府・与党のごまかし言葉にまだしも敏感であった当時のメディアは、自衛隊のあり方を常時監視する一方法として、責任者との頻繁な会見が必要だと考えたのだろう。

防衛庁もまた、その要求を撥ねつけることができるほどは「強く」なかった時代が続いていた。

情報開示がますます重要な時に、あえて記者会見の回数と規模の縮小を図るとは、明らかに、報道管制へと大きく踏み出したことを意味している。

ここに至っても、新聞・放送・通信などの報道機関二一社で構成されている在京社会部長会・政治部長会が行なった対防衛庁への申し入れは、次のように言う。


「情勢と安全に常に細心の注意をし、報道が自衛隊員等の支援活動阻害や危険につながらぬよう配慮することはメディアにとって当然」である、と。

さらに「現地から継続的かつ正確に自衛隊の活動状況などを国民に伝えることが我々に課せられた責務」と、メディアとしての使命感を述べている。

自衛隊を「わが軍」と呼びかねない寸前の意識である。仮に戦争報道の中に身をおくとして、米軍、日本軍、それに「敵対」する勢力すべてを対等な視点で捉える場所に自らを位置づけるのが、客観性というものだろう。

戦争報道における客観性と中立性とはどういうものかという原則をすら、日本の主要メディアは確立していないことがよくわかる。

防衛庁の「お願い」は、現状では、十分にその意図を達成できるだろう。
 
                   二

アジア経済研究所研究員・池内恵が二〇〇二年一月に刊行した『現代アラブの社会思想:終末論とイスラーム主義』(講談社新書)を、私は興味を大いにかきたてられながら読み、今までこんなふうにアラブ社会を紹介してくれる人はいなかったなと考え、感心した。

要するに、現代アラブ社会には、自らの社会の内部構造に起因しているかもしれない出来事もすべて、欧米の政治・政策の責任に帰してしまいがちな言論が溢れている。

社会的な影響力の強い聖職者・知識人・大学教授らが、宗教書・歴史書・思想書でそのように主張し、一般の庶民が見聞きするテレビ、コミック、ポピュラーソング、一般書においては、その傾向がいっそう強まる。

それは、知的閉塞だ、と池内は言う。こうして、(二〇〇二年)「9・11」をめぐってすら、自らのあり方を顧みることの少ない陰謀説が跋扈するゆえんが、池内のこの書では、明快に抉られていたのである。

それは、私がアラブ社会を長年見つめながら、ぼんやりと感じていた問題点を的確に指摘するものであるように思われた。

私は、イスラエルや欧米諸国(特に米国)の、それぞれの歴史段階における対アラブ・パレスチナ政策に共感をおぼえる立場にはなく、むしろそれに批判的だが、後者を「全(ルビ:まった)き善・全き被害者」として「ロマン化」することの間違いにも自覚的でありたいと考えて
いた。

その思いは、とりわけ、一九九一〜九二年にかけての、イラク軍のクウェート侵攻からペルシャ湾岸戦争の過程を見ながら、強まった。

米国が行なったイラク攻撃が許されるべきものでないことは、私にとっては自明のことだったが、イラクの独裁者=サダム・フセインが、米国に対決しているかに見えるその一事を持ってアラブ社会で一定の支持を得ているらしい光景に、大きな違和感をおぼえていた。

パレスチナ解放勢力のPFLP(パレスチナ人民解放戦線)が、フセインをめぐる批判・評価を曖昧にしたまま、米国批判に純化した論議を展開したことにも、アラブ世界が抱える問題を不問に付した態度が透けて見えて、これでは違うという思いが消えなかった。

だから、池内のその仕事は、アラブ・パレスチナ社会の矛盾を、その社会に十分な愛着を持つ外部者が抉り出しているものとして、示唆的だった。

この書で注目される前後から、池内は、月刊誌にもたびたび登場して、アラブ社会の分析を行なっていた。

もちろん、短期間のうちに発表される文章ゆえ、繰り返しもあったが、信頼に値するアラブ研究者として私は熟読していた。

アラブ社会を「的確」と思える視角で分析していた池内は、日本国軍(自衛隊)のイラク出兵が具体化する昨年後半あたりから、日本の対イラク政策に関して発言する機会が増えるようになった。

数例を挙げてみる。「イラク“対テロ”戦争に、不戦敗は許されない」(『諸君!』二〇〇四年一月号)、山内昌之との対談「『骨太ニッポン』が米とイラクの緩衝材になる」(『諸君!』同二月号)、「民生向上実現し人心安定を」(『朝日新聞』同年一月一日付)、船橋洋一、江畑謙介、岡崎久彦、宮崎哲弥との座談会「日本の岐路:自衛隊に帰還の日は来るか」(『文藝春秋』同二月号)――などである。

これらを読んで、私は、アラブ社会について鋭い批判的な分析をした池内の最初の仕事を読んだ時には、彼が米国や日本の外交政策に関して、ここまで杜撰な捉え方をしているとは思いもしなかったな、と振り返らざるを得なかった。

米軍の攻撃と占領統治を受けているイラク民衆の心理分析を行なう時の池内は、相変わらず、その陰影ある心の襞を読み抜いているように思える。

そのすべてには同意できないにしても、複眼的な視点には学ぶものがある。

だが、「今回のイラク戦争に対する反対が最も少ない国とは、イラクであるといってよい。声高な反対が聞こえてくるのは、直接の影響が及ばない周辺アラブ諸国や西欧諸国からであるというのは皮肉な話である」(「イラク“対テロ”戦争に、不戦敗は許されない」)といった類の議論が出てくるのをみていると、国際政治における諸国間の公平・対等な関係のあり方や、実現されるべき平和のあり方に関して何ら顧慮することなく、池内が地域研究専門家としてのみ振る舞っていることがわかる。


この間の池内の議論にあっては、米国のイラク攻撃も占領統治も、さらには日本の自衛隊派遣も、物事を考えるうえでの揺るぎない前提である。

実現された(されつつある)現実を批判的に捉える視点もないままに政策提言的な物言いをすれば、それは、当然にも、その政策を補完するものにしかなり得ない。

「日本としては、やはりあなた方(イラクの人びと)に豊かさを提供するために来た、平和と復興のために来たということに尽きる」「できるならゼネコンをイラクへ連れていって、自衛隊がそれを護衛するほうが良かった」「航空自衛隊の派遣で心配なのは、イラク人から『日本は飛行機で武器を運んでいる』と見られる点です。


日本は平和のために来たという、露骨なまでの演出をし、同時に内実も満たすことが必要」(いずれも「日本の岐路」における発言)などを見ると、日本の位置を客観的に分析する視点をここまで欠く池内の現在に、物悲しい思いがする。

先に述べたように、彼がアラブ社会の研究者として、消えることのないすぐれた分析を残している人物であることを思えば。

                    三

二〇〇一年九月一一日以降、世界に現われている「平和と戦争」をめぐるまったく新しい時代の様相を考える時、この状況を主導的に生み出した米国現政権の独善的な政策と、日本社会に住む私たちからすれば、それに無批判的に追随するばかりの日本政府の政策こそに最大の罪があることは、私にとっては自明のことである。

だが、この政策が社会の中に浸透していくに当たっては、上に見たような、メディアに登場する合唱隊の役割が大きい。

問題を捉える視野を狭くし、選択肢も狭め、物事を一面的に語る。

「戦争と平和」の問題を根本的な理念を放棄した地点で語り、ひたすら現状追随的になる。

ことが国際政治に関わるものである以上、当然にも、強者として振る舞うものたちが力任せ(軍事力)につくりだした現実に合わせた「解決」策しか、そこでは提示され得ない。そこでは、どんな声が消されてゆくのか。

マスメディアのように、中立性をはなから放棄し常に「日本」や「日本自衛隊」に自閉する意識の下で報道競争が繰り広げられる場合、それは、ペルー大使公邸占拠・人質事件や拉致事件の場合のように、イラクを舞台としながら日本に発し日本に回帰する「国策」としてしか語られることはないだろう。

なかに、イラクやアラブ社会全体に通じた専門家が現われて、なるほどと思わせる、アラブ世界の鋭利な分析を行なっても、その論者がまっとうな「国際感覚」を欠いた人物であるときには、その地域研究の成果は、かつての植民地時代のように、「国策」の枠内に見事におさまってしまうだろう。

その意味で、私たちの眼前に展開しているのが、まぎれもなく、すでに有事・戦時下の言論状況である。

 
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