新年や天皇の誕生日に行なわれる「皇居一般参賀」で、防弾ガラスの彼方に立つ天皇家一族に対して打ち振られる日の丸の小旗がテレビ画面を覆い尽くすときだって、決して平穏なこころで見ることができるわけではなかった。
昔話になるが、1972年札幌で開かれた冬季オリンピック大会のスキージャンプ競技で、日本の選手たちが高位の成績をおさめたとき、メディアがこぞって「日の丸飛行隊」と呼んだことにも、こころを逆なでされるような嫌悪感をいだいた。
しかし、去る2月2日から3日にかけて、陸上自衛隊旭川師団の「本隊の先発隊員」90名がイラク出兵のために出発するに際して、旭川や千歳で留守家族や留守部隊員が打ち振る日の丸の小旗を見たときの、曰く言いがたいまでの戦慄と衝撃は、いままでのものとは比べものにならない質のものだった。
それは、あくまで、70年か60年前の歴史的記憶で、当時の新聞・雑誌や、そのころを描く映画・小説などで見かけるものであって、私たちの眼前で繰り広げられることになろうとは(不覚にも)思わなかったからだ。
さらに、日の丸が打ち振られる以前から、旭川の街頭や街行く人の胸には黄色いハンカチが目立ち始めていたという。
山田洋次の映画「幸福の黄色いハンカチ」にヒントを得て、出兵した自衛隊員の無事の帰国を祈るシンボルだと、発案者たちは説明している。
いささか気恥ずかしいヒューマニズムのレベルに終始する山田洋次の映画に感心した記憶はほとんどなく、あの映画にも本質的な「甘さ」が孕まれていたとはいえようが、知恵者はその「甘さ」に見事に付け込み、高倉健を自衛隊員にすりかえてまで、論理を排除して情緒に訴えるという、この社会では奏功しやすい手段に出たようだ。
これらが、2004年初頭に、私たちの目の当たりに繰り広げられている〈表現〉の形である。黄色いハンカチ運動などは、かつての「千人針」運動と本質的に違わないではないか、という問題提起を行なう人すら、マスメディアの中では少ない。
世論調査なるものがどこまで信頼に足るものかは別としても、国軍=自衛隊の派兵が本格化して以降、それまで派兵に反対ないしは慎重論のほうが多かった世論は、一気に賛成派多数に傾斜している、と各メディアは伝えている。
「行ってしまったものは仕方がない」ーー既成事実に合わせてずるずると軸足をずらすこの社会のあり方が、再び三度繰り返されていると言える。
政府・与党の責任はあまりに明白なことで、ここでは触れない。軸足をずらすように世論を誘導している責任を負うべきは、メディアと、そこに出ずっぱりでよしなしごとを語り、書き続ける一群の人びとである。
現在のメディアの恐るべき水準を物語る例は枚挙に暇がないが、さる1月8日、イラク取材を予定している記者たちが、朝霞の自衛隊駐屯地で自衛隊員から安全対策訓練を受けたということを、何の恥ずかしげもなく報道している事実などは、その最たるものであろう。
それを経た記者たちが、派兵先のサマワ現地で繰り広げている取材方法が、米軍がイラク攻撃の際に開発した「エンベッド(埋め込み)」方式と本質的に異なるものではないことは、テレビ画面を通して、透けて見える。
ペルー大使公邸占拠・人質事件のときにリマに殺到した日本のメディア陣が、事件の本質報道から遠く離れて、仲介者の司教の追っかけ取材などに精力を注いだように、今回もイラクの現状を離れて、自衛隊員が動く後を後追いするだけの翼賛報道になっていることは、すでに明らかになっている。
私たちは、徒労と思わずに、これらの報道内容に対する批判を積み重ねる必要がある。
今回は言論人に触れる紙幅はないが、私が以前のこの欄で評価した『現代アラブの社会思想:終末論とイスラーム主義』(講談社新書)の著者、池内恵がこの間行なっている国策的な提言のいかがわしさについては、『情況』別冊「反派兵」特集号(2004年2月)で触れた。
少数派ではあるが、もちろん、マスメディア内部にあっても、独自の取材に基づいて勇気ある見解を述べる人はいる。
毎日新聞2月3日付「記者の目」では、バグダッド駐在の斎藤義彦が「今からでも遅くない、勇気ある撤退すべきだ」との主張を行なった。
翌4日の同紙では、米軍のイラク攻撃が開始された当時ワシントン特派員だった斗ケ沢秀俊が「大量破壊兵器は不在で、『戦争の大義』は崩壊したのだから、日本の首相の対米追随に異議」を唱えた。
アラブ世界に詳しい東京新聞特報部の田原拓治は、5年ぶりに訪れたイラクから、自衛隊に「万が一、撃たれても撃つな」と呼びかけた。
主観的にはどうあれ、占領の一翼を担う自衛隊は、「撃てば日本も占領者」という事実を15億人のイスラーム圏で追認することになるからだ、と田原は言う。
相手側が繰り出してくる〈表現〉を批判する場所はまだまだ作り出すことができる。現状追認に陥って、ずるずると言論と行動の軸足をずらすこと__私たちが自戒すべきは、その点に尽きる。
※ ※ ※
編集部と相談して、今回から連載の題名を変えた。気分を転換したかったからだ。この題名は編集部の提案によるものだが、暴飲暴食・無芸大食の者にはふさわしいと受け入れることにした。
〈食う〉のは、生物の本源的な行為で、それを客観的に描けば、武田泰淳の「もの食う女」のような短篇の佳作も、辺見庸の「もの食う人びと」のように印象的なノンフィクション作品も生まれる。
自分の食い方を表現すれば、「美味礼賛」のようになるのが落ちか、その国内版として森茉莉になるのか、それとも「あれも食いたい、これも食いたい」の東海林さだおのようになるのか、それは本人にもわからない。
いずれにせよ、喰らう対象としての〈表現〉は、いままで以上に広く取りたいと考えている。これまでにもまして厳しく批判的なご愛読を乞う。
|