世界を見ても、日本を見ても、ほとんど「ない」としか思えない「希望」を、あえて求めようとするなら、次のようなことだと思います。
それは、(私自身がそうですが)多くの人びとが感じているだろう(もっているであろう)「崩壊感覚」をバネにして生まれてくるかもしれない「反発力」です。「かもしれない」としか書けないところが口惜しいのですが、実際に、その程度のものでしょう。
なにゆえの「崩壊感覚」なのか。
ひとつには、アフガニスタン、イラク――と続けられている二一世紀初頭の、不条理な、あまりに不条理な侵略戦争を前にして、生まれてくる感覚です。
「開戦」前に、反戦運動があれほど世界的な盛り上がりを示したにもかかわらず、大国のとびきり愚かな政治指導者の政策を食い止めることができなかったこと。
いまなお強行されているその戦争で、アフガニスタンとイラクを合わせて一〇万人以上の死者が出ている現実を見せつけられていること。
諦めずに、なし得る何事かを持続している場合でも、ふと独りでいる時に襲いくる「無力感」は相当なものです。
ふたつには、憲法九条の規定と、自衛隊の存在をめぐって、欺瞞に欺瞞を重ねてきた日本の戦後史が六〇年目を迎えたいま、生まれてくる感覚です。
さらに上乗せできる欺瞞がありえたのか、と驚くほどの「論理」を駆使して、日本の現政治指導部は、ひとつ目に触れた戦争に参戦しました。
こんな時代を招来するために「戦後史」はあったのかという「徒労感」も相当なものです。
最後には、日本と世界各地を襲う自然の猛威を見て、生まれてくる感覚です。
いまだその脅威にわが身がさらされていないので、いささか客観的な物言いになりますが、それは、聖書や各地の神話が語ってきた「天地創造」をすら思わせるほど強烈なものです。
私たちが培ってきた人生観・生命観が激しく揺さぶられていることを、私は実感しています。
人為的で、愚かな、したがって食い止めることができるはずの戦争と、人になし得ることは限られている自然の「反逆」の狭間で、私たちは「崩壊感覚」にさらされている。
根源的な問いを自らに発して、自力でそれへの答えを見つけ出さなければ、私たちはそこから抜け出ることはできない。「崩壊感覚」をバネにした「反発力」が、この時代を変える強靭な思想と行動を生み出すかもしれない。
一縷の希望を託しているのは、そのことです。
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