【この文章は、インディアス群書第5巻『サパティスタの夢』の付録「『インディアス群書』通信 13」に、太田昌国が「インディアス群書編集部」の名で寄せた文章です。
トゥパマロスとサパティスタ
「インディアス群書」編集部
一
インディアス群書第五巻にもともと予定していたのは、トゥパマロス著『義賊トゥパマロス――引き裂かれる都市空間』(太田昌国=編訳)であった。ウルグアイの都市ゲリラ=トゥパマロスが活発に活動していたのは一九六〇年代前半から七〇年代前半にかけての、決して長くはない、おそらく一〇年ほどの期間である。当時は、現在ほどの情報化社会ではなかったから、日本での報道は少なかった。
ただ、基本的には農村ゲリラが多かった当時のラテンアメリカ地域において、南米のブラジルのサンパウロとリオデジャネイロ、アルゼンチンのブエノスアイレス、ウルグアイのモンテビデオなどで活発化していた都市ゲリラは、都市部の特性を当然にも生かして、要人誘拐人質作戦、ラジオ・テレビ局を一時的に占拠しての宣伝活動、監獄からの脱走作戦などの、結果的には社会一般の耳目をひきつけるめざましい作戦を展開していたので、それらの事件が起こった時には日本でもマスメディアの報道で取り上げられることが、まま、あった。
トゥパマロスは、なかでも、作戦遂行の手際良さで際立っていたように思える。当時の多くの解放(革命)闘争は、世界のどこであれ、どんな手段を取るにしても、「体制やそれが代表する利益に強烈な打撃」を与えることが目的で、「無実な人びとの中から犠牲を出す」ことは慎重にも避けるという原則を貫いていた。
掲げている目標からすれば、それは当然のことではある。だが、昨今の「抵抗闘争」「反体制運動」の中には、民衆を殺傷することに何らの痛みも覚えていないという印象を持たざるを得ないような作戦を行なうものが出始めている。
(地域・国によって特定できる時期が異なるので曖昧な表現になるが、大まかに言えば二〇世紀末、一九八〇年前半に、ペルーで「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」が活発な活動を始めたころが、ひとつの節目として強い印象に残っている。千年王国的な思想の力と日常的な実践力で貧しいアンデスの民を惹きつけ、容易には服従しない人びとには冷酷な「テロ」を発動したこの組織については、カルロス・デグレゴリほか=著、太田・三浦=訳『センデロ・ルミノソ』、現代企画室、一九九三年刊を参照)。
それにも乗じて、抵抗運動の担い手にすべて「テロリスト」のレッテルを貼って済ませるという、欺瞞的な言辞を弄する者も絶えない。
とりわけ、米軍を主力とする多国籍軍による侵略と占領下にあるイラクにおいて、それに抵抗していると自らを位置づける一部の武装勢力が行なってきているイラク民衆を主要な犠牲者とする軍事作戦や、外国人旅行者誘拐ならびに人質殺害事件を見聞きしている現代人の俗耳には、まったき否定的な呼称としての「テロリスト」は、ごく自然に入りやすいものとなっていると思われる。
トゥパマロスは、その意味では、革命組織が当然にも持っているべき「倫理」を持ちえていた、いまとなっては懐かしさをすら覚える時代を象徴するゲリラであった。
トゥパマロス運動の発端は、都会モンテビデオからは離れた奥深い北部、アルゼンチンとブラジルに挟み撃ちにされているような地域のさとうきび労働者が、無権利のまま大土地所有制のくびきの下にあった状態に終止符を打ち、組合結成の合法化を求めることにあった。
ラテンアメリカでは特異な白人国家=ウルグアイは、近代ヨーロッパ的な価値観を身につけた都市部中産階級の増大を背景に、すでに一九二〇年代から「福祉国家」であることを誇り、支配層は「南米のスイス」と自賛することもあった。
さとうきび労働者は、いわば、その陰に見えない存在として押しやられていたと言える。そのさとうきび労働者が、一九六〇年代初頭、権利獲得のための平和的な集会・行進を開始したとき、それを迎えたものは、警備の警官による発砲であり、政府支配層はもとより、左派を含めた既得権利を有する諸政党および労働組合の冷淡な無関心さであった。
だが同時期に、繁栄を誇ってきた都市部でも、「福祉国家」の虚構を剥ぐ現実は進行していた。ウルグアイは輸出産品の八〇%を牧畜製品・農産物・農産加工品等の一次産品が占めているという、典型的なモノカルチャー的産業構造にあった。
第二次世界大戦および朝鮮戦争などを背景にした輸出好調の時期が終わり、一九五〇年代末以降に起こった第一次産品の国際価格の暴落をうけて、インフレ・高物価・失業などの現実が襲いかかってきたときに、都市部の中産階級住民のみがその恩恵に浴してきた「福祉国家」体制は崩れた。
さとうきび労働者の組織化に取り組んできた一部の活動家が、平和的・合法的な道を閉ざされて最初に行なったのは、大きな企業の倉庫や商店から食糧品を徴発し、それを都市周辺部に住まう貧しい住民に配布するという作戦だった。
数年間にわたってこのような作戦のみに従事してのち、彼らは「トゥパマロス」の名をもって公然と登場したので、この人びとは「義賊」であるという評判が受益者たちの間には生まれたのである。トゥパマロスの名は「トゥパック・アマル」に由来している。インカの統領トゥパック・アマルは一五七二年、「征服者」スペイン人によってクスコの広場で処刑された。
それから二世紀後の一七八一年、現ペルーのクスコ周辺で起きたスペイン植民地支配下で最大の先住民族叛乱の指導者で、「インカ皇帝トゥパック・アマルの正統なる末裔」と称して自らトゥパック・アマルを名乗った本名ホセ・ガブリエル・コンドルカンキもまた、報復的に八つ裂きの刑で処刑された。
このふたりの名前に因んでトゥパマロスは命名されていると言えるが、ウルグアイの歴史にとくにこだわって解釈して、一八一〇年代に現ウルグアイ領を根拠地にスペインからの独立闘争をたたかったガウチョ(牧童)ホセ・アルティガスらのクリオージョ軍団が「トゥパマロス」を名乗っていたことにも触れておくべきだろう。
トゥパマロスがその名で行なった最初の行動は、一九六五年八月、ウルグアイにある西ドイツ化学企業バイエル社倉庫の爆破であった。
ベトナムを侵略している米国に毒ガスを供給しているから、その中止を求めるというのが、理由であった。
この年の二月には米国が北ベトナムに対する爆撃を開始しており、それをうけて三月に南ベトナム民族解放戦線は全世界に向けて「道義的・物質的援助と、義勇兵を受け入れる用意がある」という趣旨のアピールを発しているから、明らかにこれに呼応した作戦だといえる。その後トゥパマロスが行なった二、三の作戦に触れてみる。
「獄中同志奪還エストゥレーヤ作戦」というものがあった。これは、獄中に囚われ、活動の自由を奪われ、拷問にさらされている仲間を奪い返そうという作戦である。
一九七〇年前後にこの作戦が三回にわたって実現したとき、日本では「ウルグアイの政治犯がトンネルを掘って集団脱獄」と報道され、私たちはその奇想天外ともいえるニュースに唖然としたものであった。
後日、作戦従事者が記録した詳細な実録を読むと、当然にも獄の内外ではそれぞれが周到な打ち合わせと準備を経て、作戦の実行に至ったことがわかり、読み物としての(あえて言えば)「おもしろさ」は相当なものであった。政治囚が同じ房で集団生活し、調理・食事や読書会や誕生日パーティを共にし、演劇・音楽サークルを作り――などという「自由さ」に溢れていることは、驚きだった。
だから、三六人もの政治囚が集団で一斉脱走するなどという出来事も起こり得たのだ。一般に、超法規的な逮捕・拘束・虐待・拷問などが常態化している第三世界諸国にあってさえも、監獄内処遇は、厳格で抑圧的な日本では想像もつかないほどに「緩やかな」場合が多々見られる。「矯正」の趣旨に即していえば、明らかに、日本のほうが異常なのだろう。
誘拐人質作戦も行なった。衝撃を与えたのは、一九七〇年、それまで決して人質に危害を加えることのなかったトゥパマロスが、ひとりの米国人人質を処刑した事件だろう。
北アメリカ人、ダン・ミトリオーネはAID(国際開発協会=第二世銀)所属の専門研究員というふれこみで、当時ウルグアイに滞在していた。
トゥパマロスは、秘密裏の独自調査によって、ミトリオーネはトゥパマロス壊滅作戦を行なっているウルグアイ警察・軍隊に対する技術援助(逮捕した人びとに対する虐待と拷問の「技術」も含めて)をほどこすために、国際援助機関職員を装って派遣された人物であることを突き止めた。
この身辺調査に基づいてトゥパマロスは彼を拘束し、「人民監獄」に捕えて訊問を行なった。ミトリオーネはやがて自らの任務を自白した。
トゥパマロスは、中立的な国際機関を通しての「援助」の名の下に、大国が小国を支配している現実を、彼の自白に基づいて暴露する一方、獄中政治囚を釈放するならば、ミトリオーネも解放すると提案したが、ウルグアイ政府はこれを拒否した。そこで、トゥパマロスはミトリオーネを処刑した。これは、トゥパマロスにとっても、例外的な事態だった。
同じ時期にトゥパマロスが拘束した、もうひとりの米国人の場合には、やはり国際援助機関職員としてウルグアイ入りしている人物だったが、ある病気を患っていることがわかったために医師でもあるトゥパマロス・メンバーの十全な看護をうけ、ある病院の前で解放されたときには、完璧なカルテと心臓博動計を持たされていたという。
ここに挙げたのは、トゥパマロスの活動の、ほんの数例にしか過ぎないが、これらの興味深い文献から取捨選択する編集作業と、分量的にみて半分以上の翻訳は、かなり以前に終わっていた。
二
ラテンアメリカ史の記述においては、世界的にみても、日本での研究状況をみても、スペイン植民地支配に対する先住民族の抵抗を過小評価するか、まったく触れないものが依然として多い。だが、『義賊トゥパマロス』の編集作業の過程で、ウルグアイ史の分厚い書物をひもとけば、興味深い史実が明らかになった。「征服」初期の段階で、現ラ・プラタ川流域にはおよそ六万三千人の先住民族が居住していたと推定されている(詳しくいえば、現ウルグアイに相当する同川北東部に五千人、現パラグアイに相当する内陸部に二万八千人、現アルゼンチンに相当する南部に三万人である)。本群書の読者にはお馴染みのラス・カサス著『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(第六巻、石原保徳訳)によれば、ラ・プラタ川流域に達したスペイン人「カピタンたちは、その地がスペインからはるか離れたところにあり、他のところに出かけた仲間にくらべてはるかに自由に振舞うことができたし、その暮らしぶりは秩序や正義などというものは眼中にない、といった有様であった」
ラス・カサスはさらに、次のようにも述べている。「ある悪逆なる総督は、いくつかのインディオの集落に食糧徴発のため配下を派遣し、要求に応じなければ皆殺しにせよと命じた。
このような全権を与えられて目的地に向かった彼らは、敵の到来とばかりに彼らに食糧供出を拒んだインディオにむかって剣をふるい、約五〇〇〇人を殺害した。しかし、このときインディオたちがそのような態度に出たのは、物惜しみをしていたからではなかった。それよりも彼らは、自分たちの敵であるスペイン人の目の前に出るのが恐ろしく、なんとか逃げ出そうとしたた
めであった」
ラス・カサスが憤怒も抑えがたくこのように書きつけた後に、そのまま「征服」がすんなりと進められたわけではないことを証す書物が、先に触れた浩瀚な『ウルグアイ史』である。(Francisco Bauza, Historia de la DominacionEspanola, tomo 1. 2. 3 y documentos de prueba, Montevideo, 1929. など)。
それによれば、ラ・プラタ地域にスペイン人が初めて到着したのは、コロンブスのエスパニョーラ島到着から二〇年後の一五一二年であった。
フアン・ディアス・デ・ソリースを隊長とする船隊は、同地の先住民族、チャルーア人の友好的な歓待を受けたが、これに暴をもって報い、このため四年後の一五一六年、ソリースの第二次遠征をチャルーア人は先制攻撃をもって迎え撃ち、ソリースを殺して船隊を敗走させた。
その後も「征服者」の船隊は何度も現ラ・プラタ川周辺の海岸に達するが、チャルーア人を主力とする抵抗にあって、ついに一五八〇年までこの地に戻ることはできなかったという。(「ラ・プラタ」は「銀」を意味するスペイン語だが、これも、侵入を試みた同地には豊富な金銀鉱山があると信じたスペイン人、セバスティアン・ガボットの命名によるものである)。
こうして潰走した「征服者」の一部は、グアラニ人の土地を侵しつつパラナー川をさかのぼり、一五三七年にアスンシオン市(現パラグアイの首都)を建設した。
以後、チャルーア人は、この植民市と海岸線の双方からやって来る「征服者」軍とたたかわなければならなかったが、当時のアメリカ大陸全体をみても稀なほどの徹底した戦闘を挑んだという記録が残っている。
一六〇三年に「チャルーア殲滅戦」を指揮して敗退したアスンシオン総督エルナンド・アリアス・デ・サアベドラはスペイン国王に宛てて「もはやウルグアイの土地を武力によって征服することは不可能であり、チャルーアに対してはキリスト教の説教を通して、魂の征服を図ることのほうが適切であります」と具申している。
以後スペイン本国は、一六一七年に設置したリオ・デ・ラ・プラタ総督の指揮の下で、「布教による順撫作戦」を採用しつつ、先住民の間にわずかなりとも抵抗や叛乱の動きを察知すると、「絶滅作戦」を軍事的に展開することをためらうことはなかった。
チャルーア人はスペイン人との戦闘ごとに死傷者を増やし、現ウルグアイ北部の内陸地帯へと追い詰められていった。一八〇〇年、副王は、なお抵抗を止めないチャルーアの地に遠征軍を派遣したが、これに従軍した年代記作家は次のように記している。
「(チャルーアは)あたかも自分たちの側には大軍がついているかのごとく、ひとりででも、ふたりででも、気力充実させて戦った。降伏を望んだ者は誰ひとりとしていなかった」。しかし、遠征軍はアラペイ川沿いにあったチャルーアの二部落を破壊し、最後には北部タクアレンボー周辺にあった最大の野営地を襲った。
現ウルグアイの地に先住民の姿が途絶えたのは、一九世紀初頭であった。実に三世紀におよぶ抵抗であった。チャルーアが最後に追い詰められた地は、二〇世紀後半になって「トゥパマロス」が登場するきっかけとなる、さとうきび労働者が働く土地である。
その後人為的につくられることになるウルグアイの国境線にのみこだわって歴史を顧みることは、方法的な誤りにも繋がるだろうが、ある土地に刻まれている重層的な歴史が、それぞれの時代を生きる人びとの記憶に遺されていくことは当然だろう。
一九六〇〜七〇年代「トゥパマロス」の理論と行為の軌跡をたどることは、こうして、ウルグアイに留まらず広くラ・プラタ川流域の歴史過程にも迫り得るものになるかもしれないと予感していた。
三
このように編集・翻訳・解説の作業をかなりの程度にまで進めておきながら、編訳者の非力があって、一気に詰めることができないままに、歳月が経った。そして、一九八〇年代半ばの時代状況の中で構想された「インディアス群書」は、その段階では予測し得なかった歴史的な激動にさらされることになった。一九八九年から九一年にかけて連続的に起こった東欧・ソ連社会主義圏の共産党(労働党)独裁体制の崩壊現象である。
社会主義的な理念にはその失敗を克服してなお生き残るべきものがある、あるいは否定しがたい悲惨な社会主義の現実を前にしてもなお理念の真髄は救抜されなければならないと考える者からすれば、あの極度に抑圧的な、党=政府=軍が一体化した特権階級によって牛耳られた体制が崩れ去っていくことには、前向きの意味があった、といえよう。その点、編集子は米国の言語学者、ノーム・チョムスキーの次の言葉に共感している。
「社会主義がレーニンやスターリンの専制を意味する限り、正常な人は『私はいらない』と言うであろう。さらに、そのような意味での社会主義が企業=国家資本主義に対する唯一の代替であると考える限り、人々は、資本主義の権威主義的構造を唯一の理性的な選択肢として選ぶであろう。
ソ連体制の崩壊により、これまで権力体制からの教条的・抑圧的攻撃に押し潰されていた自由主義的社会主義のいきいきした思想が復活する機会が訪れている。
見通しがどの程度明るいかはわからないが、少なくとも一つの障害物はなくなった。その意味で、ソ連の崩壊は、ファシスト権力の敗北と同様、社会主義にとってささやかな勝利なのである。」
(『アメリカが本当に望んでいること』益岡賢=訳、現代企画室、一九九四年)。
さて、この段階で編集子が直面した問題は次のようなことである。
ソ連崩壊によって東西例冷戦体制も終わりを告げた。ソ連体制が無残に崩れ落ち、冷戦構造も消滅してみれば、世界を覆い尽くしたものは、資本主義勝利の讃歌であり、社会主義敗北の挽歌であった。
かつてなら従来のソ連や中国の社会主義体制について厳しい批判を行なってきた者にしても、(広い意味での)社会主義的な思想に依拠して、資本主義批判を活発に展開することはできた。
体制批判の理論的エネルギーの源泉は、そこにあったからである。社会主義と資本主義の対立という現実的な構造の中で、誰にせよ、そのどちらに荷担していたのか、何を代弁していたのかという問題を、初心にかえって自らに問い直さずにはいられない地点に引き戻されたのである。編集子の個人的な思いを、もう少し綴ってみる。
「インディアス群書」が対象としているラテンアメリカ地域もそうだが、第三世界一般を歴史の創造主体とは見ない歴史観・世界観が、長いこと、世界でも日本でも力を揮ってきた。
このヨーロッパ中心史観が、どれほどまでに、日本に生きる私たち自身の自己認識をも歪めたものにしているか、それを克服するために、「インディアス群書」に限らず私たちは出版企画を立ててきた。
第三世界地域で「独立闘争」や「革命」や「紛争」が起こると、これを「米ソの代理戦争」であるとする解説が、マスメディア上の言論にあふれた。私たちは、これに反証を挙げて、その歴史過程と現在の試行錯誤が、いかにその土地の人びとの主体的な選択に根ざしたものであるかを示すことが重要なことだと考えてきた。
その思いは、いまも変わることは、ない。予想の範囲外のことだったな、と思わざるを得なかったのは、厳しい批判に値するものであった「社会主義体制」、その存在を前提とした「冷戦構造」がもっていた規定力の強さである。
規定力とは、それによって物事(事態)や人びとの思考が左右される、という程度のことを意味している。
社会主義の意義が完全に潰えたわけではない、公正・正義・平等(対等)・民主主義など、現在の世界システムの下では実現されていない諸価値を将来的に復権させていくうえで、社会主義的理念は生かされる余地があるだろうと考えるにしても、その理念と実践の担い手に、かつてのように「安易に」(あえてこの言葉を使ってみる)思い入れたり荷担したりすることはできないということである。
他者への「思い入れ」や「荷担」としてではなく、自分の問題としてこれを表現するなら、「自己の絶対性(絶対化)」から限りなく離れた地点で、自分を問い直すということである。
こうして、構想していた『義賊トゥパマロス』は、激変した時代状況によく対応しうるだろうか、という疑問が編集子の心にもたげてきた。
残りわずかであった作業を進めることはできなくなった。これは、もちろん、トゥパマロスの責任ではない。
その責めは、想定していた時間内に仕上げることのできなかった編集子に帰せられるべきものである。読者には深くお詫びする。
トゥパマロスは一九七三年に始まる軍事政権の下で、徹底的な弾圧をうけた。
『収奪された大地――ラテンアメリカ五百年』(藤原書店)や『火の記憶』(みすず書房)などが日本でも紹介されているエドゥアルド・ガレアーノはウルグアイ出身の作家だが、「人口三百万人の国で、過激派ブラックリストに三〇万人が掲載され、その大半が国外に亡命し、国家予算の半分が軍警費に回され、街中が軍警のスパイだらけの」軍政時代の様子を、苦い思いをこめて描いている(『収奪された大地』英語版新版への序文、一九七八年)。
トゥパマロスはその後、闘争の総括をめぐって分裂した。その内部論争の経過も書物として公刊されており、この通信で何度か書いたように、広く利用されるべく編集部の図書室には備えられている。
二〇〇五年三月、ウルグアイに、中道左派政党連合「拡大戦線」の大統領が誕生した。親米保守の二大政党候補を破って、左派政党「進歩会議」の候補者が当選したからである。トゥパマロス分裂後の「穏健派」は以前から「拡大戦線」に加わっていた。
この政権には「元ゲリラ」も加わると報道されているから、元トゥパマロスのメンバーが閣僚になるのだろう。もとより、ウルグアイ、広くはラ・プラタ地域に対する、基盤となる関心が失せたわけではない。
従来の方法とは変わるが、ここを注視し続けることはやめない。私たちがメヒコのサパティスタに関する本を出版するのは、これで五冊目である。
冷戦体制崩壊後に現れたこの運動に、なぜ私たちが注目するかは、すでに何度も語ってきた。マルコスとル・ボの対話自体にも、そのことが暗示的に語られていると思える。以上、五巻の内容変更に関わる事情を縷縷述べてきた。ご理解をお願いしたい。
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