衆議院解散の報道に接して、いくつかのことを思った。
情景その一。1992年夏、夕方になると、足繁く国会に通っていた。自衛隊のPKO(国連平和維持作戦)参加を可能にする法案の審議が大詰めを迎えていたからである。通っていたのは、しかも、議員面会所なる場所である。若いころ、「反議会戦線」の名の下に開かれた集会に参加して興奮していたのに、30年後のこの体たらくはどうだ、という趣旨の文章を書いた記憶がある。
いま振り返ってみれば、それでも、議会情勢は、まだマシだった。当時は、1980年代の中曽根政治を私たちは経験したばかりで、臨調政治を最大限に駆使した中曽根が議会審議を素通りして重要案件を決めていく手法への怒りと苛立ちを抑え切れない時代ではあった。
それでも、野党は存在しており、議案次第では政府を追い詰める質問を行なう議員はおり、審議の紛糾がメディア上で話題になり、採決が強行されそうになると、反対する野党議員は「牛歩戦術」で審議の引き延ばしを図るなどということが行なわれていた。
思えば、「牧歌的な」時代だった。それから13年の間に、議会情勢は決定的な変化を遂げた。55年体制の崩壊、小選挙区制の導入、政党再編、社会党員を首班とする連立政権の誕生などの激動を経て、野党の要の位置にいた社会党は自壊した。
若い私が「反議会主義」に興奮したのは、自民党との関係においてではない。理念的には「代議制」そのものに対する懐疑があり、また状況的には議会主義に「埋没」する社会党や共産党などの野党が存在していたからこそ、それを批判し「乗り越える」運動に魅力を感じたのだ。それらが消滅してみれば、「反議会主義」は、理念的にはともかく、状況的には成立し得ない。
情景その二。中国研究者、加々美光行の『反日デモは日中関係改善のための「劇薬」』という文章を読んだ(『オルタ』7月号、アジア太平洋資料センター)。中国政府が、対日戦争賠償請求権を放棄した根拠が、戦争を主導した国家指導者と、戦争に駆り立てられた一般民衆は、本来的に区別されるべきだとの考えに基づいていたことは、よく知られている。
加々美によれば、その捉え方を決定的にしたのは、60年安保闘争であったという。戦犯でありながら、その責任を問われることもなく戦後政治の中に復活してきた首相=岸信介が日米軍事同盟の再編・強化をめざす政策を強行し、それに反対する大規模な「国民」運動が起こったこと。中国側はこれによって、軍国主義指導者の流れと、それに反対する民衆とは区別できることを確信したという。
ここから、ふたつの問題を引き出すことができると思う。60年安保闘争は、新左翼誕生のきっかけをなしたものでもあり、闘争の主体を一括りにして論じることはできないが、当時の反戦・平和運動が「被害者意識」に依拠して展開されていたことは否定できない。
アジア太平洋戦争の発端と帰結を歴史的な事実に即して冷静に振り返るのではなく、アジアを視野から切り捨て、対米戦争の側面でのみ捉え、原爆の悲劇を「民族的体験」の前面に押し出して、自らを被害者の位置に置くこと。基本的にはこのような意識の下で行なわれた闘争を、中国側は、加々美が説明しているように捉えていたとすれば、そこには悲劇的なすれ違いがある。
「情景一」におけるように、まだしも抵抗しているように見えた野党を支えていた「戦争と平和」をめぐる理念は、何であったか。それは、ひとり当該の野党のみならず、背後でそれを支えた人びとのあり方とも重なってくる。事後的ではあるが、このすれ違いを総括する課題は、私たち、日本側に残るだろう。
ふたつ目の問題には、加々美自身が触れており、なるほど、そういうものなのだろうと私も納得せざるを得なかった。それは、次のようなことである。60年安保闘争を上のように捉えた中国は、湾岸戦争後の日本に関わっては完全に見方を変えつつある。
日米軍事協力体制がますます強化され、自衛隊が海外に出兵し、戦犯が合祀されている靖国神社に首相が確信をもって参拝し続けるなどの現実が起こりながら、日本には大規模な民衆の反対運動が一向に起こらない。かつてのように、国家指導者と民衆の間に明確な一線を引くことはできない。
情景その三。4年前、小泉政権が誕生したときの、異様な状況を、今までもありありと覚えている。確かに、従来の保守党指導者とは異なるタイプの政治家ではあった。
だが、一見歯切れのよい言葉が、裏づけにも中身にもきわめて乏しいものであるという本質は、人びとの目にすぐにも明らかになるように思えた。そうではなかった。
小泉に対する大衆的な支持と熱狂が沸き起こり、それをメディアは一面的に報道した。すなわち、小泉に対する批判的な報道を行なうと、視聴率の低下、視聴者からの抗議の殺到、新聞部数の減数をもたらすことから、批判報道を控えるという形で。
その後の4年間、小泉は当初からのスタイルを変えることなくふるまった。歴史を無視し(あるいは知らず)、論理を超越した言動を繰り返して、恥じることはなかった。はぐらかし、茶化し、相手を小ばかにする。
このふるまいが、支持率を下げることなく4年間も持続するとは、予測できなかった。論理的な批判、史実に基づく批判が、ここまで無効な人間というものが、人をしてかくまで疲労感を与えるものか、ということもつくづく実感した。
『世界』誌9月号は『「小泉政権」とは何だったのか』を特集している。『世界』誌にしては、幅の広い論者を起用している。小泉政治に呆れ、怒り、しかも疲れている人びとの広がりを思わせる。なかでも、「離婚コンサルタント」池内ひろ美、「臨床心理士」矢幡洋の起用が意想外で、面白かった。
「小泉現象」なるものの批判的な分析は、小泉自身もさることながら、それを受け入れている民衆全体の「心理」も含めて、総合的になされなければならないようだ。池田浩士が『虚構のナチズム』(人文書院、2004年)で行なったナチス分析の徹底性が、ここでは応用できそうだ。もう手遅れだろうか? そうではあるまい。 |