オウム真理教事件を振り返ってみて思うこと、それを以下の二点に要約してみる。
一、坂本弁護士一家殺害事件そのものは、オウム真理教の一部信者が行なったむごい犯罪であるが、所轄の神奈川県警がこの捜査を適切に行なったならば、その後の松本サリン事件、東京地下鉄サリン事件を引き起こすまでオウム真理教が増長することは不可能であった。
県警自らが引き起こした共産党幹部宅盗聴事件で、共産党系の坂本弁護士と敵対関係にあることで、県警は明らかに坂本弁護士事件の真剣な捜査をサボタージュした。
警察機構なるものは、時に(!)、この程度の水準の「報復」意識で、捜査の手を緩めたり、強めたりするものであることは、記憶に値する。
それはまた、次のことも意味する。オウム真理教が、殺害すべき対象を外部に求めるポア作戦を坂本弁護士事件で終わりにせざるを得ない客観的な条件が作り出されたならば、新たな犯罪に手を染めるオウムの若者はそれだけ減っただろう。その意味でも、神奈川県警の「犯罪」は重大である。
二、一九九四年の松本サリン事件を、その後の世界と日本で起こっている諸事件のうち、「被害と加害」という問題をめぐって、避けられない視点を提起している問題群の中に据えてみる。
松本サリン事件に家族全体が巻き込まれた河野義行氏の言動は、社会・政治・宗教的な背景をもつ事件(犯罪)について被害者が語りうる、もっとも沈着かつ冷静なものとして、及ばないな、という感想を人にもたせる。
加害者に対する「報復」を呼びかけず、事態の本質を見きわめることによって、許すことのできない犯罪そのものを止揚する道筋を求めているように思えるからだ。二〇〇一年「9・11」直後には、被害者遺族の中から、報復戦争に反対する人びとが生まれた。
国家犯罪としての拉致事件の場合には、別な要素も加わるとはいえ、北朝鮮による拉致被害者家族の中に「もうひとりの河野義行氏」がいたならば(!)という夢想を、私は抑えることができない。
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