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死刑廃止のための、ふたつの試みの中で考えたこと |
『派兵チェック』第158号(2005年11月15日発行)掲載 |
太田昌国 |
準備期間を入れると、半年がかりとも一年がかりとも言えるが、夏から秋にかけて、死刑廃止を求めるふたつの集会に関わった。
ひとつは、7月下旬に開かれた《Nからペルーの働く子どもたちへ――第2回星空コンサート》である。
Nとは、1997年8月1日、幽閉されていた東京拘置所で死刑を執行された「連続射殺魔」永山則夫。その三カ月ほど前に、前年末以来続いていた在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件は、フジモリ大統領の武力行使によって悲劇的な結末を迎えた。
Nは、限られた情報しか得られない獄中で、事件の背景報道をつぶさに見ていたのであろう。自分の本の印税は、世界の、とりわけペルーの貧しい子どもたちに役立ててほしいという「遺言」を遺した。日本のメディアが一点集中した「人質安否報道」とは異なる視線で、Nが事態を注視していたことは明らかだった。
その後、シンガーソングライター・中島みゆきは、救出作戦に当たったペルー人兵士の死を意に介さず「日本人の人質は全員が無事」に驚喜する日本のメディア報道を見て「日本人でないものには冷たい無関心しか示さないこの国はこわい」と歌う「4.2.3.」を作詞作曲し、歌った。
Nと中島ふたりの「表現」が、事件の本質に迫る異色のものだったことについて、私は当時触れた。(この時の虐殺の責任者=フジモリが5年間におよぶ日本での亡命生活を終えて、来年の大統領選挙への立候補をめざして隣国チリに入国したところ、チリ警察に拘束されたというニュースが、ちょうどいま届いた)。
Nの意思は、「ペルーの働く子ども・若者の全国運動」との出会いによって、生かされてきた。
Nの印税は98年以降の7年間その組織に着実に送金され、働く子どもたちが花屋・パン屋などを運営する多大なる一助となってきた。ペルーの働く子どもたちは日本を訪れ、たくさんの出会いをつくったが、なかでもペルーからの移住労働者や日本の不登校の子どもたちとの出会いは意味深かった。
貧しくて働かなければならないから「学校へ行けない」ペルーの子どもたちと、教育現場を支配する抑圧の構造に拒絶感をいだいて「学校へ行かない」道を選んでいる日本の子供たちとの出会いは、傍から見ていても刺激的だった。不登校の子どもたちも自ら計画を立ててペルーへ行き、交流を深めた。
先年開かれた、ペルーの子どもたちを迎えた東京の集会では「4人もの命を奪ったNの罪をどう考えるか」という質問が出た。
15歳のペルーの子は答えた。「私たちは、下は3歳くらいの子も集まって、これは正しいとか、これは良くないとか話し合う。 彼は小さな時から、私たちが運動の中でしているような、一緒に考えてくれる人、一緒に学べる場をもっていなかったのでしょう。もし彼が罪を犯した時期に、私たちのような運動体に出会って意識化が図られていたなら、彼は罪を犯さなかったと思う」。
昨年からNが処刑された8月1日前後の日を選んで、プラネタリウムのある会場でのコンサートが開かれている。「死刑廃止」「ペルーの子どもたちと繋がる」が目標である。はじめに、この季節に見られる日本とペルーの星座を眺めるという趣向から、参加者はそれぞれの思いをいだくだろう。
大人の感慨だが、子どものころ見慣れた星座とそれにまつわる物語を思い出し、とおく南半球の星座を眺めるというのは、なかなかに味わい深いことだ。コンサートの収益金とNのその後の印税収入は、合わせてペルーに送られ、子どもたちの奨学金として活用されている。
働き始めると、それを返済し、次世代の子どもたちに引き継ぐというルールを、ペルーの子どもたちは作っている。
ふたつ目の集会は、10月8日に開かれた死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90主催の「響かせあおう 死刑廃止の声」である。私は「死刑廃止のための大道寺幸子基金」を運営する一員として、この集会に関わった。
確定死刑囚・大道寺将司の母親である彼女は2004年に亡くなった。遺された一定のお金を今後10年間上記の目的で使うことになって、今年はその初年度であった。
死刑事件ですら冤罪があり得ること、自らが起こした事件・犯罪について内省を深め、償いを考えている死刑囚が多いことに、息子の救援を行なうなかで気づいた彼女が、死刑廃止運動に尽力し、死刑囚と共に「生きて償う」道を模索していた意思を生かそうという企画である。
この10年間のうちに、すでに世界120カ国では制度的に、もしくは実質的に廃止されるに至っている死刑制度が、日本でも廃絶されることを展望したいという思いが、根底にはある。
運営会が決めた使い道はふたつある。ひとつ目は、確定死刑囚が再審請求を行なう一助にするというものである。
親族にも「縁」を切られ、経済的な理由から、権利としての再審請求を控えている死刑囚もいる現状を考慮してのことである。ふたつ目は、死刑囚による「表現展」の開催である。
平沢貞道、島秋人、李珍宇、永山則夫、ブランキ、サド、チェルヌイシェフスキー、ドストエフスキー、ジュネ、金芝河――すべてが死刑囚ではないが、思いつくままに挙げてみても、ある時代状況の中で「犯罪者」とされた者がなした「表現」は、意外なまでに、私たちの身近にあって、精神的な作用を呼びかけていることがわかる。
そこで、死刑囚が止むに止まれぬ自己表現の機会を得ること、それを広く社会に訴えることを保証する道として「死刑囚による表現展」を企画したのである。初年度には、長篇ノンフィクション・フィクションに3人、俳句・短歌・詩などの短詩に6人、絵画・イラストに9人の応募があった。
作家の加賀乙彦氏ら6人の選考委員が審査に当たり「優秀作」も決まった。この試みは一般メディアでも複数報道されて、一定の関心を呼び起こすことができたと思う。
この間の9月16日にも、大阪拘置所ではひとりの死刑囚が処刑された。毎年例外なく死刑執行の事例を作りたい法務官僚が法相の裁可を乞い、法相が死刑執行許可書に署名し、刑場をもつ刑務所の幾人もの刑務官が立ち会って行なわれている、この「国家による殺人」は、紛れもない「公務」として実施されている。
だが、この「公務」は、法務省と刑務所が必死になって実態を覆い隠し、広く社会に知らせることのないままに、極秘を旨として執り行われている。
戦争において、戦場には姿を見せない最高指揮官の命令によってその国の兵士たちが行なう殺戮行為、平時において、刑場には姿を見せない高級官僚の命令によって刑務官たちが行なう死刑囚の処刑行為――個人がなせば「罪」になる殺人行為が、なぜ国家には「許される」のか。日本と、死刑存置州が多い米国では、「戦争」と「死刑」の問題をめぐって、ますますこの問いかけが重みを増していく。
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