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2005年8月28日「昭和天皇記念館いらない宣言」大集会での発言 |
2005年8月28日、立川市中央公民館にて |
太田昌国 |
公的な機関あるいは権力の手によって、世界中でさまざまな博物館や歴史記念館が作られてきました。私自身のなかにあって、きわめて印象的な三つの博物館・歴史記念館との出会いを通して、きょうの問題に近づいてみたいと思います。
私は北海道釧路市に生まれて、一八歳までそこに暮らしました。市立博物館があって、考古学少年であった私は、山野を駆け巡っては矢じり等の出土品を掘り出し、その直後には博物館へ行って、収蔵品と比較していました。
何度も何度もそこへ通った記憶があります。北海道の博物館ですから、展示内容はアイヌ民族に関わるものが主です。どんな家に住んでいたか。狩猟採集経済ですから、どんなふうに狩りや漁獲を行なっていたか。
毛皮や鮭の皮からどんな衣服を作っていたか。どんな道具を使っていたか。それらが「過去」のものとして展示されていました。
この展示の一面的な偏向に気づくのは、東京へ来て、ヨーロッパの植民地主義支配の問題性を自覚した後のことで、「何ということだ」と臍をかんだことでした。
つまり、それは、アイヌ民族の「現在」と切り離された展示だった。植民者として蝦夷地に侵入した和人(シャモ)との関係性を何も示していない展示だった。
郷里へは帰ることもなくなったので、もう長いことこの博物館は訪れていません。
一九六〇年代後半の社会的激動に際しては、考古学分野で仕事をしている人びとも、例えば「遺跡労」という形で、従来の考古学的・歴史学的方法が抱えている諸問題についての批判的な提起を行なっていますから、この四〇年か五〇年の間に、展示方法の変化もあり得たでしょう。
いずれにせよ、次回釧路を訪ねる機会があれば、ぜひ、現在のあり方を観てきたいと考えています。
次に、キューバの首都・ハバナ市にある革命博物館に触れます。私はキューバ革命のあり方に、大きな影響を受けた者です。
世界観・歴史観を揺るがす深い衝撃を、現在のキューバの地にコロンブス一行が足跡を印した時代から、二〇世紀半ばの現代革命の時代に至る歴史過程から、受け取りました。
一九九二年末から九三年初頭にかけての二週間、キューバを訪れたときに、この革命博物館を初めて訪ねました。本の資料はたくさん読んでいたので、展示物を見ていると、その意味付けはだいたい分かるのですが、現物を目にするということは、それはそれで得がたい経験でした。
気になったことはひとつ、革命の過程で運動を離れた者、内部対立から別れた者――それらの人びとについての記述がないことです。
「勝利」した側が作り出す「歴史」、それが一方的なものになりがちだという問題は、もちろん、ここでもついて回ります。
また、革命勝利後に、旧独裁政権で弾圧機構の上部にいた軍隊・警察の幹部たちをどう遇したのか。拙速審理に基づく銃殺刑がけっこう行なわれたのですが、それらのことも率直に示し、「革命派」が「歴史」を独占しないこと、できる限り客観的・相対的な場での歴史検証が可能なものとして、この種の歴史博物館の展示がなされる必要があると思いました。
それは、「希望」と「夢」をもって見つめてきた二〇世紀の社会革命の、初心と異なる悲惨な行く末を見届けてしまった私たちが、いま選びうる立場であると思います。
釧路市博物館とハバナ市の革命博物館に共通する問題は、こうです。歴史展示というものは、時代と場所を共有した「他者」存在との関係性を重視してなされない限り、主導的にそれを作る側の、きわめて一方的で、恣意的な内容のものとして完成する、ということです。
最後に、九州佐賀県は、呼子町・玄海町・鎮西町にまたがる一角にある佐賀県立名護屋城博物館に触れます。秀吉は一六世紀末、二度にわたってここを出撃根拠地として朝鮮出兵を行ないました。
ここへは以前から行きたかったのですが、日本中が、北朝鮮による日本人拉致問題をめぐって異常に熱くなっている二〇〇二年の末、福岡に行った機会を捉えて、ようやく訪れることができました。
名護屋城跡は、一部の城壁を除けば、ほとんど残っていません。それでも、小高い丘の上に立つと、玄界灘の向こうには朝鮮へと繋がる島々が遠望されて、秀吉が立てた戦略が見えてくると共に、全国各地の大名軍数十万の軍勢を結集させた地形もわかり、「侵略のエネルギー」のすさまじさが実感されます。
さて、問題は、城跡の近くにある佐賀県立名護屋城博物館です。これは、自民党員が知事であった一九九三年に設立されたと聞きました。ここの博物館展示からは多くのものを学び、示唆も得ました。
つまり、ここの展示は、海をルートとしていた古代の関係史から始まるのですが、一貫して、異なる民族の交流史(残念ながら、そこには、侵略をという形態も入ります)という視点を失うことがないのです。
ですから、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵は、明確に「侵略である」という観点からの分析がなされます。
日本兵はどのように朝鮮を侵略したか、それぞれの町や村で何が起こったか、朝鮮民衆はこれにどのように抵抗したか、戦火は民衆にどのような結果をもたらしたか――私たちは、それらのことを、歴史的遺物を通して知ることになります。
この博物館には、韓国の歴史研究者が常時いるようです。歴史解釈・展示方法についても、韓国・日本両国の当事者同士の議論を経て、決定されていったようです。時期が来れば、ここには現在の北朝鮮の歴史研究者も加わらなければならないでしょう。
人類の歴史は、どの時代、どの地域をとってみても、異民族間の出会いと交流が見られます。それは、時に、「征服」とか「植民地化」とか「侵略戦争」という、悲劇的な形をとることもあるのですが、後代においてそれを克服する道があることを、この博物館は示しています。
それが可能になった理由のひとつは、この博物館は、国家の面子にこだわって自国の過去の歴史を相対化できない中央の施設と違って、地理的に言っても、現実にある交流の実態から言っても、近隣の他地域・他国との関係を具体的に推進していかなければならないという条件を、前向きに生かすことができたということでしょう。
立川という、ひとつの地域に作られようとしている「昭和天皇記念館」という構想を、以上の観点で見ると、どのような問題が起こってくるか。
それは、あまりにも、自明のことです。矛盾や対立はおろか戦争すらあった「過去」の歴史から逃げないこと、異なる地域・国・民族の交流史として歴史を捉えること――そのことを大事にする態度があるなら、現在支配者側が構想している内容での「昭和天皇記念館」なるものが、いかなる条件も満たしていないことがわかります。
以上が、今回の問題を考えるにあたってもの、私の視点です。
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