一
「テロ」や「テロリスト」というテーマは、こころを波立たせる。若いころ、ちょうど紹介され始めたロシア・ナロードニキの回想記や、安重根、朴烈、難波大助などにまつわるいくつもの記録や回想録を読み、彼らが生きた道筋と選び取った行為の基底を貫く倫理性に打たれた。
埴谷雄高が言うように、圧政の頂点に立つ皇帝・国王・総督個人を殺害したところで、死者と同じ政治的立場でそれに代わりうる者が必ず現われる以上、「テロ」の政治的有効性は十分に疑わしい。
だから倫理性に打たれるという思いは、政治的に思考して浮かぶというよりは、ある具体的な状況の中での個人の生き方としてこころ打たれる、いわば文学的な、一九六〇年代の思想状況に照らして言えば「実存主義的な」あり方だったのだろうとふりかえることができる。
こころを波立たせる理由は、もうひとつある。苛酷な帝政ロシア体制とたたかったナロードニキ関係の資料が次々と紹介された時期には、同時に、一九一七年ロシア革命以後の過程に関する研究も、それまでに比べて格段に深化した。
さまざまに刺激的な研究が現われたが、その中で忘れることのできないふたつの言葉があった。「赤色テロル」と「グレート・テロル(大テロル)」である。
前者は、実質的には革命直後から、(正式には)ソビエト政府が「赤色テロルについて」と題する政令によってテロルを合法化した一九一八年九月五日以降、レーニンを最高指導者とするボリシェヴィキによって発動された。
革命を妨害するクラーク(本来は「富農」を意味するが、実際には割り当て徴発制や集団化に反対する農民を指しても使われたことは、いまでは自明のことと思われる)と白衛軍、聖職者、食糧徴発に抗議する農民・・相手が誰であれ、「人民の敵」に対する大衆テロルを即時実施し、銃殺するか強制収容所へ送る、武器携帯者は処刑せよとの布告が何度も出された。
国内戦のときには成文法は無視してよい、敵に裁判所はない・・とするのが、ボリシェヴィキの基準となった。その結果どんな社会が現出したかということについて、現在の私たちは多くの知識を得ており、限りなく痛ましい思いのみが残る。
後者の「大テロル」は、スターリン独裁下の一九三六年〜三八年にかけて発動された。
「同志スターリンから命じられたものなら、どんな仕事でも引き受ける」と語られるような体制の下で、スターリンのかつての同志たる政治局員、ジノビエフ、カーメネフ、ルイコフ、ラデック、クレスチンスキー、ブハーリンらが次々と自らの「大罪」を告白して処刑されていった。
「革命の軍隊」=赤軍の立役者、トハチェフスキー元帥も国家反逆罪とスパイ罪で死刑となった。
これに幾人もの作家・詩人・芸術家などを加えて、著名人や旧指導者たち、外国人活動家の犠牲について語られることの多い「大テロル」の時代だが、真に悲劇的なことには、推定七〇万人に及ぶこの二年間の犠牲者の圧倒的多数は無名の人たちであった。
二〇歳の頃これらの事実を知ったことも手伝って、私はボリシェヴィキ的な組織活動に加わることを忌避した。そんな私でも、レーニン批判へと至る道は遠かった。
革命後一〇年、近代日本の暗愚を抱え込んで自死を選んだ理知の人によって「・・誰よりも十戒を守った君は/誰よりも十戒を破った君だ。/誰よりも民衆を愛した君は/誰よりも民衆を軽蔑した君だ。/誰よりも理想に燃え上がった君は/誰よりも現実を知っていた君だ。/君は僕等の東洋が生んだ/草花の匂いのする電気機関車だ。・・」という「傾向詩」(芥川龍之介『或る阿呆の一生』中の「三十三 英雄」)のなかで、どこか畏敬をこめて描かれてい露西亜人は、内心に渦巻くいくつもの疑問や批判を超越して、どっしりと私のこころに居座っていた。
こうして、革命(社会変革)に何かしらの夢か憧憬かをおぼえたとき、まず直面したのは、或る特定の時代状況の中では否定しきれない、(あえて言えば)共感すらおぼえる個人「テロ」と、字義どおりに恐怖政治そのものとしての「テロル」をめぐって繰り広げられてきたいくつもの歴史的現実だった。
言葉の定義それ自体からして難しいこの問題は避けられるものではないようだ、と覚悟せざるを得なかった。
二
一九九六年から九七年にかけて起こった在ペルー日本大使公邸占拠・人質事件のとき、私は事件の本質を解き明かそうという思いで、基本的にはミニ・メディアでの発言を続けた。
論点は、もちろん、多岐にわたったが、私がこだわったことのひとつは「テロ」の定義づけだった。
占拠事件の行為者であるMRTA(トゥパック・アマル革命運動)はマスメディアによってほぼ例外なく「テロリスト」「テロ集団」と呼ばれた。
そこには、ふたつの問題があると私は考えた。
ひとつには、そう名づけた側は、「テロ」を先験的に悪と決めつけており、そこに議論の余地はないと考えていることだった。
政治的・社会的事件の場合には、行為自体を肯定する/あるいは否定する立場の相違に関わりなく、その背景を探り、よってきたるゆえんを突きとめ、それを政治的・社会的・経済的に解決する方策を模索しなければならない。
「テロ集団」という名づけは、問答無用の形で、彼らに対する報復感情のみを情緒的に組織する作用を果たした。G7を名乗る主要先進国とロシアも「いかなる政治的目的もこのような手段を正当化しない」として「テロリストの行為を強く非難」した。
「反テロ」なる合意が、各国の政治指導者のレベルで具体的に形成されてゆくのは、この事件への対応を通してである。
冷静な分析を心がける議論は、テロリストに味方するのか、との「反論」を世界のどこにあっても受けた。
ふたつ目には、MRTAの行為を「テロ行為」と規定することに仮に同意するとして、その表現を、非国家的集団が国家権力ないし公権力に対して向けた暴力行為に限定して使うのではなく、「国家テロ」なるものも存在することを認めうるかという問題である。
それは、どっちもどっちだと相殺を図る論理として、ではない。反体制小集団によるテロ行為と、歴代政府による国家テロの双方を視野におさめて、軍事的にではなく政治的に解決する道があること、この種のテロ行為の原因を生み出すのに加担していると思われる日本を含めたG7諸国やロシアが、非軍事的で政治的な解決を図る方向において協力・努力することを主張する論理である。
当時は私のもとにも、テレビ各局のニュース番組担当者による事前取材があった。「テロ」の定義をめぐって上のような私見を披瀝すると、一局を除いて他局のスタッフはすべて、「国家テロ」などという範疇がありうるとは信じられない、とにかくゲリラが悪いのだからと語り、あるいはそんな表情を浮かべて、そそくさと席をたった。
国家は「合法性」の名の下で人の生命・財産・自由を日々奪っているとか、軍隊および警察官の実力行使や刑罰の執行などの「合法的な」強制行為はテロルとどう違うのかなどという原理的な問題提起は、もちろん、そこでは一顧だにされない。
G7やロシア(旧ソ連の時代を含めて)のような諸国の政府にしても、ペルーのフジモリ政権のような第三世界諸国の政府にしても、合法性の外皮をかなぐり捨てて、直接的な、剥き出しの暴力によって政治目的を達成しようとした例もあるではないか、という提起も許容されない。
私はMRTAが現実に引き起こしている「テロ行為」は、そのとき発表されたコミュニケからすれば、先進諸国が「自由貿易市場」原理という「合法」性の装いの下で、自らの利益のために、第三世界諸国の社会的・経済的現実を自在に操作していることと因果の関係にあると考えた。
フジモリ政権が行なってきた「対テロ作戦」がしばしば、ゲリラ容疑者や市民に対して「合法」性を歯牙にもかけない暴力に訴えてきたこととも関連していると考えた。
それらを、不可視的な/可視的な「国家テロ」と捉える方法をもたないかぎり、双方が孕む悲劇を止揚して問題の根源に至ることはできないというのが、私の立場だった。
歴史的にも溯ってみる。「テロル」という言葉が、フランス革命時のロベスピエールの「恐怖政治」(terreur)に由来し、したがって権力側が揮う力であったことから見ても、また先に見たように、革命権力を掌握したレーニンも赤色テロルの不可避性を強固に主張していたことから見ても、「テロル」は国家が統治手段として行使するものでもある。
国家権力を持たない小集団が行使する暴力をのみを指して「テロ」と呼ぶ、現在一般的に通用している捉え方では現実にそぐわないことは、これらの例から見ても、明らかだと思える。
だが、ペルー事件の段階で「国家テロ」や「テロ国家」という表現が世の中に浸透することはなかった。その雰囲気にも助けられて、フジモリ大統領は武力を使って人質解放作戦を実行し、事件の「解決」を図った。
一四人のゲリラは全員殺された。うち三人は、生きたまま逮捕されたが、その場で銃殺された。人質一人と政府軍兵士二人も死んだ。
フジモリは軍事作戦終了後の邸内に入り、階段に横たわる指導者セルパの死体を勝ち誇って見下ろす姿を、わざわざテレビに撮影させた。
解放された人質が乗ったバスの先頭に乗り込み、満面に笑みを浮かべ、国旗を振って「凱旋行進」をした。死者一七人を招いた直後の、一国の大統領の表情としては、信じがたいものを感じた。
日本では、フジモリの取った手段を賛美する言論がマスメディア上に溢れた。彼を「テロリスト」と呼ぶ者はほとんどいなかった。
三
二〇〇二年から〇三年にかけての現在、世界じゅうに「テロ国家」「国家テロ」という表現が溢れかえっている。それは米国と日本において、とりわけ目立つ。
その意味では、ペルー人質事件の時とは様変わりしているが、それは私(たち)が主張してきたことが市民権を得たことを意味するのだろうか?
日本でその名指しを受けているのは、言うまでもなく、北朝鮮である。二〇〇二年九月一七日の日朝首脳会談において、総書記・金正日が北朝鮮国家機関による日本人拉致事件が本当の出来事であると認めて以来、この社会では「北朝鮮=テロ国家」という表現が扇情的に使われている。
その報道攻勢が本質的に孕んでいる問題点については、別途触れるべき機会があろう。
むしろここでは、北朝鮮の恐怖政治という意味での「テロリズム」についての認識が、世間において、とりわけ左翼や戦後民主主義派の間でいかに希薄であったかということの意味を考えることのほうが、有益だと思える。
北朝鮮の政治・社会の現実を描きだす本が出始めて、すでに四〇年有余が経っている。
亡命者や離反者たちによって語られることの多いそれらの証言が、どこまで信頼に値するかについては、わずか数冊しか出版されていない初期の段階では、まだしも慎重であるべきだったかもしれない。
だが、山をなすほどの証言・記録集・ノンフィクション・小説が出版されて、それらの多くが、金日成=金正日の親子世襲体制の圧政(テロリズム)について語っている以上、ことの真相を知る機会は、多くの人びとに開かれてきたと言うべきだろう。
恣意的な粛清、多数の人びとを閉じこめる強制収容所、「腐敗した資本主義社会=日本」から帰国した在日朝鮮人や同行した日本人の妻や夫に対する恐るべき処遇、身の代金の巻き上げ、厳格きわまる身分制度と党官僚の特権階級化、徹底した個人崇拝体制、そして日本人拉致……書かれていることのすべてを信じたわけでもない。
読むという経験を積み重ねていけば、際物的な暴露本の中にもありうる「真実」と、ためにする「虚偽」とを、自ずと見分けることもできるというものだ。
共産主義の理想に幻惑された? 自分の経験に照らしてもありうることだが、時間の流れのなかで考えると、これも疑わしい。ソ連共産党第一書記、ニキータ・フルシチョフのスターリン批判の秘密報告がなされて、すでに四七年が経過した。
以後、ロシア革命史に関わる封印は次々と解かれ、すでに触れたように、「聖域」レーニンにまで及んで、ことと次第は明らかにされてきている。
粛清、強制収容所、個人崇拝、党=政府=軍を貫く特権階級(ノメンクラトゥーラ)の形成、異民族の強制隔離・強制移住やシベリア抑留に見られる対外国人政策の恣意性……。「テロリズム」のリストは延々と続く、というべきだろう。
しかも、それらが、時期・規模・背景を異にしながらも、中国で、ルーマニアやポーランドをはじめとする東欧諸国で、ベトナムで、カンボジアで、キューバで、総じて「共産主義」を名乗る国々で、繰り返し起こってきていることを知れば、ひとり北朝鮮においてのみは、真実が別な位相にあると主張できようか?
同時代史としての現代史を生きる過程で、つぶさにそれを目撃してきた私たちは、十分に情報を、すなわち判断材料を手にしていたと言えるだろう。
ステファヌ・クルトワ&ニコラ・ヴェルト=共著『共産主義黒書:犯罪・テロル・抑圧〈ソ連編〉』(恵雅堂出版、二〇〇一年)は読むに値するが、実はそれに頼ることもないほどに。
一部の在日朝鮮人や、北朝鮮社会にこころを寄せてきた日本人の間からあがる「拉致はないと信じてきた」という辛い告白は、上の文脈において、その意味を再解釈しなければならないだろう。特定の組織や個人だけの責任の問題ではない。
運動圏総体が取り組むべき課題だ。甘かった、とも言える。口とは裏腹に、経験に学ばなかった、とも言える。見たくなかったのかもしれない。真実を知ることがこわかったのかもしれない。
「民族」への幻想が強すぎたのかもしれない。指導部と民衆の乖離を冷静に見つめる視線があれば、民族幻想は避け得たのではないだろうか? いつだって、わかってしまえば、とんでもないところに躓きの石はあるのだ……いくつもの自問自答が可能だ。
現実に存在した(している)共産主義体制の恐怖政治(テロリズム)に怯えて、夢も希望も左翼性も打ち棄てて、現存世界秩序万万歳!・・という、あの退屈な、単純回帰路線を主体的に選択するのでないとすれば、〈わたしたちのテロリズム〉をめぐる自問自答とふりかえりを避けて通るわけにはいかないのだ。
四
北朝鮮やイラクやイランを、さらにそれに付け加えて、リビア、キューバなどを「テロ国家」とか「テロ支援国家」と呼ぶ国こそが、世界最大の「テロ国家」であることは、知る人ぞ知る真実だ。
「テロリズム」を定義することから逃げ回り、国家が執行するいかなる暴力的な行為も「テロリズム」の範疇から都合よく除外し、自分のそのときどきの事情に即して「非難するテロリズム」と「許容するテロリズム」あるいは「利用するテロリズム」を使い分ける。それが、この最大のテロ国家=米国の、偽らざる姿だ。
だから、かつての友=パナマのノリエガは、一九八九年段階で敵となり、米国はパナマ国に海兵隊を派遣して数千人のパナマ民衆を殺戮してまでノリエガ逮捕作戦を実施した。
十数年前までの盟友=フセインも、同じくかつての盟友=オサマ・ビン・ラディンも、「最悪のテロリスト」と名指しさえすれば、イラクやアフガニスタンを一方的に爆撃するという、最悪の「国家テロリズム」を発動する。
日本にあって、「テロ国家=北朝鮮」と感情的に言いつのる者たちが、つい半世紀前までは自分の国こそが「テロ国家」であったことを忘れており(あるいは忘れたふりをしており)、その対外的な責任をいまだ果たしていないことによって、「過去」は「現在」であり続けていることに無自覚なことも、片腹痛いことだ。
これは、金正日が拉致に関してとるべき責任と相殺する論理ではない。主体的に取るべき責任の論理だ。
このように、「テロ」「テロリズム」をめぐっては、他のいかなることについてもそうだが、支配的な言語操作の本質を暴露し、これとたたかうことが必要だ。そのように考える時、私たちに残る主要な課題はふたつあるように思える。
一、テロ(暴力)をめぐって国家が用いる詐術は、「国家テロリズム」の存在を否定すること以外にもある。テロ(暴力)を狭義に理解することである。J・ガルトゥングは言う。
「狭義の暴力概念によれば、肉体的無力化または健康の剥奪という行為(その極端な形態が殺人行為である)が、行為主体により意図的に行なわれた場合にのみ暴力が行使されたことになる。
もし暴力の意味することがこれにつきるなら、そして平和がこの意味での暴力の否定とみなされるならば、理念としての平和を追求するうえで、この暴力概念をより広く定義することがぜひとも必要となる」(『構造的暴力と平和』高柳・塩谷・酒井訳、中央大学出版部)。
戦争がない状態でも、第三世界地域は、飢え・貧困・栄養失調・人権侵害によって痛めつけられる。
多国籍企業の活動、貿易自由化、WTO(世界貿易機関)など先進国の利益を優先して組み立てられる経済秩序が「構造的暴力」となって第三世界に襲いかかる。
ペルー人質事件や「9・11」などの「テロリズム」は、この視点なくして把握することも、解決することもできない。
二、 剥き出しの暴力と洗練された構造的暴力によって支えられた支配的秩序への抵抗を試みる運動も、そのうえで作り出された体制も、「テロ」「テロリズム」の負の側面から自由ではない。
ボリシェヴィキから金世襲体制まで「テロリズム」が横行し、宗教的原理主義派の無差別テロが世界中で吹き荒れている現実は、私たちが総体として、いまだこの問題に無自覚のままでいることを示している。
この堪え難い「ひどさ」に慣れてしまうことなく、変質の過程を分析しうる、冷静な判断力が必要だ。「北朝鮮=日本」問題は、現在におけるその試金石である。
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