去る 3月 1日から 4日にかけて、キューバ国家評議会議長フィデル・カストロが来日した。
クアラルンプールで開かれた非同盟諸国会議に出席し、その後中国とベトナムを訪問し、日本へは「給油」目的の非公式訪問であった。
どんな国際会議で発言しても、政治的・経済的な世界秩序のあり方に関して、譲ることのない原則的な批判の立場ゆえ常に注目される人物だが、今回は目立たぬようにひたすら心がけたような訪問で、首相・外相らとは会談したが記者会見はすべて断り、したがってメディアで大きく報道されることも、極端に少なかった。
20世紀の社会主義革命と国際政治を顧みるうえでの、(賛否いずれの立場に立つにせよ)その存在の重要性を思えば、世界(とキューバ)が直面する今日の諸問題について彼の考えを聞くことができなかったことは残念なことではあった。
これを機に、カストロの訪日や、アフガニスタンやイラク情勢に関わって何かと話題になるキューバをめぐる状況について、このところ私が考えていることに触れておきたい。
カストロは短い滞在期日のほぼ半分を広島訪問に当てた。
原爆慰霊碑に献花し、資料館を見学した。「まったく罪のない広島と長崎の犠牲者に哀悼の意を表することは長年の願いだった」という。
この態度は、彼の盟友チェ・ゲバラのそれを思い起させる。
ゲバラはキューバ革命勝利の年=1959年に経済使節団の団長として来日している。私はすでに別な文章でも触れたことがあるが、新生キューバの在東京大使館は日本外務省との打ち合せで、ゲバラが第二次大戦で死んだ無名戦士の墓に詣でる予定を組んでいた。
「行かない。数百万のアジア人を殺した帝国主義の軍隊じゃないか。絶対に行かない。行きたいのは広島だ。アメリカ人が10万人の日本人を殺した場所だ」とゲバラは言った(Jon Lee Anderson, CHEGUEVARA, A Revolutionary Life, Bantam Press,1997)。
外交上のしきたりは踏まなければ、と大使館員は困惑したが、ゲバラは拒否し、広島へ行った。
「米国にこんなにまでされてなお、君たちは米国の言いなりになるのか」と、原爆資料館を案内した日本人に安保体制の妥当性如何を問うたといわれる。1959年段階の認識としてはきわめて先駆的なものと思い、私が大事に記憶しているエピソードだ。
1967年ボリビアでの死後、ゲバラが世界的に有名な人物になって以降、原爆資料館には館内を見学中のゲバラの写真が展示されているという(私は今まで気づかなかった)。
カストロは今回、その写真を見て、もし先にこの写真の存在を知っていたら、このパネルと並んで献花したのに、と語ったと伝えられる。カストロはまた昼食会の挨拶で、「1962年のミサイル危機の時に、私たちももう少しで核の犠牲になるところだった。広島の皆さんと危機感を分かち合えると思う」と語った( 3月 4日付北海道新聞)。
ミサイル危機の問題は、ヨリ広い問題意識で捉えることが必要だと思える。昨年はミサイル危機から40周年を迎えたこともあって、キューバ・米国・ソ連(当時)の政権担当者による国際会議がハバナで開かれた。
カストロやマクナマラ(元米国防長官)も参加したこの会議では、ソ連原潜が核魚雷を発射する寸前までいっていたとか、そのときどきで微妙に発言を変えてきたカストロが、ミサイル配備を強行したのはソ連の意思で、キューバは乗り気ではなかったと語ったなど、新事実が明らかにされた。
現在のイラク情勢との関係で重要なことは、次の点だろう。ブッシュには、キューバ・ミサイル危機に、現在のイラクを重ね合わせる発言が昨年来目立つ。
「ケネディ大統領は力を誇示しキューバへの先制攻撃を望んだからこそ、危機を回避できた」とする昨年10月 7日の演説はその典型だ。
これにはどんな批判も可能だが、マクナマラの言葉でそれをさせるのが有効だろう。
「ケネディ政権は当時、先制攻撃など考えていなかった。当時、米国は核ミサイルを運ぶソ連艦船を調べるために海上封鎖し、ソ連の撤退を促した。先制攻撃とは逆だった」(02年10月13日付毎日新聞)。
ケネディの施政全体には批判をもつ私だが、彼が、ミサイル危機に際してキューバ攻撃を進言する多くの顧問とは逆の政策を選択したこと、それだけにブッシュがきわめて恣意的な歴史解釈に耽っていることは確かだろう。
キューバやベトナムに対する過った政策の最高責任者というべきマクナマラや、当時の大統領特別補佐官ソレンセンらの「反省」[特にソレンセンは、キューバに対して行なったサボタージュ(破壊活動)に関して、昨年の会議の際キューバ側に個人的に謝罪している]を顧みず、現在の米国のイラク政策は組み立てられている。
キューバをめぐっていまひとつ忘れるわけにはいかないことは、02年1月以来キューバ・グアンタナモの米軍基地に収容されている40ヵ国 600人にも及ぶアル・カーイダ兵容疑者の命運だ。
革命後も返還に応ぜずキューバに居座りを続けている米軍がこの基地に収容した人びとは、米国の言い分によれば、「戦時捕虜ではなく非合法戦闘員だから裁判は不要」だという。
昨年10月ごく一部の人が釈放されたが、自称90歳や105歳の高齢者も「ただの農民」も逮捕され、劣悪な処遇を受けていたとの報告がなされている。
最近は、収容されている人びとのなかに、自殺者が増えているという報道もなされたばかりだ。
国際的な監視の下にもおかれず、裁判をすら経ないままに続けられている拘禁状態が、きわめて非人道的な限界点に達していることを示しているのだと思える。
キューバをめぐる話題はほかにもある。ソ連崩壊で援助が途絶え、存亡の危機に陥ったが、「都市を耕す」有機農業運動の成功で「キューバが世界のための有機農業研究所になり」、食糧危機を脱したとの報告もある(吉田太郎『200万都市が有機野菜で自給できるわけ:農業都市大国キューバ・リポート』築地書館、2002年、など)。
「キューバは社会主義国家」と規定していた憲法第一条を、これは「放棄しえないものであり、キューバは決して資本主義に戻ることはない」と改めたという報道も昨年 6月になされた。
憲法上のしばりで体制不変を謳うとは、「乱心したか、カストロ」と思わせるような本末転倒の道筋だと思える。
いずれにせよ、関心のある小さな国、そこに生きる人びとの視点から世界を見ると、史上最高の愚かな大統領と首相の言動や、批判精神を喪失したマスメディアの報道に頼るばかりでは見えてこない、世界のさまざまな形が見えてくる。
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