オウム真理教事件の公判が始まった当初、各紙は、被告・弁護人・検事・判事のやりとりをほぼ二面全体を使って報道していた。
詳しく読みながら、多くの傍聴記者が、公判廷での麻原の表情と様子をことさら微細に(不必要と思えるほどに)記述すること、職能として当然の弁護活動を行なう弁護人の言動を「裁判引き延ばし」のためのものと捉えがちであることに、つねに違和感をおぼえた。それでも、紙面に掲載される当事者のやりとりの要約自体は、客観的な正確さを保つよう心がけているものとばかり思い込んでいた。
ところが、1999年12月、麻原の実質的な主任弁護人を務めていた安田好弘弁護士が、或る容疑で不当逮捕された背景に不審をいだき、公判の過程をふりかえってみた。
安田弁護士は、オウム事件の事実関係それ自体を徹底的に洗い直し、警察は、地下鉄サリン事件以前にオウムがサリンを撒くかもしれないことを察知していたのではないかという地点にまで、究明が及びつつあったことがわかってきた(渡辺脩『麻原裁判の法廷から』、晩聲社、1998)。
その論点が展開されていた日の公判記録を、各紙の紙面に立ち戻って調べてみた。すると、弁護団団長・渡辺が述べている内容と、各紙の公判要約の内容は、とても同じ日の法廷報告とは思えないほどに、ずれていることがわかった。
「オウム憎し」の感情を、弁護団の弁護活動それ自体にも向けていたメディアの報道姿勢は、真相解明のためにきわめて重要な論点を見失うまでに偏向していたのではないか、と思った。
また、今年初頭、必要にかられて、1965年の日韓条約締結交渉のころの国会審議の中身を検討する機会があった。
重要なところは、議事録にまでさかのぼって検討したり、新聞に載る質疑内容の要約を読んだりして、時に両者を比較しながら、質疑の内容を「まとめる」ことの難しさを実感した。
言葉を換えるなら、質問する政治家と、答弁に立つ閣僚や官僚というものは、具体的な言葉として、また言外の表現として、実に多くのことを語っているものだな、と感じた。
ある程度は止むを得ないこととはいえ、紙面にまとめられたり、テレビ・ニュースとして圧縮されると、実に多くの意味合いが消えていく。それだけに、あれこれの問答の本質はどこにあるのかを見きわめることが、報道者にも読者・視聴者にも大事な」ことだと、あらためて感じた。
そんなことを思いながら、共産党委員長志位が10月1日の衆議院予算委員会で行なった総括質問を詳しく報じた3日付「しんぶん赤旗」をていねいに読んでみた。
NHKのテレビやラジオでは中継しているらしいが、仕事中で視聴するわけにもいかず、また現首相が行なう答弁の、破廉恥なまでの奇天烈さは、すでに十分わかってはいるが、こうなると「怖いもの見たさ」のような心境だった。
聞きしにまさる驚きであった。志位は、俗称イラク支援法案が成立してもイラクへ自衛隊を「派遣する選択肢と派遣しない選択肢がある」と7月末に語っていた首相が、9月上旬には「行く選択肢しかありえない」と断言した根拠を問う。
志位は、もちろん、現地の治安状況を見て自衛隊早期派遣に慎重姿勢を示した日本政府のあり方に業を煮やした米国務副長官アーミテージが、8月末に日本政府代表に向かって「これは問題だ」「逃げるな」「お茶会じゃない」などと言って恫喝したという事件を挟み込んで、首相の「変心」の根拠を炙り出したいのだ。
これに対して、首相はひたすら逃げる。はぐらかす。論点をずらす。聞かれてもいないことを長々を話す。
私が傍聴している国会記者だったならば、この答弁をいったいどのように「まとめる」ことができようか、と途方に暮れることは必定だ。それほどに無内容な、何を言っているのかがわからない、「表現」以前の言葉を首相は発している。したがって「問答」にもならない。
それでも、テレビ・ニュースや新聞記事で断片化してしまうと、なにかしら「問答」「質疑」が行なわれているような「まとめ方」がされるのだろう。
9月23日の国連総会でアナン事務局長は、米英軍の先制攻撃戦略を批判する演説を、めずらしくも行なったが、首相によれば、それは「一般論として武力行使のあり方について問題提起をした」ことになる。
アナンの批判の鉾先は米国に向いているのではないかと問う志位に、「それはアナンさんにじかに聞かないとわからない」と惚ける。人が語った言葉の本質を、どこで正確に把握するかという客観的な作業もなし得ない人物であることが、よくわかる。
共産党に与えられる質問時間は限られている。志位は、「質問に答えていない」と繰り返すが、制限時間を気にして、論点を次々と移さざるを得ない。「赤旗」二面を隈なく占める全文を読んだはいいが、実に索漠たる気持ちのみが残って、空しい。
その首相は、バリ島での日韓中首脳会談でも、相も変わらず「日本人拉致、核、ミサイルの問題を包括的な解決」を主張している。
日朝間でしか解決できない拉致問題を、どんな国際的な場にでも持ち出し、自主的解決の道をまったく探ろうとしない日本政府の態度を見て、せせら笑う外国の政治家やジャーナリストもいよう。
中国は「中朝友好協力相互援助条約」から「有事の際に双方の国が軍事介入する」ことを定めた項目の削除を求めて、北朝鮮との交渉を求めるとの報道もある(9月26日付東京新聞)。
米朝戦争へ中国が自動的に参戦する事態を防ぐ、現実的な手立てだ。老練な政治家なら、それを米朝戦争を避けるための一方法にする工夫もしよう。
どこの政府にせよ、国家政治のあり方に過大な期待をもつことは禁物だとは知りつつも、まだしも、自分で考えて自前の政策を模索する動きは、近隣の諸国にも見える。
この国の政治家の言葉をじっくりと読むことによって心に残る空虚さは、国際的な水準で見て、途方もないもののように思える。
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